第四話 彼女は月からやってきた
――どれくらい意識を失っていただろうか。
目を開けるとそこには、仰向けになっている自分の顔を覗き込むようにして不安げな表情でこちらを見つめる少女の姿があった。
「……! よかった、無事に目が覚めたようじゃな……」
龍三が目を覚ましたのを見て少女が安堵の表情を浮かべる。
心配そうに見つめる顔は一変して明るくなり、龍三を突き落としたことへの罪悪感もあってか本当に心の底から安心しているようだった。
「…………生きてる? ここは?」
「ここは、神社の踊り場じゃ」
「……踊り場?」
まどろんだまま少女の言葉をオウム返しする龍三。首だけを動かして周囲を確認してみると、どうやらここは石段と石段の間に作られた広めのスペースのようであった。
それと同時に、意識を失う直前の出来事を思い出す。
(……そっか。俺、石段から転げ落ちた後、そのまま気を失って――)
ぼんやりとした意識が少しずつ回復していくと共に、改めて自分の置かれた状況を頭の中で整理していく。まず身体中が痛い。恐らく結構な勢いで転げ落ちたため、その時に身体を色んな場所にぶつけたのだろう。幸い骨は折れていないようだが、身体中の至る所に擦り傷が出来てしまっている。
あれだけ盛大に転げ落ちたのにも関わらず、気を失っただけで済んだのは本当に奇跡だ。
普通なら骨の一つや二つ折れていてもおかしくない高さだし、最悪死ぬ可能性だってあった。
よく五体満足でいられたなと自分の運の良さと身体の丈夫さに改めて関心していると、
「…………大事はないか?」
再び頭上から少女の声が降ってくる。
「?」
声のする方へ視線を向けると、そこには上下逆さまになっている少女の顔があった。龍三の身体を心配した少女がこちらの様子を伺うようにして顔を覗かせていたのだ。思わず、こちらの顔を真っ直ぐ見つめてくる青い瞳に龍三の視線も吸い寄せられる。
今更になってなんで仰向けになっている自分の真上に女の子の顔があるんだろうと疑問に思うが、その理由はすぐに判明した。頭の下に伝わる女性特有の柔らかな肉の質感、上下逆さまになっている少女の顔。そして固い石畳の上に横たわっている己の状況。
龍三はそこでようやく、自分が今巫女さんに膝枕してもらっている事に気が付いた。
「すまぬな……」
身体中擦り傷だらけになった龍三を見て、少女が罪悪感から再び謝罪の言葉を口にする。
「妾はお主に酷い行いをしてしまった。お主はただ、気を失っていた妾を介抱しようとしてくれていただけなのに。妾はなんてことを……」
少女は未だに飼い主に叱られた猫みたいにしゅんとしている。
純粋な子なのだろう。女の子は龍三を突き落とした事に対して未だに思い詰めているようだった。
この様子だと故意にやったわけではなさそうだが、今にも泣き出しそうな顔をしている少女の顔を見ると何とも言えない気持ちになる。
龍三は気まずそうに目を伏せると、落ち込んでいる少女をフォローするように自らの右手を上げて握ったり開いたりして見せ、
「……まぁ、幸い大した怪我もしてないみたいだし、これくらいなら問題ねぇよ」
「……本当か?」
「ああ。確かに、あそこから落ちた時はマジで死んだと思ったけど……」龍三がゆっくりと上体を起こしつつ「なんだかんだ生きてるしな。だからもうそんな顔すんなって……」
するとようやく少女も安心したのか「左様か、それなら良かった……」と安堵の笑みを浮かべた。
不覚にもその笑顔を見て龍三は一瞬ドキッとしてしまう。
「つーか、俺が目を覚ますまでの間ずっと膝枕してくれてたんだよな? 悪いな、なんか。痛かっただろ?」
「気にするな。お主に負わせてしまった怪我に比べれば、これしきのことなんでもない」
「そっか……」
「うむ。……そうじゃ、思えば自己紹介もまだであったな……」
その時、少女がふと思い出したように顔を上げる。
