SS 波が二度、大きくなる頃
拍手の音が、また流れた。
昼の二曲目のサビが落ちる直前、放送はふっと小さくなって、代わりに手のひらが合わさる音が校舎の隅々まで行き届く。ぱち、ぱち。少し間を置いて、またぱち。いたずらにしては真面目で、注意喚起にしてはやさしすぎる音。私は黒板の前でチョークを握ったまま、天井のスピーカーを見上げる。その瞬間だけ、掃除当番の名前も、係の枠線も、粉の白さも、全部どうでもよくなる。音は短い。短いのに、教室の空気の層を一段下げてくれる。深く息ができる高さに。
窓際三列目の席に、手のひらをそっと置くのが私の癖になった。姉のさちがよく座っていた場所。夏が近づくと、木の匂いの中に潮の匂いが混ざる。校舎の窓から海は見えないけれど、海は、見えない場所でも匂いで届く。匂いで届くものは、だいたい嘘をつかない。
放課後、文芸部の部室では、机の上にしおりが四本並んでいた。どれも紙の幅が少しずつ違って、端の折り目の固さにも性格が出る。裏に短い文字。「届いた」「聞こえた」「間に合った」「読んだ」。誰の字か、すぐには分からない。それでいい。無名の返事は、匿名の優しさの正しい形だ。
皆川先輩は配線を触ってから、いつものように椅子を半歩だけ後ろに引く。詩音はノートPCを開き、指先をホームポジションに置いたまま動かさない。陽斗は、ギターの代わりに旧鍵の重さを確かめ、すぐポケットに戻す。顧問の河合先生は、教卓の角に指を置いて、そこを支点に視線だけ動かす。
「“読者のためのあとがき”、掲示できたか」
「はい」
私はプリントを二枚持ち上げる。一枚は部室用、もう一枚は図書室へ。黒い文字が、白い紙の上で浮いて見えた。
――読んでくれて、ありがとう。
タイトルでも、告知でもない。あとがきの、最初で最後の一行。
河合先生はうなずき、廊下に一度だけ視線を投げてから言った。
「線は俺が引く。ただ、歩幅はお前らで決めろ。……よく読め。それだけだ」
“よく読め”。何度聞いても、骨に染みる。私は、財布の中のカードをもう一度だけ指で押さえた。角は、触るたびに丸くなる。丸くなっても、文字は読める。
――海に行く日の合言葉、忘れないで。
*
潮見ヶ丘の記念日の夕方、私たちは海へ向かった。雲は薄く、光は柔らかい。突堤の先には、何人かの人影が散らばっている。白い折り紙の舟を手にした人、しおりを束ねた輪ゴムを指にかけている人、何も持たずに海を見ている人。誰も声を荒げない。波の音に合わせて呼吸を揃えるみたいに、立ち位置を決める。
フードを被った小柄な人影が、先端でスマホを掲げ、画面をこちらへ向けた。「最終話・予告」の文字が一瞬反射して、それから冒頭の一文が滲み出る。
――読んでくれて、ありがとう。
さちが私へ最初に送ってきたメールの一行。作品でも、告白でもない。読者である私へ、最初に届いた言葉。
私はポケットからカードを取り出し、風に負けないように声を出す。
「海に行く日の合言葉、忘れないで」
波が二度、大きくなる。フードの人はゆっくり頷き、フードを外した。
「鶴見あかりです。さちの妹です」
中学生の面影を残した目が、まっすぐこちらを射抜く。強すぎないのに逃げ場がない目。やさしいのに、言い訳の余地を残さない目。彼女はスマホを少し近づける。編集履歴の一覧に、見知った名前と匿名のIDが並ぶ。皆川。陽斗。詩音。Reader_Akari。
そして、私が文芸部に入る前に使っていた古い匿名ID。読者ノートの編集者の一人として、そこに残っている。私は膝から力が抜けて、突堤の硬さで正気を保った。私はずっと書いていないつもりでいた。読み、要約し、拍手を押す。それが読者だと思っていた。でも私は、読者ノートを“編んでいた”。作者ではないけれど、編む側の指だった。
「あの、ずっと……黙っていてごめんなさい」
あかりは風を避けるように半歩ずれ、続けた。
「姉の机から、ノートが出てきました。『r-map』『読者ノート』『未送信』。鉛筆の字で、ゆっくり書いてありました。『いつか、読者の言葉で終わらせたい』って。だから、私は編集者としてログインしました。姉のノートと、皆さんの“読者ノート”を束ねる役で」
