第五章 「 」の巫女
自らを月詠小雪と名乗る少女の衝撃的なカミングアウトに龍三の頭はその情報を処理しきれず、まるで情報過多で固まった端末のように思考が停止してしまう。
小雪の言葉が「意味」として脳に届くまで、しばらく時間が掛かった。
長い石段の下、踊り場の一角で、二人は向かい合うように立っている。頭上からは遠慮のない日差しが降り注ぎ、境内の砂利を白く照らしていた。
龍三はしばし呆然と口を開けたまま固まり、やがて、確認するように恐る恐る人差し指を天へ向ける。
「……えっと、月って、あの空に浮かんでる月のこと?」
自分でも信じられないような質問だったが、当の小雪は迷いなく頷き、
「うむ。如何にも。夜空に浮かぶあの月のことで間違いない。妾はそこに住まう、月の民なのじゃ」
当然のように言ってのける小雪に龍三も最早、唖然とするしかない。
「う、嘘だろ……? 流石に冗談だよな?」
「……冗談ではないぞ? 妾は至って真面目じゃ」
顔を引きつらせる龍三とは対照的に、小雪はきょとんとした表情のまま更に言葉を重ねる。
「月の都は確かに存在する。妾は意識を失っておったゆえ定かではないが、お主は妾が鳥居の中より現れた瞬間を、その目で見ておったのであろう? であれば、それこそが何よりの証拠じゃ」
「……」
龍三が言葉を詰まらせる。
あの時、あの瞬間、確かに小雪は鳥居の中から現れた。
幻や見間違いでもない。その光景は、今も鮮明に記憶に焼き付いている。
だからといって、それが”月からやってきた”とは誰も思わないだろう。
それこそ、竹取物語のかぐや姫じゃあるまいし。
「……いや、見たけど。それがなんで証拠になるんだよ? まさか、鳥居と月が繋がってるとか言わねぇよな?」
「半分正解で半分外れじゃ」
「いや半分は合ってんのかい!」
龍三が冷静にツッコミを入れる。
半ば冗談のつもりで口にした言葉だったが、まさか当たっているとは思わず、内心で小さく動揺する。
「妾たち月の民は、月と地上を行き来する際に、霊道と呼ばれる道を用いるのじゃ」
「霊道?」
聞き慣れない単語に龍三は首を傾げる。
「うむ。霊道というのは、月と地上にある二つの鳥居の間を霊力で結ぶことにより、往来を可能にする術のことじゃ。鳥居はその出入口にあたる」
龍三は腕を組み、うーんと唸る。理屈はさっぱりわからないが、何とか自分の知っているものに置き換えようと頭を働かせる。
「よくわかんねぇけど……要するに、ドラえもんに出てくるどこでもドアみたいなもんか?」
「?」
きょとんと首を傾げる小雪。どうやら龍三の例えは伝わっていないらしい。
そのあまりに無垢な反応に、龍三も思わず力が抜けた。
その時、、ふと視界に白と赤の色彩が入り込む。
白い小袖に鮮やかな緋袴――風に揺れるその巫女装束が、改めて目に留まった。
考えてみればおかしな話だ。
月から来たという少女が、なぜ日本の神社でよく目にする典型的な巫女服を着ているのだろう。
胸に浮かんだ疑問は、そのまま言葉となって零れ落ちた。
「……そもそも、なんで巫女さんの格好?」
月の民――それがどういう存在なのか、龍三にはまるで想像がつかない。
だが、少なくとも今目の前にいる小雪の姿は、日本ではあまりにも馴染み深い「巫女さん」そのものだった。
月からやってきたという割には喋っている言語も日本語だし、その口調も、昨今の日本で普通に生活していればまず耳にしない古風で上品な言葉遣い。瞳の色や髪の色など日本人離れしているが、かといって西洋人に見えるかと言われれば、それもしっくりこない。
「うん? これのことか?」
龍三の問いに対し、小雪は自分の袖をつまんでひらりと揺らして見せる。
そして、龍三が何をそんなに不思議がっているのか分からないという顔をした。
「何でと言われてものう……。妾は月の都で祭祀を司る姫巫女故、普段からこの装いなのじゃ。人の目にそう映るのも道理であろう」
「……姫巫女?」
「うむ」
「……ってことは何? 小雪って月のお姫様なの?」
信じきれない気持ちのまま、確認するように小雪に問う。
すると、小雪は特に気負った様子もなく、
「まあ、あくまでも肩書きの一つに過ぎぬが……そういうことになるかのう」
