第2話 放送室の時計
ログは、嘘をつかない。少なくとも、人よりは。
放課後の部室で、僕は管理画面を開いたまま、湯気の抜けきった紙コップのココアを指で押しつぶしていた。昨夜、共有サイトに投稿された「海までの地図・第5話」。アクセス元は校内放送室のPC。記録は淡々としているのに、指先が汗ばむのはなぜだろう。
アクセス時刻を時系列で並べてみる。十六時三十八分、ログイン。十六時四十二分、下書き作成。十六時五十六分、保存。十六時五十八分、ログアウト。
そこまでは、いつもの見慣れた数字。けれどページ下部にあるサーバ時刻の付箋と、端末側のクライアント時刻の差分表示が、妙な赤い警告を出していた。
三分のズレ。
大したことがないようで、気になってしまう種の誤差だ。学校のPCはネットワーク時刻同期が基本だが、放送室は独立系統が多い。放送用ソフトが古いと、ネット遮断で運用している可能性もある。つまり、放送室の内蔵時計が三分進んでいるか、遅れているか。その“ズレ”は、誰かの“習慣”に由来することがある。チャイムの秒付けを手で合わせるとか、昼休みの音源開始に合わせて針をちょい回すとか。些細だが、指の癖は機械に跡を残す。
僕はマウスを離れ、顎を軽くこすった。頬の皮膚がざらつく。寝不足の手触りだ。
朱里は今日は遅刻の連絡。お祖母さんの病院に寄ってから来ると言っていた。昨日、彼女は泣きそうな顔で画面を見つめ、僕が「なりすましだ」と言っても、返事を飲み込んだままだった。だから、僕が先に手を動かすことにした。
まずは生徒会。形式上、放送室の鍵は彼らの管理だ。
階段を上がって生徒会室の前に立つと、扉のガラス越しにプリンターの音が聞こえた。ノックする。返事。「どうぞー」
中にいたのは副会長の早坂だった。肩までの黒髪を後ろでまとめ、手元の資料をホチキスで止めている。彼女は仕事が早い。噂に違わず。
「放送室の使用記録、見せてもらっていい?」
「在庫台帳じゃなくて?」
「使用記録。昨日の放課後の」
「昨日はゼロよ。定例放送は朝と昼だけ。放課後は施錠で、引き継ぎにも書いてない」
「昼の“音楽リクエスト”って、正規の当番だけ?」
彼女は一拍置いて、口角を少しだけ上げた。
「非公式の話を、記録には書かないわね」
「つまり、あるんだね。非公式」
「昔からの“伝統”みたいなもの。タイムテーブルが空いてるときに、放送部の一年が、昼休みに二曲だけ流すの。教員は見て見ぬふり。生徒会としても、文化の一環として黙認」
「担当は決まってる?」
「今年は、放送部の相馬。あとは代打で二人。名簿は渡せないけど」
「相馬か……」
「強引な聞き方をされると、教えたくなくなるんだけど?」
早坂は、机に肘をついて僕を見た。目が笑っていない。僕は両手を上げて降参を示す。
「いや、ありがとう。助かった」
「なにが起きてるの?」
「事故報告ではない。……ただ、三分のズレが気になるだけ」
「三分?」
「放送室の時計。誰かが毎日触ってるとしたら、ズレ方にも癖があるかもしれない」
「まじめね、皆川。変なことに気づくのも才能だけど、ほどほどに」
「ほどほどには、苦手なんだ」
生徒会室を出て、廊下の端っこにある放送室へ向かう。扉は金属製で、丸い小窓がついている。中は暗い。カギ穴にキャップがかぶさっている。引き手の冷たさが、指の温度を吸った。
手持ちの合鍵は、ない。正確には「もう使わない」と自分に言い聞かせて保健室のロッカーの奥に隠した。前科がある。半年前、サイトにアクセスが集中して落ちたとき、顧問から“緊急メンテ頼む”のメッセージが来た。あのとき、僕は職員棟の鍵束の所在を知っていて、放送室のPCから直接サーバにアクセスした。放送室の有線回線がいちばん安定しているから。夜の校舎にひとりで入って、薄青い光だけを頼りに、冷却ファンの音を聞きながら復旧処理をした。あれは確かに“前科”だ。頼まれたとはいえ、ログには僕の痕跡が残っている。
扉から離れ、廊下の窓際に立って、手帳を開く。昨日の時刻をもう一度頭の中で組み直す。十六時台のログ。三分のズレ。昼休みの“音楽リクエスト”。非公式当番の相馬。
