第1話 ログイン通知
放課後の文芸部室は、ほこりとインクの匂いがした。
窓際の机には、陽射しがまっすぐ落ちて、そこに置かれたノートの表紙が白く照り返す。
パソコンの画面をのぞき込んだ朱里は、息を止めたまま、マウスを握りしめていた。
「……なに、これ」
モニターの右上に、小さな通知が点滅していた。
《鶴見さちがログインしました》
その文字列を見た瞬間、心臓の奥をつかまれたように冷たくなる。
画面の前で凍りつく朱里の横から、皆川が覗き込んだ。
「誰?」
声はいつも通り淡々としていた。けれど朱里の耳には、妙に遠く聞こえた。
「……さち。鶴見さち。あの“さち”だよ」
「鶴見……って、去年の卒業生の?」
朱里はうなずいた。
去年の三月、突然いなくなった。誰も理由を聞けなかった。
新聞にも載らなかったけど、みんなが知っていた。あの“事故”のことを。
それなのに、画面の中のシステムは、平然と告げる。
“ログインしました”と。
まるで時間が止まっていた間に、彼女だけが戻ってきたみたいに。
「多分、なりすましだろ」
皆川がマウスを奪い、操作を始める。
ログを確認しながら、独り言みたいに続けた。
「パスワード流出とか。あるいは顧問がバックアップを触ったとか」
「でも、あの子のアカウント、もう消してたはず……」
「じゃあ誰かが再登録した」
「そんなこと、できるの?」
皆川は返事をしなかった。
代わりに、エンターキーを押す。
共有サイトの下書きフォルダが開かれる。
そのとき、朱里は見た。
“新規ファイルが作成されました”という通知。
タイトルは──《海までの地図・第5話》。
その瞬間、空気が変わった。
部室の外では吹奏楽部の練習音が遠く響いていたが、朱里の世界だけが音を失った。
「……うそ」
朱里はつぶやいた。
「このシリーズ、四話で終わってたのに」
《海までの地図》。
それは、さちが連載していた文芸部サイトの短編連作だ。
“行き場を失った人が海を目指す”という、淡くて痛い物語。
彼女の死と同時に、第四話で止まったままだった。
「開く?」
皆川の問いに、朱里は小さく頷いた。
カーソルがファイル名を選び、画面が白に変わる。
数秒のロードのあと、文字が現れた。
──“空を見上げると、まだ夏が残っていた”。
朱里は息を呑んだ。
その書き出しだけで、手が震えた。
文体も、句読点の置き方も、比喩の呼吸も。
全部、“さち”だった。
「……誰かが真似してる」
皆川が言う。けれど、その声も不安定だった。
「AIとか、写しとか、そういうの」
「でも、さちの癖、わたしたちしか知らないよ。
……句点のあと、スペースを空けないとか、
“わたし”を小文字で書くとか」
「ログを見る」
皆川は管理ページを開いた。
アクセス記録の欄に、ひとつだけ最新ログが残っていた。
──発信元:校内放送室PC。
「……放送室?」
朱里は思わず言葉をこぼした。
放課後は鍵がかかっているはず。
入れるのは顧問、生徒会、放送部だけ。
誰がそこからアクセスを?
部室の時計は午後五時四十分。
ちょうど、さっき通知が来た時刻と同じだった。
沈黙。
蛍光灯のブーンという音がやけに耳につく。
朱里は言った。
「このこと、外には言わないで」
「隠すの?」
「“事件”になる。そうなったら、彼女のこと、全部掘り返される」
皆川はため息をついた。
「……お前、まだ引きずってるの?」
「違う。引きずってなんか──」
言いかけて、口を閉じた。
言葉の代わりに、机の上の影だけが揺れた。
朱里は画面に視線を戻した。
“第5話”のラスト行には、短い一文があった。
──「海に行く日の合言葉、忘れないで」。
それは、彼女たちが最後に交わした言葉だった。
“海に行く日”。
それは、夏休みに計画していた旅行の日。
でも、さちは、その前日に姿を消した。
通知音が鳴った。
画面に小さな吹き出しが現れる。
《匿名コメント:続き、待ってた》
朱里の背筋が伸びた。
その言葉を知っている。
“続き、待ってた”──毎回の更新に最初に現れる常連のコメント。
同じ時間、同じ文体。
まるで自動のように、さちの投稿を見守っていた読者。
「……また、あの人」
朱里の声が震える。
皆川が首を傾げる。
「コメントのIPは?」
「見ても意味ない。毎回、違う回線だった。VPNかも」
「いや、確認はする」
皆川が打鍵を続ける。
だが朱里はもう、画面を見ていなかった。
胸の奥がざわざわと熱くなっていた。
“さちが一番大事にしていたのは、コメントだった”。
それを思い出していた。
──彼女のメッセージを、もう一度読もう。
その夜、朱里は自室でスマホを開いた。
さちとのトーク履歴をスクロールする。
半年分の、くだらないやりとり。
「課題だるい」「眠い」「駅の鳩こわい」──そんな会話の端々に、たまに光るフレーズがあった。
〈わたしたちは作者じゃなくてもいい。読者でいたいときだってある〉
〈終わらせたくないって、悪いことかな〉
朱里は息をつく。
“終わらせたくない”。
その気持ちは、いまの自分とまったく同じだった。
机の上のノートに、さちの名前を書いてみる。
インクの跡がじわりとにじむ。
彼女の“続き”が、誰かにとって必要だったのなら──
それを止める権利なんて、もう誰にもない。
──書いた人を突き止めるんじゃない。
──なぜ今、“続き”が必要なのかを、探すんだ。
朱里はそう決めた。
キーボードに指を置く。
“コメントへの返信”の欄に、短く入力する。
《ありがとう。あなたの“待ってた”に、また救われました。》
送信ボタンを押す。
瞬間、画面の通知ランプが点いた。
──《鶴見さちが返信しました》。
朱里は息を止めた。
ディスプレイが震えたように見えたのは、心臓のせいだろうか。
恐る恐る、スレッドを開く。
そこには、一行だけ文字があった。
《海に行く日の合言葉、忘れないで》
その瞬間、部屋の窓が風でカタリと鳴った。
スマホの画面が、淡い青の光を放っていた。
朱里は指先でその光をなぞる。
かすかに、潮の匂いがした気がした。
──海までの地図・第6話(下書き)
という、新しいファイルが、自動生成されていた。
誰が、どこから、書いているのか。
それを知るのは、まだ少し先のこと。
朱里は静かに目を閉じ、口の中でつぶやく。
「……さち。ちゃんと、読んでるんだね」
通知ランプが、また点いた。
朱里は涙をこぼすように笑った。
それは恐怖でも、奇跡でもなく──再会の音に聞こえた。