少女から言われるまで龍三もすっかり忘れていたが、まだお互い名前も知らない状態だった。
とはいえ、この巫女さんとの出会い事態、明らかに普通ではなかったし、名前を聞くタイミングも完全に忘れていたので仕方が無いと言えばそれまでだが。
「え? ああ、確かに言われてみればそうだな。……えっと、俺は朝日奈龍三」
「……龍三?」
その時、龍三の名前を耳にした少女が一瞬、目を丸くする。
「……? どうした?」
少女の様子に違和感を覚えた龍三がすぐさま声をかける。
しかし、少女ははっと我に返ると「いや、なんでもない」と首を横に振り、
「龍三……そうか、お主は龍三と言うのか! うむ。良い名じゃな、覚えておこう!」
闇夜を照らす満月のような笑顔でそう言うと、今度は正座したままその場で姿勢を正し、自分の胸に手を当てて青く澄んだ瞳で凛と龍三を見据える。
「申し遅れた、妾の名は小雪、月詠小雪じゃ。月の都を治める、月の民の長である。どうぞよしなに……」
「…………は? 月の民?」
自らを月詠小雪と名乗る少女の意味不明な自己紹介に龍三は思わず低スペックのパソコンみたいにフリーズしてしまう。
「――って、ナニ?」
「うむ。月の民とは月に住む人々のことじゃ。……見ての通り、妾はこの国の人ではない。月に住まう月の都の人である」
畳み掛けるように小雪が説明をしてくれるが、その内容があまりに荒唐無稽な話しすぎて龍三は更に唖然としてしまうのであった。
「……さ、流石に冗談だよな……? 竹取物語じゃあるまいし、月に都があるなんてそんな話し……」
「噓は言っておらぬぞ? 月の都は確かに存在する」
「……いや、存在するって言われても……」
恐る恐る、龍三が小雪の頭のてっぺんからつま先までゆっくりと一瞥する。
「大体、月に住んでたっていう割にはどこからどう見ても神社に居る巫女さんにしか見えねぇんだけど……」
月の民がどのような存在なのか龍三には全く想像がつかないが、少なくとも小雪の姿格好は日本の神社でよく目にする巫女さんのそれだ。
喋っている言語も日本語だし、その口調も昨今の日本で普通に生活していれば、まず聞くことはないであろう古風で上品な言葉遣い。瞳の色や髪の色など日本人にはない特徴だが、かといって顔の輪郭が西洋人っぽいかと言われるとそれも違う。ぱっちりとした二重瞼に、煙るような長い睫毛。顔の輪郭もどちらかというと日本人よりだ。
極めつけに、小雪の凛とした立ち振る舞いや雰囲気も相まって、言葉だけを聞いていると本当に江戸時代の貴族様と会話しているような気分になる。
……と、その時だった。
(――あれ?)
まただ――。また――この感覚。デジャヴ。
再び謎の既視感に襲われた龍三が眉間にしわを寄せる。
(このやりとり、前にもどこかで……?)
小雪とは今日初めて会ったばかりのはずなのに、なぜか不思議とこのやりとりに懐かしさを覚える。月の民や月の都など気になる単語がいくつも上がっているのに、その疑問すら霞んでしまうほどに龍三はこの時、突然降りかかってきたデジャブに困惑していた。
龍三の異変に気づいた小雪が小首を傾げ、心配そうに様子を伺う。
「? どうかしたか?」
「いや、あのさ、変なこと聞くようだけど……。俺達って昔、どこかで会ったことある?」
自分でも何を言っているんだろうと本気で思う。でも、考えるよりも先に口が動いてしまったのだ。
平静を装っているが内心穏やかではなく「――って何言ってんの俺はぁあああ!?」と自分の発言を振り返り、恥ずかしさと後悔のあまり頭を抱えて地面をゴロゴロ転がって悶絶している内なる龍三がいた。
案の定、小雪も目をパチパチと瞬かせ困惑している様子だった。
「はて、面妖なことを言うのう。お主と顔を合わせるのは今日が初めてのはずじゃが……」
「だ、だよな……! そうだよな……悪い、変なこと聞いちまった。昨日から色々あって、それで疲れてんのかも……は、はは。今のは忘れてくれ……」
