第4話 軽音の君、沈黙のギター
放送室の扉は、意外と軽い。金属の重さはあるのに、鍵が外れていると、空気の圧でふわりと引かれる。吸い込まれるみたいに中へ入ると、いつもの匂いがした。熱い回路の匂い、古いスポンジの匂い、ケーブルのビニールと埃を混ぜた匂い。俺はブースのフェーダーをゼロに落としてから、壁のメトロノームを指先で弾いた。
カチ。カチ。カチ。
一定の拍は、心拍をまっすぐに矯正してくれる。ずっと早いとしんどいし、遅すぎると落ちる。四十五。四十八。五十。耳の中の自分と重ねてから、俺はダイヤルを五十二に止めた。昼休みの二曲目をチャイムにちょうど重ねるなら、ここがいい。三分の遅れまで計算に入れる。針を指でつまみ、止める。息を整える。
ギターケースは、机の下。黒いソフトケースの上から、手を置く。弦は張ってあるけど、しばらく音を出していない。グリップの場所を探すように持ち上げ、肩にかけ、ストラップを絞める。無音のまま、コードを押さえるだけ押さえて、指先の痛みだけを確かめた。ライトが消えたステージにひとりで立つ夢を、たまに見る。音のないギターは、夢の中でも黙っている。
「……誰か、いるの?」
小窓の向こうの廊下から、声。女の子の声だ。覗きこんだ黒い瞳が合って、俺は小さく息を呑む。新入部員の、詩音って子。たぶん文芸部の一年。前にも何度か廊下で見た。放送が終わった後、扉が開くのを待っているみたいに立っていた。小動物みたいな気配。けれど目は強い。
俺は鍵を回してドアを開けた。「ごめん。驚かせた?」
彼女は首を横に振る。「いえ。……あの、昼に曲を流してるの、あなたですよね」
「たぶん、それ俺」
「勝手に、すみません。放課後に覗いちゃって」
「こっちこそ。鍵、閉め忘れてた。危ない」
言いながら、言葉の重さを量る。危ない、ってほどでもない。ただ、ここは好きな場所だ。勝手に入りこまれると、少しだけ空気が乱れる。誰かの寝室に足を踏み入れるような、カーテンに触れた指先の湿り気みたいな。
「昼の“音楽リクエスト”、非公式って聞きました」
「うん。昔からの伝統らしいから、続けてる。先生たちも黙認」
「流している曲、……鶴見先輩が好きだった曲、ですよね」
彼女は真正面から言ってきた。曖昧さがない。喉の奥が冷たくなる。俺は答えなきゃいけない。嘘はやめようと思った。嘘は、音を濁す。
「そう。あいつが、好きだったインディーズ。昼だけ、二曲。リクエストボックスは形だけで、ほとんど俺の勝手。ごめん」
「謝らないでください。……あの、ありがとうございます。助かってる人、たぶん、たくさんいます」
助かってる。安い言葉ではないことが、彼女の顔でわかる。薄暗いブースの中で、詩音の瞳がゆっくり潤んでいく。涙の光を、見てしまう。
「俺は、届けばいいって思ってるだけで」
「届いてます」
即答だった。音が、ちゃんと届いていると、言われたみたいで。ギターのネックの目盛りが、脈打つ。俺の背中が、ほんの少し軽くなる。
彼女は、メトロノームに視線を移した。「拍、合わせてるんですね」
「二曲目のサビ落ちが、昼休みの終わりのチャイムに重なると気持ちいいから」
「三分のズレまで、入れてます?」
俺は笑う。「入れてる。ここ、三分遅れてるから」
「どうして、三分なんでしょう」
「さちの言い訳の定番が“三分遅刻”だったからじゃない?」
出てしまった。自然に。ここで出していいのか迷ったけど、出た。詩音の肩が小さく揺れる。「定番……?」