と静かに答えた。
「……まじかよ」
その青く澄んだ瞳には、からかいや冗談の影は全く見当たらない。
思い返してみれば、出会った時から小雪にはどこか”普通の女の子”らしからぬ所があった。
凛とした立ち振る舞いや儚げな雰囲気、指先を胸に寄せて小首を傾げる姿や、恥じらうように目を伏せる横顔――そのどれもが、思わず息を呑むほど絵になる。
言葉遣いもどこか雅で、会話内容だけを聞いていると本当に時代劇のお姫様がそのまま現代に現れたかのようである。
しかし、月からやってきたという小雪の突拍子もない話しに、龍三は未だに頭の整理がつかないでいた。
「……その月のお姫様が、どうしてこの地上なんかに?」
当然の疑問だった。
月の都で姫巫女と呼ばれている程の人物が、護衛もつけずにわざわざ一人で地上へ降りてくるなんて――どう考えてもおかしい。
「……それは……」
龍三の問いかけに、小雪は一瞬言葉を詰まらせ、困ったように眉を寄せる。
「……そのことなんじゃが……妾にも、よく状況が掴めておらぬのじゃ」
「……? それって、どういうことだ?」
「うむ。理由はわからぬが、地上で目を覚ますまでの記憶が頭から綺麗に抜け落ちておるようでのう」
小雪は細い指を自分の胸元に添え、遠い記憶を辿るように目を細める。
だが、探るようなその視線は、すぐに宙を彷徨った。
「覚えておるのは……月の都の離れで書物を繙いておったところまでじゃ。それより先がさっぱり思い出せぬ」
言葉を重ねるごとに、小雪の声音は不安を帯びていく。
自分でも説明できない空白に、彼女自身が戸惑っているのだ。
「それ故……月から地上へ降りてくるまでの経緯が妾にもわからぬのじゃ」
小雪が小さく肩を落とし、行き場のない溜め息を零す。
「……記憶喪失?」
そう呟いてから、龍三は小雪と出会った時の光景を思い出す。
確かに、鳥居から現れた時点で小雪は既に意識を失っていた。声を掛けても反応はなく、目を覚ました直後も取り乱していて、状況を把握できている様子ではなかった。
姫巫女という肩書きからみても、小雪は月の都ではかなり位の高い人物のはず。
そんな彼女が、どうして記憶の空白を抱えたまま地上に――?
現実離れした出来事の連続に、脳みそがオーバーヒート寸前だ。
とはいえ、月の住人でもない一般人の龍三がそのことについて深く考えたところで答えなど出るはずもない。
月の民でありながら、自らの存在理由すら見失っている少女。
目の前にいる小雪は、ただの人間の少女のように迷い、戸惑っているように見えた。
「……」
龍三は徐に視線を上へ向けた。
そこには、石段の頂上に聳える籠目神社の鳥居がある。
朱塗りの柱が木漏れ日に照らされ、周りの草木が風に揺られて耳に心地よい自然の音を奏でている。
いつもなら、ただの神社の入り口でしかないはずのそれが、今の龍三にはこの世と異界を隔てる境目のように見えた。
すると傍にいた小雪が、龍三の視線を追うようにそちらを見る。
その瞳に、鳥居の赤と空の青が溶け合うように映る。
しばしの間、籠目神社の鳥居をじっと見つめていた小雪は――やがて「うむ」と一つ頷くと、そのまま石段を登り始めた。
「あ、おい! どこ行く気だよ?」
「案ずるな。あの鳥居に少し用があるだけじゃ」
そう告げた小雪は迷いのない足取りで鳥居を目指す。
龍三は一瞬ためらったものの、放っておくわけにもいかず、すぐにその後を追った。
籠目神社の本殿へと続く石段を、二人は並んで静かに登っていく。
先を行く小雪の背中は小さく、目を離すとすぐに見失ってしまいそうだ。
その姿を見つめながら、龍三はふと、胸に引っ掛かっていた疑問を口にする。
「あの鳥居を潜ったら……月に帰れるのか?」
小雪は歩みを止めることなく、少しだけ振り返る。
「わからぬ。それを確かめるために、今向かっておるところじゃ」
淡々とした口調だったが、続く言葉には現実を見据えた諦観めいた響きが滲んでいた。
「とはいえ……流石に霊道は閉じておるじゃろうな」
しばらくして、龍三と小雪の二人は件の籠目神社の鳥居の前に辿り着いた。
小雪は足を止め、静かに正面の鳥居を見上げる。
風に揺れる木々の葉擦れの音の中、彼女は鳥居を見つめたまま、そっと目を細めた。
