第3話 コメント欄の住人
文芸部の部室は、放課後になると空気の密度が変わる。蛍光灯の光が柔らかく沈み、窓際の埃が金色に浮く。
詩音は、いつもの席――端っこのパソコンの前に腰を下ろし、ログイン画面を開いた。
《海までの地図・第5話》が更新されてから、二日。
コメント欄は、静かに賑わっていた。
――待ってました。
――また泣かされました。
――「雨粒の点字」、やっぱりこの言葉が好き。
その一行を見つけた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
詩音は、ディスプレイの前で小さく息をのんだ。
「雨粒の点字」――それは、鶴見さちが生前よく使った比喩だった。
“空が言葉を持っていたら、きっと雨粒で書くんだよ”
その言葉に、どれだけ救われたか。
だから、詩音はずっと、匿名でコメントを送っていた。
名前も知られない“読者”として。
ただのひとりとして。
初めてコメントを送ったとき、返信が来た。
〈ありがとう。読んでくれるあなたがいるから、続けられる〉
それが、たった一度の交流だった。
でも、それだけで十分だった。
“生きてていい”と、初めて思えた瞬間だった。
詩音は、マウスを握る手をゆっくり離した。
画面の文字が滲んで見えなくなる。
涙が出ていると気づいたのは、頬に温度を感じたからだった。
「……さちさん」
その声は誰にも聞かれない。
でも、確かにここに残る。
彼女が消えたあとも、言葉が残るように。
* * *
「詩音ちゃん、それ……読んでたの?」
ふと後ろから声をかけられ、詩音は肩を跳ねさせた。
朱里がカーディガンの袖をまくりながら、机の向かいに座る。
その目は、どこか優しい探偵のようだった。
「え、あ、はい。昨日から、何度も」
「わたしも。……すごいよね、第5話」
「“雨粒の点字”って、戻ってきてて」
朱里の指が軽く動き、画面の該当部分をなぞる。
「“戻ってきた”って表現、いいね。ほんとにそんな感じする」
詩音は小さく笑った。
「朱里先輩……私、ずっと内緒にしてたことがあるんです」
「うん」
「“読者コメント”の中で、長文で毎回書いてる人、いるじゃないですか」
「ああ、“青い港”さん?」
「それ、私です」
朱里のまぶたが、ほんの少しだけ揺れた。
「そうだったんだ」
「生前のさち先輩が、一度だけ、私のコメントに返信してくれたんです」
「……本当?」
「本当です。たぶん、あれが、私の人生の中で一番うれしかった日で」
詩音は、ゆっくりと笑った。
でも、その笑みは、すぐ震えた。
「私は、作者にはなれません。でも、“読む”ことで、だれかを救えるなら、それでいいって思ったんです。
……読者でいることも、だれかの命を救えるって、信じたい」
朱里はしばらく黙っていた。
そして、小さく呟いた。
「さちが、最後に言ってた言葉、覚えてる」
「言葉?」
「“読者ってね、届くまで読む人のことだよ”って。……つまり、まだ途中なんだよ。届くまで、読む途中」
朱里の声は、かすかに震えていたけれど、真っすぐだった。
詩音はその言葉を、胸の奥にしまった。
届くまで読む――。
たぶん、今もどこかで誰かが、続きを読んでいる。
* * *
その夜。
詩音はひとり、自室のノートパソコンを開いた。
《海までの地図》のコメント欄をスクロールしながら、ふと気づく。
“本文にはまったく触れず、タイトルのことだけ書くコメント”が、ひとつだけある。
――第1話「海までの地図」:海ってどっちの海?
――第2話「波の声」:波って、まだ聞こえる?
――第3話「灯台と手紙」:灯りは消えた?
――第4話「沈む足跡」:足跡は誰の?
――第5話「雨粒の点字」:読めるようになった?
詩音は、メモ帳を開いてそれぞれの頭文字を並べてみた。
海、波、灯、沈、雨――。
ローマ字にして拾う。U N T A……いや、順番を変えて――SOS。
……これは、偶然?
胸がざわついた。
投稿者の名前は毎回違う。けれど、どのコメントも同じ時間に書かれている。
夜九時三分。
さちが、いつも更新を投稿していた時刻。
詩音は、ブラウザのアドレスバーに視線をやった。
URLの末尾に、ふと“/oldboard=1”という古いパラメータを打ち込む。
前にさちが話していた。
「昔はね、読者専用の掲示板があったんだよ。でももう閉じちゃった」
試しにリターンを押す。
……ページが開いた。
古びたUI。灰色の背景。
タイトルバーに「読者宛て掲示板(非公開)」と表示されている。
書き込みは、五件。最後の投稿は、半年前の日付。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
〈合鍵は、放送室〉
詩音は、喉が鳴る音を聞いた。
タイピングする手が震える。
誰が書いたのかは、もう分からない。
でも、そこに“鍵”があるなら、行くしかない。
* * *
夜の校舎は、思っていたより静かだった。
雨上がりの風が、ガラスを撫でる。
体育館のほうから、誰かがボールを片づける音。
詩音は廊下を抜け、放送室の前で立ち止まった。
ドアは閉まっている。
けれど、隙間から――“音”が漏れていた。
カチ、カチ、カチ。
一定のリズム。
メトロノームの音。
音楽室にあるような、古いアナログのやつ。
まるで、誰かが“拍”を刻んでいるみたいに。
詩音は、息を詰めた。
耳をドアに当てると、音の向こうに、かすかな“呼吸”があった。
細く、掠れて、でも確かに生きている人の音。
震える指で、ドアノブを押す。
……開かない。施錠されている。
その瞬間、メトロノームの音がぴたりと止まった。
静寂。
風が廊下を抜ける。
詩音の鼓動だけが、校舎の中で大きく響く。
――カチ。
もう一度、音が鳴った。
まるで「まだここにいるよ」と言うように。
詩音は、後ずさりした。
足元に、誰かの影が伸びているのに気づく。
背後を振り返ると、廊下の奥、曲がり角のところで人影が動いた。
それは、ほんの一瞬。
制服の袖の影。
そして、消えた。
残ったのは、静かなリズムだけ。
詩音の耳の奥で、再びメトロノームが鳴り出す。
カチ、カチ、カチ――。
一定の拍子。
でも、そこに“言葉”が隠れている気がした。
雨粒の点字のように。
届かない言葉の、残響のように。
詩音は、そっと呟いた。
「届くまで、読むよ。だから、もう一度、教えて」
放送室の扉は答えなかった。
けれど――壁の中から、確かに息を吸う音がした。
その夜、校舎の非常灯のひとつが、誰も触れていないのに、点いた。
メトロノームの拍が止まる。
空気が静まり返る。
そして、廊下の奥のガラスに映った詩音の顔の横に――もうひとつ、影が並んでいた。