相馬は放送部の一年。大人しくて、声が薄い。授業では目立たない。けれど昼の放送では、音楽のイントロの置き方が上手かった。二学期の文化祭で、彼が流したBGMで舞台の空気が変わったのを見ている。三分のズレ。リクエストの開始に間に合わせるために、時計の針を触る癖。あるかもしれない。
部室に戻ると、朱里が鞄を抱えて立っていた。肩にかけた髪が跳ねている。
「ごめん、遅くなった。病院、混んでて」
「大丈夫。お祖母さんは?」
「眠ってた。顔色は昨日よりよかった。……で、どう?」
彼女は僕より先に画面を覗き込む。昨夜の第5話は、そのままの場所にあった。僕はスクロールバーをつかんで、本文の中腹まで滑らせる。ある単語でカーソルを止める。
“在るいは”。
《或いは》の誤変換。さちの癖だった。変換候補の一番目を無意識に選んでしまう指の速さ。僕は、生前のさちの原稿から、それを何度も削った。彼女は不満そうに笑って、「皆川くんは石橋に柵を立てるタイプだ」と言った。
指先が震える。目の前の文字列は、矯正前の癖を精密に再現している。これは偶然ではない。辞書登録でもない。真似しようと思って再現できるものではない。再現しようとすれば、逆にぎこちなくなる。僕は知っている。彼女の“リズム”を、朱里と僕と、彼女の原稿を読み込んだ誰かしか知らない。
「朱里」
「うん」
「これ、さちが書いていた頃のクセが、そのまま出てる」
「やっぱり……」
「でも、僕じゃない。僕は直してしまうから」
「わたしでもない。真似はできるけど、ここまで細かくは無理。息継ぎの位置が、さちのままだもん」
画面を見つめる朱里の瞳に、部室の窓が映る。外は薄曇りだ。チャイムが鳴って、廊下に足音が連なる。日常の音が、画面の前にいる僕たちだけを置き去りにする。
「放送室の時計が三分ズレてた」
僕は言った。
「え?」
「ログの差分。多分、毎日触ってる人がいる。非公式のリクエスト当番がいるんだって」
「誰?」
「相馬。あとは代打が二人」
「相馬くん……」
朱里は少し目を伏せる。彼女は、人の名前を口に出すとき、必ず小さく間を置く。軽く扱わないための癖だ。丁寧すぎる癖。でも僕は、その癖を責められない。僕も、人の文字を軽く扱えないタチだ。
「会ってみる?」と僕。
「うん。でも、いきなり“あなたがさちですか”って聞くの、違うよね」
「違う。目的は“犯人捜し”じゃない。……それでも、出会わなきゃわからないこともある」
「皆川くんの言い方、遠回し」
「近道がないだけだよ」
そのとき、通知音が鳴った。画面右下の小さな吹き出しが開く。
《匿名コメント:続き、待ってた》
昨日と同じ定型句。最初の一行。いつも最初に現れていた、あの“読者”。
朱里が息をのむ。「このひと、また最初……」
「IPは毎回違う。VPNだろうね」
「でも、時間は毎回、だいたい同じ。夜の九時台。……さちが投稿していた時間」
「合わせてきてる。誰が?」
「わからない。けど、読者は確かにいる。わたしたちみたいな」
朱里は画面に返信欄を開き、迷って閉じた。指先が宙で止まる。
「わたし、言葉を選びたくなっちゃう。何を書いても、軽くなる気がして」
「なら、今日は書かなくていい。代わりに、僕が手を動かす」
僕は管理ログの詳細に潜り、コメントの到着時刻を秒単位まで見た。昨夜とほぼ同じ秒。サーバ側の時刻は正確だ。やっぱり、ズレているのは放送室側の時計。
僕の頭のどこかで、別の時計が鳴る。半年前の夜の校舎。ひとりでドアを開け、薄暗い部屋に入ったときの黴臭い空気。ラックに収まった音声ミキサーのLED。壁の上部にねじ止めされた掛け時計。針はきっちり合っていた。あの時点では、ズレていなかった。
つまり、ズレは、その後ついた。誰かが毎日少しずつ触ったから。たとえば昼休みの二曲目の落ちを、ちょうど後ろのチャイムに重ねるために。たった数秒のこだわり。けれど、それを毎日繰り返せば、三分の誤差になる。
朱里が、そっと言う。「皆川くん、顔色が悪い」
「自覚はある」
「寝てない?」
「寝てない」
「食べた?」
「食べてない」
「だったら、いったんコンビニ行こう。待ってる」
「いや、先に放送室を見たい」
「鍵、ないよ」
「知ってる」
僕は鞄から細い封筒を取り出した。中には薄い金属の板が入っている。視線を感じた。
「それ、合鍵?」