「“ごめん、三分遅刻”。毎回、三分。五分のときも、十分のときも、絶対“三分”って言うの。数字が口癖になること、あるだろ。たとえば“やばい”の代わりに“詩的”って言う、とか。あいつの口癖は“三分”。だから、放送室の時計が遅れてるの、俺はちょっと笑えた」
「笑えた?」
「怒る人は怒ると思うけど、俺は笑えた。……悪い意味じゃないよ」
詩音はうつむき、袖で目の端を拭った。「わかります。そういうの、あります」
部屋の空気が、少しだけ緩む。俺はギターのボリュームをゼロにしたまま、ピックで一度だけ弦を弾いた。誰にも聞こえない音が、指先にだけ生まれて消えた。沈黙のギターは、罪の重さを軽くはしてくれない。でも、手の中に“重さがある”と教えてくれる。
「君、文芸部?」
「はい。一年の詩音です。……放課後、ここに来るの、今日が初めてじゃないんです」
「知ってるかも。時々、扉の前に影があるから」
「怖い人、じゃないです」
「知ってる。怖い人は、もっと足音を隠す」
彼女は少し笑った。それから、真剣な顔に戻る。「今日、お話したくて来ました。たぶん、わたし、あなたに事情を聞かなくちゃいけなくて」
「事情?」
「“海までの地図・第5話”。昨日、更新されたやつ。あなたが書きましたか?」
心臓が、明確に跳ねるのがわかった。鼓膜の内側で血の音が弾ける。俺は、首を左右にふった。早くもなく、遅くもなく。メトロノームに合わせるように。
「違う。俺じゃない」
「本当に?」
「本当に。俺が書けるなら、書いてる。……でも、俺には書けない。あの温度」
「温度」
「テキストって、温度があるだろ。熱さの種類。あいつの文章は、夏の砂浜みたいで、俺はアスファルトしか知らない。似せようとしても、焦げるだけ」
詩音は、少しの間、俺を観察するように見た。嘘を探している目だ。俺は嘘つきじゃない、と言い切れる自信はないけど、今は嘘を言ってない、と胸の奥で言い切れる。やがて彼女は、小さくうなずいた。
「でも、一部の比喩が、“曲紹介”の文と同じって、朱里先輩は言ってました」
朱里。名前を聞いただけで空気が張る。文芸部の二年。さちの親友。鋭い人だ。細い糸を拾うのがうまい人。俺が昼の放送で書いてきた短い紹介文、たとえば「波の切れ端」とか「午後の光の溶け残り」とか、そういう言葉。あれが第5話の中に混じっていたのを、朱里は見つけたのかもしれない。
「俺の言葉が混じってるとしたら、それは……拾ってくれたんだろう。誰かが。放送を聴いてる誰かが。俺が“読む側”に回ってるのと同じで、誰かが“聴く側”で拾って、書く側に戻した。それが一番、嬉しい」
「あなたは、“読む側”」
「……半年前の夜、俺は“読まなかった”。既読を、つけなかった。さちからの最後のDMに」
喉に棘が刺さったみたいで、言葉が掠れる。音程が、半音ずつ下がって、やがて音階から落ちた。詩音は黙って聞いている。
「別れた直後に、喧嘩した。言い合いってほどじゃない。たいしたことじゃない。お互い、最後の“正しさ”を取ろうとしただけ。俺が悪かった部分は、いくらでも言える。でも、その夜の一番の問題は、俺がスマホを裏返したことだ。通知が鳴って、名前が出て、俺はそれを伏せた。朝になってからでいい。そう思った。朝になって、……もう返せなかった」
メトロノームが止まっていた。自分で止めたのか、無意識か。カチの余韻が、壁に滲む。俺は指で再び針を弾いた。一定の拍を、無理やり戻す。詩音の肩の呼吸が、わずかに乱れている。俺の話で、彼女の呼吸を乱した。やめなきゃ、と思うのに、止まらない。