皆川先輩は、泣きながら謝った。
「第4話を整えた。届くように、正しくしようとして、彼女の息を薄めてしまった。ごめん」
あかりは首を振る。
「整える人も、書く人も、読む人も、同じ本の中にいると思います。ページをめくる役と、紙を綴じる役と、文字を書く役。ぜんぶがないと、本は本にならない。姉は、そう書いていました」
陽斗は、最後のリクエスト曲の段取りを小声で確認し、ポケットの旧鍵をうつむきかげんに掲げた。
「顧問に返す。音のない期間を、ちゃんと作る」
詩音は、コメント欄に初めて短い言葉だけを残した。
「届いた」
四文字が、海風に混ざって消える。それでも、画面の上で灯る灰色の小さな音は、誰にでも読める。
やがて、顧問の河合先生が遅れて突堤に現れ、スマホの画面の拍手ボタンを無造作に一回押した。
「よく読んだ」
それだけ言って、海を見た。波が二度、大きくなる。合図は、自然の側に任せるのがいちばん正確だ。
*
最終話の公開は、夕方の少し手前に設定された。本文の最後に、告白は置かない。その代わりに、無名の拍手が並ぶ仕掛けを入れる。拍手の絵文字が、名前のない光の粒みたいに、控えめに点滅する。
公開。
ひとつ。
間があって、ふたつ。
同時に、みっつ。
数えるのをやめたところから、静けさがはっきり形になる。静けさは、終わりの色をしていない。座るための椅子に似ている。長く立っていた脚に血が戻る感じ。
部室の掲示板の端に、「読んでくれて、ありがとう」の紙を貼った。図書室の端末にも、同じ一行が表示された。放送室の時計は相変わらず三分遅れている。誰も直さない。遅れは、もう不具合ではなく、私たちの歩幅の名前になったから。
私は最下段の入力欄にカーソルを置き、短く打った。
――窓際三列目の冷めた木の匂いの上で、息継ぎの位置を忘れないと決めました。届くまで読みます。届いたら、海で合言葉を言います。
送信。
灰色の文字が、静かに並ぶ。すぐ下に、匿名の一行が追加される。
――拍手は、読者の息の数。
その一行の正しさに、私は少し笑ってしまった。息継ぎを数えるんじゃなくて、息を吸った回数を覚えておけばいい。半年前、詩音を救った匿名のコメントが、ここでもう一度効いてくる。
*
夏休みの入り口は、何も起きないふりをして近づいてくる。ホームルームで担任が遅刻を叱り、数学の時間に分数が黒板に線を引き、体育の授業で笛が鳴る。昼の放送は二曲目が一本になり、無音の時間が挟まる。無音の間に、教室の生活音がよく聞こえる。紙の擦れる音、ペンの微かなきしみ、息を飲み込む喉の細い動き。
拍手の音は、もう流れない。流さなくても、画面の上で増えていく。増えない日もある。その日はそれでいい。増えないことを気に病む必要はない。光は数で価値が決まらない。
河合先生は戸締りをいつもより丁寧にし、何も言わずに部室をあとにする。皆川先輩は“謝罪の手紙”のドラフトを削除し、“読者ノートのまとめ”を作る。詩音は今日も一行で終える。「窓の光が、息の長さを教えた」。陽斗は、階段の踊り場でだけギターを鳴らす。音は小さい。けれど、確かだ。
私は財布の定位置にカードを戻した。角は、さらに丸くなった。それでも読める。読める限り、合図は合図として働く。
――海に行く日の合言葉、忘れないで。
忘れてもいい。思い出せるように、ここに置いておく。それが、置き方の技術だ。私はようやく、それを覚えた。
*
七月の終わり、図書室の端末が一度だけ止まった。砂時計のアイコンが回り続け、いつものページが開かない。司書の先生が肩をすくめ、別の端末へ案内しようとしたとき、画面がふっと白くなって、新しいバナーが浮かび上がった。
“読者のためのあとがき”。
クリックすると、白いページに黒い一行だけ。
――読んでくれて、ありがとう。
その下に、拍手の海。。光の粒は静かに増えたり、止まったりする。止まった時間は、無駄にならない。止まったからこそ見えてくる色がある。