「厳密には、鍵じゃない。ドアの隙間を…いや、説明は省く。やらないほうがいいものだし」
「やるの?」
「やらない。今日は」
封筒をしまい、深く息を吸った。朱里が少しだけ笑った。僕が踏み越えないラインを、彼女は知っている。僕自身も、もう一度確認したかった。
図書室の裏手にある階段を降りる。放送室の前のベンチに腰をおろし、扉の小窓から中を覗く。暗い。誰もいない。壁の時計は、薄闇の中で静止画のように見え、ほんのわずかに針を動かした。僕は息を止め、数を数える。十、二十、三十。秒針は、僕のスマホのタイマーより、やっぱり遅い。三分ではなく、二分五十秒の遅れ。毎日数秒なら、説明がつく。
ふと、扉の下の隙間から、紙が覗いているのに気づいた。半透明のトレーシングペーパー。端に丸いステッカーで留めてあって、手描きのペンで「リクエスト」と書かれている。引っ張るわけにはいかない。けれど、覗き込むことはできる。ペーパーの上には、潰れた字で曲名がいくつも並んでいた。
「レモネードの夏」「潮騒のまばたき」「向こう岸で会おう」
最後の曲名の横に、小さな丸印。鉛筆の跡。丸印のさらに横に、とても小さな文字で、こう書いてあった。
「合言葉、忘れないで」
僕は背筋を伸ばした。偶然か。誰かのいたずらか。けれど、胸の奥で、別の時計が早くなる。昨日、朱里が画面の前で口の中で繰り返した言葉。合言葉。海に行く日の。さちが最後にメッセージで打った短い一文。
夕暮れの廊下を、放送部の一年が通り過ぎた。相馬だ。痩せて長い腕。足音が軽い。目が合うと、彼は少し驚いて、会釈して走り去った。呼び止めようか迷ったが、今はやめた。追い詰める気配を出したくない。夜の校舎は、音がよく響く。真実よりも先に、噂が部屋の中を走り回る。
戻る途中、掲示板の前で足を止める。文化祭の写真が貼り出されていた。ステージ。照明。スモーク。放送部のブース。相馬がヘッドホンを首にかけて、フェーダーを操作している。彼の手元のタイムコードの横に、小さな紙片。そこにも「向こう岸で会おう」と手書きが見えた。彼にとっての“曲”がある。さちの物語の中にも、そういう“曲”がいくつもあった。
部室に戻ると、朱里が椅子を回転させて僕を見た。「どうだった?」
「時計は二分五十秒遅れてる。毎日だれかが触ってる。昼のリクエストの紙に、『合言葉、忘れないで』って書いてあった」
「本当に?」
「トレーシングペーパーの隅。小さく」
「相馬くん?」
「わからない。手書きは潰れていて判別不能」
朱里は唇を噛んだ。彼女は、噛むと小さな白い歯形がつく。残酷なほど真面目な癖だ。「合言葉」が、また部室の空気を変える。部屋の壁紙の色が、一段階青くなる。そんな感覚。
僕は再び画面に向かう。第5話の末尾までスクロールする。昨夜はそこまで注意が回らなかった。僕は文字を追う。彼女の台詞の終わり方。段落の切り方。比喩の温度。
そして、ラスト行に、それはあった。
読んでくれてありがとう。海は近い。
見慣れた定型句。彼女が連載の区切りにいつも置いた印。終わりじゃなくて「続きの手前」。今まで何度も消しては戻して、最終的に「残そう」と僕と喧嘩して決めた小さな旗印。
指が止まる。キーボードに置いた手の重さが、急にわからなくなる。
「朱里」
「うん」
「……ほんとに、君なのか」
僕はモニターに向かって、誰にも届かない声でつぶやいていた。画面はもちろん返事をしない。けれど、右下の通知ランプが一度だけ点滅した。錯覚だ。あるいは、ただのプッシュ通知の遅延だ。
管理画面の別タブに、未送信のドラフトが点滅していた。タイトルが表示されている。
「謝罪の手紙」
身に覚えがある。僕が、半年前に書きかけて放置したままのやつだ。サイトが落ちた夜、復旧させたあと、明け方の目で文章を打った。さちの“在るいは”を消し続けたこと。タイミングを急かしたこと。アクセス数のグラフで価値を測る癖に、彼女の“終わらせたくない”を軽く見たこと。僕の中の編集者が、彼女の中の作家を追い込んだかもしれないと思った夜。けれど、送れなかった。彼女は翌日、いなくなったから。