「だから俺は、“読む側”で償いたい。俺の書く言葉は、安い。俺の歌う言葉は、半歩遅い。けど、読むことならできる。聴くことなら、できる。昼に曲を流すのは、せめての、それ。だれかが目を上げるきっかけになるかもしれない。だれかが、三分遅れでも間に合うかもしれない。そう思ってる」
詩音は深く息を吸い、吐いた。「……それで、あなたは、ここに?」
「ここは、届く。廊下に人が立ち止まるのが見える。体操服の汗も、購買のパンの匂いも、全部、このガラスを通って混ざる。好きなんだ、ここ」
「鍵、どうしたんですか。放送部のじゃない、旧鍵」
彼女の視線が、俺のポケットに落ちる。銀色の何かが、布の隙間から光っていた。俺は、悟られたと観念して、鍵束を取り出した。真鍮と古い銀色の鍵。先端が少し欠けている。現行のマスターとは違う、昔の支給品。
「これは、放送部の先輩から……いや」
嘘を選びかけて、やめた。嘘をつくと、音が濁る。俺は、正しい音で弾きたい。
「皆川に借りた」
空気が、冷える音がした気がした。ほんとうに音がしたのか、俺の心の中の音か、わからない。詩音の瞳が、焦点を結び直す。彼女の背後の廊下から、足音。ドアの方へ顔を向けると、朱里が立っていた。肩までの髪を結び、薄い色のカーディガン。息が少し上がっている。目は、まっすぐだった。
「皆川から、鍵を?」
「半年前、サイトが落ちた夜に、放送室の回線からメンテしたって、聞いた。回線が安定してるからって。だから俺も、ここから、人に届くことがあると思った。彼は鍵束を持ってて……俺は“使っていいか”って訊いた。彼は“ダメ”って言った。俺は“昼に二曲だけ”って言い張った。それでも“ダメ”って言われて。なのに、隙間に置いてあった」
「置いてあった?」
「ドアの前の、消火器の裏。封筒に入って。正面から渡せないものの置かれ方だと思った。俺は、拾った。これが正しいとはいえない。……でも、俺は返さなかった」
朱里は黙って俺を見た。詩音も。視線は重いけど、敵意ではない。怒っているとも違う。言葉を選び中の目だ。
「第5話は、俺じゃない。ほんとに。文章の温度が違う。あれは、海の水温だ。俺のは、風呂の温度。似てるようで全然違う。俺の曲紹介の文から似た比喩が拾われてるなら、それは、俺の方が嬉しい。俺が“読む側”に回って、拾ったものが、向こうに渡った。そういう回路が生きてるなら、それでいい」
「でも、アクセスログは放送室」と朱里。「時刻は、三分のズレ。あなたはここにいられて、鍵も持っている。……全部、あなたの方向に揃う」
「揃う。でも、俺じゃない」
「誰かを庇ってる?」
「庇ってない。俺は、庇えない性格だ」
「さちの三分遅刻の話、どこで知ったの?」
「俺が付き合ってたから、知ってる。別れたあとも、たぶん、知ってる人は多い。口癖は、伝染する。彼女の周りの言葉は、彼女がいなくなっても、残る」
俺はギターのネックを握り直した。沈黙のまま、押さえる。F。G。C。押さえて離す。押さえて離す。音が出ないからこそ、形だけが残る。形は、嘘をつけない。手が、嘘をつけない。
「さちの“在るいは”も、残る。俺は、彼女の“誤変換”が好きだった。彼女の打鍵の速さを感じられるから。皆川は、あれを直した。直すべきだったのか、わからない。でも、彼が直したから、完成した文もある」
朱里の視線が、ほんの少しだけ揺れた。皆川の名前は、この部屋の空気の温度を下げる。彼は、冷たくはないのに、冷えて見える。たぶん、熱を内側にしまう人だ。俺は外側に流す。だから、相性が悪い。
「皆川と、話した?」朱里。
「昨日、廊下ですれ違っただけ。目は合わなかった。彼は、疲れていた」
「疲れてたね」と詩音。「ずっとログを見てるから」
