3 無謀への覚悟
朝から卵の焼けるいい匂いがする。母が朝食を作ってくれているのだろう。卵焼きは母の得意料理で、弁当に入っているといつも喜んでいたのを思い出す。大学時代に一人暮らしをしている時は、卵焼きという料理に何個も卵を使うことに驚いた。朝からあんなに手の込んだものを作っていた母親と卵を複数使うことのできる金銭的余裕を生み出している父親は偉大だ。だからこそ、実家暮らしをしながら職のない俺自身が惨めに感じる。
「おはよう、聡志。今日もどっか行くの?」
「おはよう、母さん。うん、内定出そうなところのオフィス見学に行ってくる。ごはんありがとう。いただきます。」
「そう、無理しないでね。」
台所から母さんは答えた。息子がこんなだというのに、何一つ恨み言言わず、励ましの言葉をかけてくれる。それが「早く普通の大人にならなければならない」という義務感とプレッシャーを加速させる。
内定が出そうというのは嘘だ。実質内定をもらったのだ、「世界平和エージェント」とかいう求人すら出さない会社に。先日ノリで承諾してしまったのは俺だが、やはり心配が勝つ。そこで、津山さんに見学を頼んだのだ。
「ここか…。本当に、普通のビルの中にあるんだな。」
津山さんから伝えられた住所には、一階に喫茶店がある本当に何の変哲もない雑居ビルだった。
「もしもし津山さん、高岡です。ビルの前に着きました。…はい、わかりました。ここで待機してますね。」
10秒もせずに津山さんが喫茶店の方から出て来た。
「お疲れ様です。津山さん、休憩中だったんですか。」
「いや、仕事中だ。」
接待かリモートワークでもしていたのだろうか。でも、この店、純喫茶のような見た目でWi-Fiが飛んでいるようには見えないのだが。とにかく俺は津山さんについていくことにした。すると、津山さんは喫茶店の方に入っていった。それどころか店の関係者以外立ち入り禁止の扉を開けた。
「え、津山さん。オフィスはこの上の階ですよね?それにここ…」
「いや、ここだ。正確に言うと、ここの下だ。」
津山さんが扉を開けると、そこは普通の倉庫だった。しかし、下になにか蓋のようなものがある。それは地下につづく扉だった。
「まさか、ここの下に…。」
「さあ、行くぞ。」
下に降りると、そこは普通のオフィスのようなレイアウトの部屋があった。何名か社員と思われる人がデスクワークに勤しんでいる。
「あの…さっきのお店の店長さんには許可は…?」
「取ってる。というか、この雑居ビルは全部うちのものだ。」
なるほど、マスターもグルだったか。確かに、秘密結社のようなものであれば地下に建てるのが賢明だ。
「ここでは、警察とのやり取りや報告書作成など、まあごく普通の事務作業を行う場所だ。こないだの君の件も穂村がすぐ警察から解放されたのはそのおかげだ。」
確かに、トラックを破壊したにも関わらず穂村は俺と同じくらいに署から出て来た。あれはこの人たちのおかげだったのか…。
「ん、待って下さい。『おかげ』って具体的にどんなことを警察にしたんですか?」
「交渉だよ。」
そこには中年だが清潔感のある男性が立っていた。先ほどまでデスクワークをしていた社員のようである。
「こんにちは、君が明里ちゃんがスカウトした新人?僕は桝田勇輔。ここの事務部長を任せてもらってる。よろしくね。」
「高岡です。こちらこそよろしくお願いします。」
「高岡くん、まだ22歳でしょ?若いねえ。明里ちゃんの件についてだけど、僕がちょちょっと警察のお偉いさんとお話したら、いい感じに示談で済んでくれたよ。」
だから、その「ちょちょっと」が気になるのだが、それに警察のお偉いさんって、彼はどんな人脈の持ち主なのだ。ただの事務部長ではないのは確実である。
「桝田、高岡君はまだ入社してない、一応内定を出しただけだ。発言には気を付けてくれよ。」
「え、そうなの?でも、聞いちゃったし強制入社でしょう?ね?」
やばい、どんどん俺の退路が塞がれていく。そんな焦りも虚しく、津山さんは奥の部屋に案内する。扉には「SECRET」と書かれているのだが、こんなに内定段階の俺を入れてもいいのだろうかとこちらが心配になってしまう。
そこはあの雑居ビルからは考えられない広さで、大きなモニターと複雑そうな機械、そしてマイクがあった。ここはまさに…
「指令室だ。ここから魔法少女の戦闘状況を確認したり、指示を送ったりする。まあ、映画やドラマでもよく見たことがあるだろう。」
「すごい…圧巻ですね。初めて見ました。」
「まあ、見る機会ある方が珍しいからな。いつもは司令官がここで仕事をしているが、今日は休みだ。司令官は限られた情報を得て的確に指示を出さなければいけないからかなり技量がいる。だから最も人手不足なだ。休みと言えど、仮眠室で寝てる。」