龍三が苦笑いしながら慌てて取り繕う。
そんな龍三の様子を見た小雪は何を思ったか、顎に手を添え考え込むような姿勢を取り、数舜置いて。
「……いや、思いのほか、そうとも限らぬやもしれぬぞ」
と言い放った。
「え?」
小雪の予想外の言葉に龍三も思わず素っ頓狂な声を出す。
「実はな、妾もお主の名を耳にした時、不思議と懐かしさのようなものを覚えたのじゃ……。先程聞いた時は、ただの気のせいかと思ったが……もしやすると、もしやするかもしれぬのう?」
小雪が少し含みを持たせた言い回しをして、
「お主とここで出会ったこともただの偶然ではなく、何かの巡り合わせと妾は思う。この出会いを偶然という言葉で片付けるには勿体ない。この縁、お互い大切にしようぞ……」
「……!」
向日葵が花咲いたような笑顔を向けられ、龍三は不覚にもドキッとしてしまう。
正直、反応に困る。女性への耐性があまりない龍三にとって、こういう時どんなリアクションを取ればいいのかわからない。
つかなんだこのお見合いみたいな状況は!? と内心悶えながら頭を抱える龍三なのであった。
自分が今どんな顔をしているのか気になって仕方がない。変な顔をしていないだろうか。急に恥ずかしくなった龍三は矢継ぎ早にその場に立ち上がろうとする。
それを見た小雪が龍三の身体を気遣うように釣られて立ち上がる。
「あ、もう動いても良いのか? あまり無理はするな。大事に至らなかったとはいえ、無傷ではあるまい? 今はまだ安静にしていた方が――」
「あー平気平気、こう見えて昔から身体だけは丈夫だったんだ。だから大丈――」
ぶ!を言い終える直前、立ち上がろうとした足に突然痛みが走り、身体のバランスが崩れて倒れそうになる。
咄嗟に傍らで様子を伺っていた小雪が龍三の身体を支えようと傍に寄り――しかし自分より身長も体重もある男性を華奢な体躯の少女が支え切れるはずもなく――そのまま龍三は小雪を押し倒すような形で倒れ込んでしまった。
きゃっという小雪の小さな悲鳴が聞こえたかと思えば、倒れた拍子に龍三の視界が暗闇に覆われ、ムニュッという効果音と共に柔らかい感触に包まれた。
膝の柔らかさとはまた違う、張りのある弾力が龍三の顔を押し返す。
「うぅ……ん?」
数舜置いて、事の重大さに気づいた龍三が手を付いて慌てて身を起こす。
「~~~~っ!? ご、ごめん! 俺、わざとじゃな……く……!?」
しかし、視界に入ってきた光景を見て思わず息を呑んだ。
四つん這いになった龍三の下には、両手を上げた状態で倒れている小雪の姿がある。
傍から見ると龍三が女の子を組み敷いて、無防備な状態の巫女さんに今にも飛び掛からんとしているように見えなくもない。
ついでに言うと、先ほどの柔らかい感触はやはり小雪の胸だった。
「ん……ぅん」
龍三が見惚れて言葉を失っている間に小雪の目がゆっくりと開き、瞼の奥に映る青玉の瞳が静かに龍三を捉える。
あどけなさがありつつもどこか女の色気を感じさせる顔立ち。
初めて小雪の目を見た時も思ったが、彼女の紺碧の瞳には不思議と人を引き付ける魅力があった。
否が応でも彼女の目を見ると、たちまち視線が吸い寄せられ、引き込まれてしまうのである。まるで海の底を覗き込みたくなるような好奇心に駆られるように。
それは龍三も例外ではない。小雪に見つめられて龍三も魅了されたように小雪と目を合わせたまま固まってしまう。
時間にすると十秒も経っていないだろう。
だが龍三には、まるで時が止まったようにこの見つめ合っている時間がとても長く感じられ――
「――は、早く離れよ……!」
不意に、我に返った小雪が頬を赤らめ恥ずかしそうにそっぽを向きながら言う。
「え……? ああ、わ、悪い!」
小雪に言われて龍三も咄嗟に後ろへ飛び退く。
そして、起き上がった小雪が正座したまま両手を合わせて胸に手を当て「……すけべ」と呟きながらこちらを睨みつけてくる。