まるで、その向こう側に残る何かを探るように。
「……」
そして、小雪は確かめるように一歩、鳥居の下へと足を踏み入れる。
――しかし、何も起こらなかった。
光の揺らぎも起きなければ、霊道が開く兆しも全く見られない。
ただ、夏の風が境内を吹き抜け、木々を揺らす音だけが変わらず耳に届く。
鳥居の向こうで立ち止まった小雪は、しばしその場に佇み、やがてゆっくりとこちらに振り返る。
そして、静かに首を横に振った。
「……やはり駄目じゃな。月に帰れなくなっておる」
低く、落ち着いた声。
驚きや嘆きはなく、取り乱すこともない。
けれど、その蒼の瞳の奥には、ほんの僅かに影が差していた。
その様子に、龍三はどう声を掛けるべきか迷い――
それでも黙っていられず、口を開く。
「……その、大丈夫か?」
「……ありがとう。じゃが心配には及ばん。確かに、月に帰れぬのは想定外ではあるが――」
小雪は小さく息を整え、
「別に思い詰めてはおらぬ。月に帰れぬというのなら、今はただ、その事実を受け止めるほかあるまい」
「そっか……」
短く返した後、小雪は一拍置いて「それに」と言葉を続けた。
「こうして地上に降り立てたこと自体は、むしろ好機じゃと思っておる」
「……好機?」
思いがけない言葉に、龍三は思わず聞き返す。
「うむ」
小雪は小さく頷くと、どこか懐かしむような眼差しで遠くを見た。
「妾が暮らしておったのは、月の都の離れにある社でな」
そう語りながら、再び鳥居を潜り、ゆっくりとした足取りで龍三の隣まで歩いてくる。
「そこは人の出入りも厳しく限られた、岩倉の中に建てられた場所でのう。外へ出ることも、誰かと語らうこともほとんど無い。……今思えば、随分と窮屈な場所であった」
そしてこちらを見て、少しだけ照れたように笑った。
「それ故、一度で良いから地上に行ってみたかったのだ」
「……」
月の都の離れ。岩倉の中に設えられた、小さな社。
外に出ることも叶わず、誰かと言葉を交わすこともない日々。
それを悲嘆するでもなく、嘆くでもなく。ただ事実を述べるように語るその口調が、かえって龍三の胸に引っ掛かった。
生まれてきた時から居場所を定められ、守られ、閉じ込められてきた存在――
妹の桜華と、そう年も変わらないであろう少女が歩んできた人生は、龍三が当然のように享受してきた日常とは、あまりにも遠いものに見えた。
でもなんでそんなことを? 月の都が小雪に対してそこまでする理由とは一体……。
そんなことを考えていると、ふと視界の端で何かが揺れた。
「――あっ」
思わず、龍三の口から声が漏れる。
いつの間にか、小雪の頭に一匹の蝶が止まっていた。
淡い翅をゆっくりと動かしながら、まるで最初からそこに居たかのように、ちょこんと鎮座している。
「……?」
突然の声に、小雪はきょとんとした表情でこちらを見る。
「いや、その……頭に蝶が、」
龍三が指差すと、小雪はようやく察したらしく、そっと視線を上に向け――
「なんと、いつの間に?」
驚いたように目を瞬かせた。
気づけば小雪の周りに二匹、三匹と揚羽蝶が吸い寄せられるように集まっている。
蝶達は彼女の膝や肩に止まり、時には小雪の銀髪に触れるほど近い距離を飛び回っていた。
小雪は肩に止まった一匹に、細くしなやかな指をそっと差し伸べる。蝶は逃げるどころか、そのまま彼女の指先に移り、翅を小刻みに震わせた。
それを見て、小雪はほんの少しだけ目を細め、微笑を浮かべた。
我が子を慈しむような優しい目を向ける小雪の姿は、こうして改めて見てもやはりどこか浮世離れしていると思う。
童顔だが楚々とした美しい顔立ちは超然としていて、まるで白い百合の花が咲いたよう。
小柄で華奢なその身体は、抱き締めればそれこそガラス細工のように脆く、簡単に壊れてしまいそうだ。
その見た目も完全に幼い少女にしか見えないのに、どこか大人の女性を思わせる魅力があるのだから不思議だ。実際、巫女服の上からでもわかるくらいに二つの柔らかな曲線が存在感を醸し出している。
決して謙虚過ぎず、かといって過度に主張するでもない――。目立つほどではないが、確かにそこに女性らしさを感じさせる膨らみがあった。