私はマウスから手を離し、画面に映った自分の顔を見た。少しだけ大人に見えた。少しだけ、笑っていた。涙はない。涙は海に預けた。塩で薄まった涙は、誰にも気づかれないやり方で、きっと世界のどこかを潤す。
*
八月の初め、潮が高かった。
私は一人で海に向かった。あかりに知らせるほどの用事ではない。私は私の歩幅で、波が二度大きくなる頃を選ぶ。突堤の先には、誰もいない。風は強くも弱くもない。音を運び、匂いを置き、髪を少しだけ乱す。
カードを取り出し、声にせずに読む。
――海に行く日の合言葉、忘れないで。
返事は言葉では戻ってこない。けれど、確かに返ってくる。鳥が一羽、低く飛び、波がひとつ崩れて、もうひとつ崩れる。砂の上に置いた足が少し沈む。沈むぶんだけ、私はここにいる。
背後で足音がして、名前を呼ばれた。
「朱里」
皆川先輩の声は、遠くからでも整っている。整っているけれど、固くはない。
「まとめ、終わった」
「どこまで」
「最初から。『ありがとう』の一行から、『ありがとう』の一行まで」
「円になった?」
「輪っかというより、くるぶしの高さの水。途切れていないけど、どこからでも入れる」
私は笑う。皆川先輩は、比喩で説明するときの顔をしていた。目の奥だけが楽しそうに光る顔。
「河合先生は?」
「掲示板の前で立ってた。何も言わなかった。あとで『線は引いた。歩幅は見事だった』とだけ言うと思う」
陽斗は来なかった。来る必要はない日もある。詩音は図書室で「今日の要約」を二行に伸ばしているはずだ。二行目には、必ず空気の匂いが入る。彼女の要約はいつも、匂いで終わる。匂いで終わる文は、読んだあとで息ができる。
「朱里」
皆川先輩がもう一度、名前を呼ぶ。
「君の“まとめ”を読んだ。短いのに、最後の座り方が上手かった。どこで覚えた」
「座り方?」
「終わり方とも言う」
「座り方は、図書室で。終わり方は、放送室で。拍手の音と無音の間に椅子があって、それを引く音を覚えた」
「いい覚え方だ」
波が二度、大きくなる。私たちは同じ方向を見て、同じタイミングで息を吐く。合図は、一緒に呼吸すると見えてくる。
*
夏が過ぎ、風が乾いた。新学期の初日、放送室の時計の針が止まっているのに気づいた。壁の電池が切れていた。三分遅れていた針は、遅れた位置のまま動かない。皆川先輩は笑って、電池を交換しなかった。
「新しい遅れ方を探せばいい」
彼の言い方は冗談めいているのに、正しい。遅れは、罪ではなく、歩幅の名前だ。私たちはその都度、歩幅の名前をつけ直せる。
読者ノートの最上段に、小さな文字が増えた。
――束ねる役を、これで終わります。
あかりの字だ。丸い字。姉に似て、姉とは違う。役を降りることも役割だと知っている人の書き方。
最下段の入力欄は、相変わらず空いている。新しい要約が必要になったら、また誰かが書く。それが誰かは、今知る必要がない。
図書室の窓際三列目に座って、私は手のひらを机に置いた。冷たい。冷たいのに、冷たすぎない。冷たさが、ここに座らせてくれる。
机の端に、折り紙のしおりがひとつ置かれていた。裏に、知らない字で短く書いてある。
――拍手は、息の入れ替え。
私は笑って、しおりをノートに挟んだ。ノートは厚くない。厚くないのに、重さがある。必要な重さ。持てる重さ。
*
秋祭りの夜、私はさちの写真を机の上に置いた。笑って、と頼まなくても笑ったときの顔。撮ったのは私。だから、角度も、光の入り方も、私の好きなとおりだ。
スマホに、小さな通知が灯る。
〈“読者のためのあとがき”・更新〉
開くと、一行だけ増えていた。
――届くまで、読む人へ。座り方を覚えたら、立ち方も忘れないで。
さちの字ではない。けれど、さちが願った文体だ。
私はスマホを伏せ、窓を開け、遠くの海の匂いを受け取る。匂いは届く。届くものは、だいたい嘘をつかない。
机の引き出しからカードを取り出す。角はさらに丸く、紙の表面には手の脂の跡が薄く残る。
――海に行く日の合言葉、忘れないで。
声には出さない。読めばいい。読めば、思い出せる。思い出せるなら、忘れてかまわない。忘れる自由を持った言葉のほうが、長く続く。
*