俺は唇を噛み、メトロノームを見た。針が、また止まっていた。時間は、止めれば止まる。動かされるまで、止まる。俺は針を弾いた。一定の拍が戻る。拍は、人の言葉より、正直だ。ズレたらわかる。重なったら気持ちいい。
「朱里先輩、俺は、鍵を返す。返すべきだった。今日返す」
「返す相手は?」
「皆川」
その名前で、また空気が冷えた。扉の外の廊下の空気まで、温度が下がる。放送室は密閉されているのに、誰かが窓を開けたみたいに。詩音が、肩で息をした。
「皆川は、悪くない。俺は、皆川に借りがある。あいつは、夜に学校に来て、サイトを直した。俺は、その回線の上で、昼に二曲、好き勝手やった。正しい順序ではない。正しい手続きでもない。けど、俺は、正確に“ありがとう”って言えてない。だから、返しにいく」
「それで、全部が解決する?」
「しない。でも、音が一個ずつ、元の位置に戻る」
朱里は目を細め、俺のギターに視線を落とした。「音を出さないんだね」
「出すと、泣くから」
「泣いていいと思う」
「泣くと、手が止まる」
「止めてから、また動かせばいい」
言葉のキャッチボールが、妙に真っ直ぐに飛ぶ。受け止める手のひらが、熱くなる。俺は、ギターをそっと机に横たえた。ストラップを外す。チューナーの電源に触れて、やめる。音は、まだだ。
詩音が、机の端のトレーシングペーパーを見つける。「リクエストの紙」
「放送部の一年が置いてく。たぶん相馬。俺も、たまに書く」
詩音は端っこを指さした。「ここに、小さく、“合言葉、忘れないで”って」
「書いたのは、俺じゃない」
「誰?」
「知らない。けど、見た瞬間、笑ってしまった。……悪い意味じゃない」
朱里が、ゆっくり頷いた。「第5話のラストにも、合言葉が付け足された」
「知ってる。見た。鳥肌が立った」
「鳥肌」
「俺の身体が、正直に反応したってこと。理屈より先に」
俺は時計を見た。壁の掛け時計は、二分五十秒遅れている。毎日数秒、誰かが合わせる。昼のチャイムに合わせるために。俺が。相馬が。誰かが。積み重なって、今のズレになった。ズレが、合図になることもある。三分遅れは、彼女の合言葉だ。遅れは、取り戻せる誓いだ。そう思えば、ズレも怖くない。
「俺は、明日も二曲流す。もし迷惑なら、やめる」
「続けて」詩音。
「続けて」朱里。
同時だった。俺は笑ってしまう。「了解。怒られたら走って逃げる」
「逃げないで。相談して」と朱里。
「する。君ら、頼りになる」
扉の向こうで人が立ち止まる気配がして、俺たちは黙った。足音が遠ざかる。外は、すっかり夕方。ガラスが薄く青い。海の色に似ている。ここから海は見えないのに、時々、見える。たぶん、見たいから。
朱里は鞄から小さなノートを出して、ペンを滑らせた。「明日の昼、放送室の前で。皆で聴く。二曲目、チャイムに合わせて。そこから、もう一回、考える」
「考える?」
「第5話を書いた人が“今、何を必要としてるか”。それを考える。犯人探しじゃなくて、理由を探す。さちが言ってた“読者の定義”通りに」
届くまで読む人。詩音が、小さく復唱する。俺は、胸の中で繰り返す。届くまで聴く。届くまで流す。届くまで、待つ。届くまで、遅れてもいい。三分なら、待てる。
「陽斗」
名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。朱里が、真剣な目でこちらを見る。「皆川が鍵を置いた“気持ち”、あなたは、わかる?」
「想像はできる。彼は、正しい人だ。正しさは時々、誰かを傷つける。でも、彼の正しさは、誰かをひとりにしないための正しさだと、俺は思ってる。だから、置いた。正面から渡せないものを。責任は自分に向くように」