本当、下手に触ると罰が当たりそうだ。
――と、その時。
蝶を見たからなのか、それとも丁度この場所に立っているからなのか。
龍三の脳裏に、先ほど鳥居の前で目を覚ましたばかりの小雪に、石段下の踊り場まで吹き飛ばされた時の記憶がふと蘇った。
「……そういえばさ」
思い出したように小雪へ顔を向ける。
「ん?」
「ここから小雪に吹き飛ばされる時、なんか見えない力で俺を吹っ飛ばしたよな? ……あの時、俺に何をしたんだ?」
石段に腰を下ろし、真剣な表情で尋ねる龍三を見て、小雪は少しだけ押し黙った後、やがて静かに口を開いた。
「……あれは、霊能力じゃ」
「……霊能力?」
思わず、間の抜けた声が出る。
「ふむ、そうだのう……」
すると小雪はきょろきょろと周囲を見回し始め、やがて足元に転がっていた手頃な大きさの小石に目を留める。
腰を屈めてそれを拾い上げると、軽く手の中で転がした。
「うむ、これにするか」
「……? 小石なんか拾ってなにする気だよ?」
「百聞は一見に如かず。説明するより、実際に見せた方が早いと思ってな」
そう言うと今度は手に取った小石を頭上に放り投げる。
青空の下、弧を描いて落ちてくる小石。
小雪はその落下点へ――右の手のひらをすっと差し出した。
そして指先に小石が触れた――その瞬間。
――バチンッ!!
耳を劈く破裂音と共に、小石は爆ぜるように弾き飛ばされた。視認する間もなく空気を裂き、龍三の目の前を風圧を残して通り過ぎる。
次の瞬間、遠くの木の幹に、乾いた衝突音が突き刺さった。
驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、境内の木々がざわめく。
「…………へ?」
あまりの出来事に、龍三も言葉を失う。
小雪はそんな彼を一瞥すると、何事もなかったかのように手を下ろした。
「――これが、妾の有する霊能力。不可神域――お主の身体を吹き飛ばした、見えない力の正体じゃ……」
木の幹に突き刺さった小石を茫然と見つめていた龍三は、やがて我に返ったかのように叫んだ。
「……なっ。ばっ、はぁ!? いやいやいや、なんだよ今の!? 木に風穴空いたぞ!?」
思わずその場に立ち上がり、小雪に詰め寄る。
顔を引きつらせる龍三を前に、小雪があからさまに視線を逸らす。
「……その……すまぬ。少々、力加減を間違えた……」
「いや間違えたで済むかぁっ!! 死人が出るわ、あんなの食らったら!」
思わずツッコミを入れる龍三をよそに、小雪は軽く咳払いをし、どこか言い訳がましい口調で続ける。
「安心せよ、普段はもっと力を抑えておる」
「安心できる要素が一ミリもねぇわ! つか、今のが霊能力? なんか、想像してたものとは完全に別物というか……俺のイメージしてる霊能力って、もっとこう、呪文を唱えるとか、御札貼るとかさ、そういう感じのやつなんだけど?」
すると、それを聞いた小雪は一瞬だけ考えるように目を泳がせ、やがて得心がいったように頷いた。
「……ふむ。お主が申しておるのは、恐らく霊術のことであろう」
「霊術? なんだそりゃあ?」
龍三が眉根を寄せ、それを見た小雪が両手を前で組んで丁寧に話しを続ける。
「霊術というのは、霊能力者が修練を積むことによって扱えるようになる”術”の総称じゃ。結界術、符術、魔術、祝詞など、その数は多岐に渡る」
「…………それと、霊能力は何が違うんだ?」
「そうじゃのう。霊術が修練を積んで扱う技なら、霊能力とは、霊能力者が生まれながらにその身に有する固有の異能のことじゃ」
「生まれつき……?」
「左様。霊術は霊力さえ扱えれば誰でも習得できるが、霊能力は生得の異能。強さも性質も人によって様々。同じものは一つとして存在せぬ。人の世で言うなら、霊術とは”技法”や”学問”。霊能力とは天より与えられた”才”といったところかのう」
そう締めくくる小雪の言葉を聞きながら、龍三は無意識のうちに自分の右手を見つめていた。
(……生まれつきの才、か)
青い焔。
幼少期の事故を機に、かれこれ九年も共にしている龍三の異能。
未だにこれの正体は不明。熱もなければ紙切れ一枚燃やせず、人には見えないので誰に話しても信じてもらえない。龍三だけが知る摩訶不思議な力。