「い、今のはわざと押し倒したんじゃなくて、不可抗力で――」
「……不可抗力? はて、本当かのう?」
顔の前で両手を振りながら必死に弁明するも、小雪は冷ややかな視線を向けたままだ。
「本当だって! まじで下心とかねぇから!」
「ほう? その割には妾から離れた時、心なしか鼻の下を長くしていたようにも見えたがのう?」
「え、嘘!?」
小雪に言われて思わず自分の鼻を手で押さえる龍三。
勿論、本当に鼻の下が長くなったわけではないのだが、その様子がツボに入ったのか、小雪がたまらず吹き出してくすくすと笑い出す。
「おい笑うんじゃねぇよ!」
龍三も恥ずかしくなりすかさずツッコミを入れる。
「いや、すまぬ、あまりに可笑しかったものでな、つい……ふふっ」
目尻に浮かぶ涙を指先で拭いつつ、小雪がまた込み上げてくる笑いを必死に堪える。
なんというか、意外だった。小雪は月からやってきた月の民だというので、地上に住む自分たちとは物の価値観や考え方、感じ方などが全て違うものだと勝手に思っていた。しかし、今の小雪を見てそれが誤りであると再認識させられる。
今の小雪の姿は無邪気な少女そのもので、周りを探せばどこにでもいる普通の女の子だった。
この子はこんな顔もするのかと、新しい一面を見れた気がして龍三もちょっと嬉しくなる。
暫くして、小雪もやっと落ち着きを取り戻し、
「ふぅ……すまなかったな。もう問題ない。しかし、こんなに笑ったのは久方ぶりじゃ」
「さいですか、そりゃあよかった」
龍三が膝に手を付いてその場に立ち上がる。
「……てかさ、小雪って月の民の長なんだよな? なんだってそんな偉い人がこの下界に?」
「……! それは……」
すると、何故か小雪は神妙な面持ちになり、俯いたまま押し黙ってしまう。
数秒の沈黙の後、徐に綺麗な所作でその場に立ち上がると、視線は下に向けたまま、ゆっくりと口を開いた。
「実はな……妾もよく覚えておらぬのじゃ」
「え、覚えてない……?」
「うむ。地上で目を覚ますまでの記憶が何故か頭からすっぽりと抜け落ちておってのう。地上に降りてくる前は、確かに月の都の離れで書物を繙いていたのじゃが……。どういう訳か、知らぬ間に気を失っていたようでな。次に意識を取り戻した時は、龍三の腕に抱かれていた状態であった……」
話しをしながら小雪が石段に座り、両足をぱたぱたさせる。よく見るとその足には靴や草履といった履物が履かれていなかった。
「だからあの時俺の顔を見て驚いてたのか……」
恐らく、正確には龍三の顔ではなく目を覚ましたらそれまで見ていた景色が一変していたため、それで一時的にパニックを起こしたのだろうと龍三は推察する。
それに対し「うむ」と小雪が頷いて見せ。
「その時はまだ目覚めたばかりであった故、己の置かれた状況も理解できず……。それで怖くなり、咄嗟にお主を拒絶してしまったのじゃ。……あの時は本当にすまぬことをした。一歩間違えれば取り返しのつかないことに……」
「もういいよその話しは。謝りたがりかお前は!」
再び謝ってくる小雪に呆れた龍三がツッコミを入れる。
「……ったく、それにしても、記憶が断片的に抜け落ちてるねぇ……。記憶喪失ってわけでもなさそうだし。うーん、一体何なんだろうな」
「わからぬ。己の身に一体何が起こったのか、妾もさっぱりじゃ……。全く、難儀であるな……」
困り果てたように小雪が首を横に振る。
完全にお手上げ状態といった様子だ。
そして僅かな時間、二人の間に沈黙が流れ……。
「……さて、長居しすぎたな。そろそろ月に帰らねば……」
そう言って小雪がゆっくりと立ち上がる。
「月に帰るって、どうやって?」
「……鳥居を使うのじゃ」
「鳥居?」
鳥居と聞いて龍三が石段の頂上付近を見上げる。その視線の先には籠目神社の鳥居があった。