ドラフトの横に、小さな丸いアイコンがついている。共同編集者の表示。そこに、灰色の“さち”のサムネイル。もちろん、死者のアイコンに意味はない。サイトの仕様がバグっているだけだ。未送信のドラフトの閲覧履歴を開く。閲覧時刻が昨夜に一つ。放送室のPCから。
誰かが、僕の「謝罪の手紙」を開いた。
目の奥が熱くなるのを、なんとかやり過ごす。泣くことから、遠ざかってきた。泣くと、判断が鈍るから。けれど今は、鈍ってもいい気がした。鈍い方が、見落とさないこともある。
「皆川くん」
「なに」
「わたし、知ってるよ。君がずっと自分を責めてるの」
「責めるべき時はある」
「でも、さちは、君の編集が嫌いじゃなかった。何度も言ってた。『皆川くんは、わたしを一人にしない』って」
「そんなポエム、メッセージに書いてあった?」
「書いてあった。スクショある」
朱里はスマホを差し出した。画面には淡いグレーの吹き出し。ほんとうに“書いてあった”。知らなかった。僕の手のひらの体温が、少し戻る。
「ドラフト、送る?」
朱里が訊く。
「まだだ。まだ僕は、言葉を選べない」
「じゃあ、今は保存して」
僕はうなずき、ドラフトを閉じた。違うタブを開く。ユーザー権限。パスワード変更履歴。アクセス拒否リストの設定。手は動く。頭は冷えてきた。感情と作業を別の抽斗に入れる。いつもの自分のやり方だ。
「相馬に話を聞こう。できれば昼休み、放送の前に」
「わかった。わたしも行く」
「いや、僕が先に一人で。警戒させないために」
「一人で抱えないで」
「抱えない。共有はする。だってこれは、僕一人の前科じゃない。僕一人の物語でもない」
朱里は、やわらかく笑った。彼女の笑顔は、無理をしない。少し歪んで、でもまっすぐだ。僕は救われた気がした。
その瞬間、画面上部に微かな変化が走った。ページが更新されたのだ。自動? いや、違う。下書き一覧に、新しいファイルが生まれた。
「海までの地図・第5話(改)」
開く。本文は昨夜と同じ。ラスト行だけが、ほんの少しだけ違っていた。
読んでくれてありがとう。海は近い。合言葉、忘れないで。
さちの定型句に、ひとつのフレーズが足された。合言葉。僕と朱里と、放送室のトレーシングペーパーだけが知っている、と信じていた合言葉が。
ページ下部の「編集者」欄には、二つの灰色の丸。僕と、さち。灰色は、オフライン。けれど、灰色でも、何かは動く。針は、三分遅れながらも止まらない。
「……本当に、君なのか」
もう一度つぶやいた声は、さっきよりも小さかった。小さくしないと、崩れそうだった。
未送信のドラフトの横で、タイトルが点滅する。「謝罪の手紙」。送信ボタンの赤が、やけに明るい。押せば、何かが動く気がする。押さなければ、何かが遠のく気もする。
僕は、手を膝に置いた。今は押さない。今は会いに行く。放送室の前で、二分五十秒の遅れを数え、昼のリクエストの二曲目に耳を澄ます。相馬の指の動きと、チャイムの被り方を観察する。誰かの習慣の形を、借り物じゃない目で見る。
机の上の紙コップを握り潰すと、乾いた音がした。かさぶたを剥がすみたいな音だった。僕は立ち上がる。朱里が椅子を蹴って付いてくる。
廊下に出ると、窓の外に薄い海の色が広がっていた。もちろん、ここから海なんて見えるはずがない。見えているのは雲の切れ間。けれど、見間違えるくらいには、海が近かった。三分遅れの時計でも、辿り着ける距離に。
読んでくれてありがとう。海は近い。
彼女の言葉が、胸の中で繰り返される。届くまで、何度でも。
昼まで、あと十七時間と少し。針は遅れている。けれど、僕は歩き出す。遅れた針に合わせて、今度は人間のほうが速度を変える番だ。
謝罪の手紙は、まだ送らない。送る日は、きっと合言葉の日だ。海に行く日の。僕たちが、同じ針を見て立つ日の。
そして僕は、心の中でだけ、はっきりと口にした。
さち。聞こえるか。僕は、今度こそ“直す”ためじゃなく、“届く”ために書く。君の在るいはも、君の間違いも、ぜんぶ含めて。僕の三分遅れで、君の今に追いつく。
放送室の時計は、扉の向こうで、静かに時を刻んでいる。いいさ。遅れているなら、待てばいい。早すぎるなら、呼吸を浅くすればいい。音楽の二曲目がチャイムに重なる瞬間を狙うみたいに、僕たちは、言葉の落ちる位置を合わせ続ける。
合言葉、忘れないで。
忘れない。忘れないよ。