その指先には、今も微かにあの焔の残滓が宿っているような気さえする。
拳をぎゅっと握り締めた龍三は、再び目の前にいる小雪を見た。
「……つまり、霊能力が”才能”で、霊術が”後から身につける技”みたいな感じか……」
「うむ。それが最もわかりやすい例えであろうな」
龍三が要約して、小雪がそれに頷いてみせる。
すると今度は自らの手を見下ろし、白魚のような指を静かに握り込み、小雪が趣に口を開く。
「……そして、先程披露して見せたこれは――不可神域と言ってのう。この能力の権能は『不変』、即ち――変化の拒絶じゃ。まあ、平たく言えば、妾に影響を及ぼすあらゆる『変化』そのものを拒む……」
「……」
龍三は息を呑んだ。その瞬間、龍三の視線は再び木の幹に釘のように突き刺さった小石へと吸い寄せられる。
確かに、先程のあれはどう見ても物理法則を完全無視した異常現象だった。
風圧が生じたわけでも、衝撃波が走ったわけでもない。
それでも――確かに小石は”弾かれた”。
まるで、世界そのものが小雪の意志を汲み取り、”拒絶”したように。
小雪は目を細め、再び指先に止まった蝶を見つめながら話しを続ける。
「それが炎であろうと、刃であろうと、穢れであろうと……例え、神の力であろうとも……」
声は静かだった。
だがその響きは耳ではなく、直接心に刻み込まれてくるようで、
「善悪を問わず、妾に変化を及ぼそうとするものであれば――妾の力は世の理が働くよりも先に、その全てを拒絶する。それこそが、妾の有する霊能力じゃ」
「……」
龍三は、その説明を聞き終えても、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
理解が追い付かない――というより、理解すること自体を本能が拒んでいる。そんな感覚に近い。
あんな光景を見せられてしまっては、無理もないだろう。
風も衝撃もなく、小石は”弾かれ”、あり得ない速度で飛び、木を貫いた。
錯覚でも幻でもない。
物理法則も常識も、一切通用しない現実。
龍三自身も正体不明の異能の力をその身に宿している。
しかしそれは、あくまで”自分だけの特異体質”みたいなものだと思っていた。
これまで自分以外に異能の力を持つ人間など見たことも聞いたこともなかったからだ。
水につけても消えず、紙切れ一枚すら燃やせず、龍三以外の誰にも見えない青い焔。
役に立つわけでもない。
危険なわけでもない。
ただそこにあるだけの、意味の分からない力。
だからこそ、誰にも話そうとは思わなかった。
打ち明けたところで、信じてもらえるはずがない。
気味悪がられるか、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。
だが。
月から来たと名乗り、常識外れの力を当然のように振るう少女が、今、目の前にいる。
もしかしたら――
小雪なら、これについて何か知ってるかもしれない。
胸の奥に、僅かな期待が灯る。
「なあ、小雪……実は――」
その淡い期待に胸を躍らせ、龍三が意を決して小雪に声を掛けようとした――次の瞬間。
――ぐぅ。
「え?」
あまりにも間の抜けた音に、龍三は思わず目を瞬かせる。
音の出どころを辿るように視線を向けると、小雪がぴたりと動きを止めていた。
数拍遅れて、彼女はコホンと小さく咳払いをして。
「……い、今のは、その……」
僅かに頬を染め、視線を逸らす小雪。
つい先程まで、世界の理を拒む力について語っていたとは思えないほど、しどけない仕草だった。
思わぬ形で出鼻を挫かれ、聞くタイミングを逃してしまった龍三は、それ以上深追いはせず、流れに身を任せることにした。
龍三は小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「……月の民でも、腹は減るんだな」
「むぅ……妾とて生き物じゃ。お腹くらい空く」
そう言い返すものの、声にはさっきまでの威厳はなく、どこか気まずそうだ。
「んで? 小雪はこれからどうするんだ?」
「どうするとは?」
「月には当分帰れそうにないんだろ? どこか行く当てでもあんのかよ?」