冬が近づくと、放課後の校内放送の音は少しだけ乾いた。二曲目が終わる少し前、廊下の足音が薄くなり、教室の隅に影が伸びる。拍手はもう流れない。流さなくても、手のひらは覚えている。拍手の音が必要になったら、誰かが一度だけ鳴らすだろう。必要ないなら、鳴らさないだろう。その判断を、私は信じられる。
皆川先輩は、相変わらず比喩の角度で世界を説明する。陽斗は、音のないところでリズムをとる。詩音は、一行の長さで季節を調整する。河合先生は、線を引く。線を引く人がいるから、私たちは歩幅を選べる。
あかりは、ときどき図書室の隅で本を読む。彼女の読む姿勢は、姉とは違う。肩の力の抜き方も、ページのめくり方も、別の人のものだ。けれど、ときどき笑うタイミングだけ、似ている。似ている瞬間を、私は前よりもうまく受け止められるようになった。似ているから嬉しいのではなく、似ていなくても大丈夫だと分かっているから。
私は自分のまとめを読み直す。
――だれが読んでいたのか。
答えは、名前の列では終わらない。教室の空気、廊下の匂い、窓の光、放送室の遅れ、図書室の椅子、突堤の風。物語を支えていたのは、人と場所の連名だった。私はその連名の末尾に小さく「朱里」と書き足し、すぐに消す。消しても、手のひらの中には残る。残るぶんだけでいい。
*
雪の気配がし始めた日の放課後、図書室の端末の画面に、拍手の海が広がっていた。拍手。粒は少しずつ増えたり、全然増えなかったりする。増えない時間は、意外と長く続く。長く続いても、誰も焦らない。焦りを静けさで押さえ込む技術を、私たちは身につけた。
画面のいちばん下に、小さな一行が増える。
――読んでくれているあなたへ。届きました。
その一行は、誰の筆致でもなかった。けれど、読者の文体だった。読者が読者へ送る、最短の返事。私はマウスから手を離し、椅子を静かに引いた。座る音が小さく出て、すぐ空気に吸い込まれる。
窓を開けると、遠くに海の匂い。見えないはずの水平線が、街灯の光を借りて薄く浮かぶ。私は財布からカードを取り出し、もう一度だけ読む。
――海に行く日の合言葉、忘れないで。
忘れないで、は命令ではない。忘れてもいいよ、でも思い出せるようにここに置くね、という置き方。私はそれを、これからも繰り返す。忘れながら、思い出しながら、読んでいく。
拍手の海は、相変わらず静かだ。静かさの中に、息の音が混ざる。私は息を吸い、ゆっくり吐く。波が二度、大きくなる頃を心の中で待つ。待つ時間は、もったいなくない。待つことでしか届かないものが、世の中にはちゃんとある。
私は立ち上がる。椅子を戻す音は、さっきより少しだけ上手に小さい。図書室を出て、廊下を歩き、窓際三列目の席に手を置く。木の冷たさが、手のひらに移る。移った冷たさは、しばらく消えない。消えないあいだ、私はここにいる。
放送室のドアの前を通ると、中から笑い声。陽斗の低い笑い。詩音の短い笑い。皆川先輩の、笑っているのかどうか分からない笑い。河合先生のため息に似た笑い。私は立ち止まらない。立ち止まらなくても、届く。届くまで、読む。届いたあとも、読む。読むという行為の軽さで、世界の重さは分け合える。
校門を抜けると、風が顔にまっすぐ当たる。冷たいけれど、痛くない。私はポケットの中のカードを指で押さえ、前を見た。海は今日も見えない。見えないけれど、匂いがある。匂いは届く。届くものは、だいたい嘘をつかない。
足を一歩だけ、長く出す。歩幅が少し変わる。変わった歩幅は、誰のものでもない私の名前になる。名前は口に出さない。名前を言わなくても、歩ける。歩けるうちは、歩く。
どこかの家の窓から、拍手の音が一度だけ漏れた。ほんの一瞬。誰かが誰かに「届いた」と伝える音。私は笑って、歩幅を戻す。戻してもいい。進んでもいい。止まってもいい。どれでも、いつでも、続いていく。
波が二度、大きくなる頃。
私は、まだ校舎の影の下にいる。
けれど、匂いはここにある。
それだけで、今日のところは十分だと思えた。
カードを指から離す。角の丸さが、暗がりの中でやわらかく光った。
そして私は、何も言わずに、次の一歩を出した。