「それなのに、あなたは彼を巻き込むことになる」
「なる。……だから、ちゃんと謝る。“謝罪の曲”でも弾けたらいいんだけど、俺、今は音を出せない。手紙を書く。音のない手紙。彼に。さちに」
沈黙のギターは、そこで重たく笑った気がした。笑い声に聞こえる弦の軋み。俺はケースに戻した。チャックを閉じる音が、メトロノームの拍とずれて、少し不快だった。ずれは、次の拍で合わせればいい。全部、次で合わせていく。
詩音が一歩、近づく。「陽斗先輩。さち先輩のDMに、今から“既読”をつけても、いいんだと思います」
「今から?」
「届くまで、読む人。届くまで、既読にする人。……遅れても、つける」
胸のどこか、古い骨の辺りが、軽く割れる音がした。割れて、息が入る。空気が少し、甘くなる。
「やってみる」
俺はスマホを取り出して、夜のログを遡った。最後のメッセージ。通知は、とっくに埋もれている。名前の横の丸が、半分だけ色がついている気がした。錯覚だ。俺は、そこに指を置いた。押す。表示が開く。吹き出しに、短い文字列。
〈海に行く日の合言葉、忘れないで〉
新しく見えるけれど、昔のやつ。俺の目が、新しくなっただけ。俺は小さく笑った。音のない笑い。涙が、ゆっくりと落ちる。朱里も、詩音も、何も言わなかった。メトロノームだけが、一定でいてくれた。ありがたい。音は、誠実だ。
「皆川に、鍵を返す」
改めて言う。言葉にすると、手が動く。俺は鍵束を握り、ポケットに戻した。銀色が、もう一度だけ光って、布の中に沈む。沈黙のギターと、沈黙の鍵。どちらも、音を出す前の道具だ。正しい手に渡れば、音になる。
「陽斗」
朱里が俺の名前を呼ぶとき、もう少し、優しさが増える。俺は、返事の代わりに、メトロノームを止めた。拍が消える。次の拍は、誰かの足音になる。明日の昼、二曲目のサビ落ちがチャイムに重なる瞬間。廊下で、誰かが立ち止まる。立ち止まった足音が、教えてくれるはずだ。俺たちが、まだ間に合うことを。
扉を開ける。廊下の空気は、思ったより冷たい。階段の向こう、夕焼けの色が薄く残っている。海の色に似ている。ここから海は見えないのに、やっぱり、見える。
「行こう」と俺。「皆川を探す」
詩音がうなずき、朱里が前を歩き出す。三人の足音は、ばらばらで、すぐに揃った。メトロノームみたいに。三分遅れている針でも、今を刻める。遅れた針に合わせて、俺たちが歩幅を変えればいい。そんな気がしていた。
階段を下りながら、俺は心の中でだけ、もう一度、名前を呼んだ。さち。聴こえるか。俺は、届く側になる。読む側にも、聴く側にも、なる。君の三分遅刻を、笑って受け取る側でいる。君の“在るいは”を、無理に直さない側でいる。君の「雨粒の点字」を、何度でも読む側でいる。
沈黙のギターは、肩に戻さない。今日は、音を出さない。明日、チャイムに重なる瞬間まで、しまっておく。音が必要な場所で、ちゃんと鳴るために。
下駄箱の前で、風が吹いた。誰もいない運動場に、砂の匂い。グラウンドの白線の粉。うっすらと塩の匂いが混じる。海は近い。三分遅れでも、間に合う距離。きっと、そういうことだ。
皆川の名前を口にすると、空気がまた少し冷えた。けれど、冷たさは悪い合図じゃない。熱くなりすぎたものを、戻す温度。音を正しく合わせる温度。冷たい空気の中で、俺たちは顔を上げる。鍵はポケットの中で、銀色に黙ったまま。返すべき手のひらの温度を、想像する。謝る言葉を、選ぶ。届くまで、何度でも。