「それは……」
小雪が俯いて言葉を詰まらせる。
最早、それが答えと言っているようなものだろう。
龍三は頭をかきながら、軽く息を吐いた。
「もしあれなら、うちでご飯でも食べてくか?」
今日会ったばかりの初対面の女の子を家に呼ぶなんてどうかしてると思うが、理由が理由なので仕方ないだろう。
土地勘もなく、金も持たず、月からいつ迎えが来るかもわからない。
そんな状態で放っておくなんて、龍三にはできなかった。
そもそも、ここまで関わっておいて今さら我関せずというのもどうかと思うし。
そのような理由もあり、提案してみたのだが。
「気持ちはありがたいが、流石にそこまでしてもらうのは申し訳ない……」
「けど、どこにも行く当てないんだろ?」
「うっ……」
再び小雪が言葉を詰まらせる。
暫く押し黙って、恐る恐る口を開いた。
「……本当によいのか?」
「まあ、知らない場所で野垂れ死なれても後味悪いしな」
その言葉に小雪は安堵したように。
「…………ありがとう。うむ、そうじゃな。月に帰る術がない以上、致し方あるまい。龍三、すまぬがそれまでの間、世話になる……」
「ああ。といっても、大したもんは出せねぇけど」
「構わぬ。食事を頂けるだけでも有難い」
苦笑する龍三を見て小雪も安心したのか、釣られるように笑みを浮かべる。
ほんの微かな笑みだったが、先程までの緊張を溶かすには十分だった。
そして二人は並んで、ゆっくりと籠目神社の参道を下りていく。
境内の石段を下り、やがて鳥居の前に出ると、龍三は思わず目を細めた。
真夏の太陽に照らされたアスファルトが、白く光りながら陽炎を立ち上らせている。夏の陽射しが容赦なく地面を焦がし、地面から浮かび上がる熱気はまるで空気が形を持って踊っているかのようだった。
その光景を眺めながら龍三は、ふと隣に立つ小雪の足元に視線を落とす。
すっかり忘れていたが、小雪はさっきからずっと靴や草履も履かずに足袋だけで過ごしていたのだ。
どうして足袋しか履いていないのかその理由は不明だが、そんな状態で歩かせるわけにもいかないだろうと思い、意を決してその場に屈んで小雪に背を向けた。
「ほら、小雪、背中貸してやるから、早く乗れ」
小雪はきょとんとした顔で瞬きする。
「……? 何をしておる?」
「ん? おんぶだけど?」
振り返った龍三は当然のような顔で言った。
「……! そ、そこまでしてもらわんでも良い。このままでも妾は平気じゃ……」
小雪は頬を染め、思わず一歩後ずさる。
「いや、そういうわけにはいかねぇだろ……お前よく見たら靴とか草履も履いてないし」
「うっ……そ、それに……殿方に背負ってもらうなど、恥ずかしい……」
小雪は両手を胸の前でぎゅっと握り締め、視線を逸らす。
耳まで赤く染まっているのが、夏の日差しにも負けないほどだった。
「つっても、流石にこの炎天下を何も履いてない状態で歩かせるわけにはいかねえよ。靴も履かずに歩いてたら火傷しちまうだろ? だからほら、遠慮すんな……」
龍三が軽く背中を叩く。
その背中を見つめ、しばし逡巡した末に、小雪は小さく息を吐いた。
「……むぅ。恥ずかしいが、そこまで申すのなら……わかった……」
観念したように呟くと、恐る恐る龍三の背に手を伸ばし、そっと身体を預けた。
巫女服越しに伝わる小雪の体温と、二つの柔らかな重みが龍三の背にのしかかる。
布越しに押し当てられた胸の形が意識せずともわかってしまい、龍三は一瞬だけ固まってしまう。しかしすぐに煩悩を振り払い、前を向いた。
「よし、いくぞ」
龍三は地面を踏みしめて立ち上がる。
その動作は思いのほか軽やかで、小雪は思わず目を丸くした。
「……龍三、重くはないか?」
「全然、むしろ軽すぎるくらいだ」
「……左様か」
短いやり取りのあと、小雪は小さく息を漏らし、恥ずかしさを紛らわすように龍三の背に顔を埋めた。
その髪が肩越しにふわりと流れ、微かに涼やかな香りがする。
龍三は何も言わず、そのままゆっくりと歩きだした。
焼けた地面の照り返しが眩しく、遠くで蝉の鳴き声がけたたましく響いている。
真夏の陽射しの中、二人の影が寄り添うように長く伸びていった。
籠目市の空は、痛いほど青かった。