「え!もしかして一人でやってるんですか?」
「そうだ。やつは家無しだから、事務所に住み込みで生活してる。休みというか非番に近いな。」
その勤務形態は法的に許されるのか?しかし、警察に介入できる社員がいるのだ。ちょっとしたアウトローの一つや二つくらい全く不思議ではない。
他にも、いくつか部屋を見学させてもらったが、特に指令室以外は普通だった。
「お疲れさん。今日は地下の部屋しか紹介できなかったが、なんとなくここで働くイメージはできたか?」
「はい、本当に魔法少女をサポートする会社なんてあったんだなって驚いてます。」
「そうか。それはよかった。ただ、ここでの内容も他言無用で頼む。桝田はあんなこと言ってたけど、君は喋ったりするような人間じゃないだろうから、他の企業に行きたかったら私に遠慮なく連絡してくれ。君はまだ若い。よく考えるといい。」
桝田さんのパワハラの匂う発言は置いといて、津山さんは本当に見た目とは裏腹に優しい。初対面の怒号が嘘のようだ。
「あの、津山さんはなんで僕のことをそんなに信用してくださるんですか?僕はただの一般人ですし、穂村さんの正体も知ってしまったのに、こんなに会社も案内してくださって。そのうえ、内定段階で帰宅を許してくれるなんて。しかも僕なんて、新卒カードすら失った落ちこぼれですし…。」
「…明里が選んだからだよ。」
つい本音がこぼれた俺の質問に津山さんは答えた。
「穂村はああ見えて、正義感に熱い、立派な人間だ。それは君も身を以て感じただろう。身を粉にしながら、世界のために戦う魔法少女を俺は尊敬しているし、力になりたい。そして、信じたい。だから穂村を、魔法少女が選んだ君を信頼している。」
夕日が帰路の俺を照らす。津山さんの言葉は一生忘れることはないだろう。履歴書もなく俺を見てくれた感覚、たとえ子ども相手でも信頼関係を築く信念、俺は間接的にしか信頼されていない悔しさがあの言葉にはあった。
実家に戻り、夕飯の準備をしている母に一言声をかけると、俺は二階の自室へと向かった。採用過程がファミレスでのスカウトという珍しい会社だが、津山さんも桝田さんも非番の司令官も、穂村も、皆本気で世界平和のために働いている。ちょっと、黒い所もあったけど。だからこそ、俺は俺自身があの会社に入社するべきか審議する必要がある。就職先がないからとか、内定が出てるからとか、いい加減な気持ちで入社するべきではない、そう感じたからだ。
「学生時代の文集とかがあればそちらを見てみるのも一つの手ですよ。」
就活エージェントの言っていた言葉が脳裏をよぎる。そうだ、別に採用されるために用意するものじゃなくていい。夢に満ち溢れていた時代に遡れば、俺のヒントが隠されているのではないか。
俺は押し入れの中から黄ばんだ自由帳を取り出した。これは幼稚園の頃に使っていたものだ。2Bの鉛筆が描く汚い文字が十数年前の過去を思い出させる。ページをめくると、俺は手を止めた。そのページには、「おれのゆめ」と書かれ、その文字の下に記されていたのは、
「せかいじゅうのひとが、しあわせにくらせますように」
それはあまりに子ども染みた単純な発想で、かつ純粋な、まさに無謀なものだった。自分の夢だというのに、幼き頃の俺はたいそうなことを目指したものだ。この地球という惑星が生まれて以降、誰一人完遂したことのないことに小さな人間が夢を見た。俺はもう大人だ。酒もタバコも金も、ニュースの内容も、人の醜さも現実も知ってしまった。汚れた眼に映る子どもの夢はあまりにも眩く、汚れた心で読むにはあまりにも痛かった。
しかし、それだけでは片づけられない思いがあった。この世には俺が今まで知らなかっただけで、この「無謀」に挑む人たちがいるということを、俺は知ってしまったのだ。それを考えるだけで、目を輝かせながらこの白紙を埋めた少年が、文字越しに問いかけてくる。時に少年の夢を嘲笑し、馬鹿にすることもあった。馬鹿にした結果が今の現状だ。何も得られない、何も熱くなれない、つまらない道を歩んだ。でも、俺にまだこの願いを叶えられるチャンスがあるのなら、今更になって一歩を踏み出した俺を少年は応援してくれるだろうか。
時刻は20時を回った。失礼を承知で、俺は津山さんに電話をかけた。
「津山さん、俺、入社します。」
俺は少年の夢に進むことにした。答えはすべてあの自由帳のページを見ながら2時間も思考を巡らせた俺自身にある。俺がもしまだあの日の少年を馬鹿にしていたなら、そんなことはできないからだ。