「うむ。元々鳥居というのは神社の内側にある神聖な場所――「神域」と、外側の人間が暮らす「俗世」を分け隔てる境界の役割を持っておってな。月の都自体が一種の「神域」と化しておる故、鳥居を潜ることで境界を越えて月と地上を行き来することができるのじゃ」
小雪がゆっくりと石段を上がっていく。龍三も小雪の後ろに続いて、
「にわかには信じがたいけど、それで小雪はあの鳥居を経由して月から地上に降りてきたってわけか……」
「左様。ただ、鳥居を潜るだけで月に帰れるというわけではないがのう」
「そうなの?」
「うむ。そんな単純な話しではない。月の都は結界によって巧妙に隠されておる故、普通の手段では辿り着けないようになっておる……。特に、地上は穢れに満ちているからな」
「穢れ?」
「……穢れとはまぐわいや病、生き物の死によって生まれる不浄な気のことじゃ。月の都は穢れのない神聖な場所。逆に地上は物、土地、生物に至るまで全てが穢れてしまっている。故に、穢れた目では神聖な地である月の都を捉えることはできず、穢れが憑いている者は月の都に足を踏み入れることすら叶わぬ。そういう結界が張られているのじゃ」
「じゃあ、もう既に地上にいる小雪は月に帰れないんじゃないのか?」
「その心配は無用じゃ。妾は穢れが寄り付かぬ体質故、問題ない……」
「……ふーん。……穢れねぇ」
そんな話しをしている内に頂上まで辿り着いた。
龍三は自分より倍の大きさもある鳥居を見上げる小雪を見て、釣られるようにして上を見る。
「これを潜ったら月に帰れんのか……?」
「うむ、其の筈じゃ」
これを潜れば月に帰れると豪語する小雪。果たして本当に帰れるのか疑問だが、当の本人はもう月に帰るつもりでいる。すると小雪がこちらに振り返り。
「……短い間であったがお主との語らいは楽しかった。名残惜しいが月の民達にこれ以上迷惑をかける訳にはゆかぬのでな、これにて妾は帰らせていただくとする……」
そして、
「では、達者でな、龍三……」
「おう」
そう言うと小雪は目を瞑り、ゆっくりと鳥居の下を歩いていく。
これでお別れになってしまうのかと思うと、何だかあっという間の出来事だったなと龍三が感傷に浸る。小雪と出会ってそれほど時間も経っていないというのに、何故だか不思議ともっと長い時間を一緒に過ごしていたような……そんな気分にさせられる。
それくらい小雪と一緒にいた時間は、龍三にとって濃密で、衝撃的で、一生忘れることのない思い出となっていた。
また会えるだろうか。そんな微かな希望を胸に抱き、小雪が月に帰る――その瞬間を見届ける。
――はずだった。
「……?」
鳥居の下を潜り抜けた小雪が龍三の前を素通りしていく。
鳥居を潜っても何も起こらず、困惑する龍三をよそに小雪は目を瞑ったまま直進して――
暫く歩いた後、小雪の歩みがピタッと止まった。
そしてゆっくりとこちらに振り返り。
「?」
不思議そうに小首を傾げていた。
そして足早にこちらまで戻ってきて再び鳥居の下を潜る。しかし、やはり何も起こらない。
「???」
今度は龍三の顔を見て小首を傾げ――
「いや、ん? って首を傾げられても……」
しばしその場に立ち尽くし、やがて――
「月に帰れぬ、何が起こっているのじゃ!?」
小雪の悲鳴が静寂を斬り、籠目神社に響き渡るのであった。
蝉時雨が耳を叩き、色々あって忘れていた夏の暑さを思い起こさせる。
あの後、龍三と小雪の二人は日陰になっている神社の本殿の縁側に座っていた。
相変わらず日差しが強い。太陽の昇り具合をみるに気を失ってからそれほど時間は経っていないようだが……。
ちらりと視線を横に移す。
そこには夏の暑さを微塵も感じさせず、自分の周りに集まってきた蝶達と戯れている小雪がいた。
その様子はまるで子供の遊び相手をしてあげる母親のようにも見える。
小雪が差し出した指先の上に一匹の揚羽蝶が止まる。すると揚羽蝶は数秒と経たずに指先から離れ、そのまま空に飛び立っていく。その様子を小雪が静かに見守る。
我が子を慈しむような優しい目を向ける小雪の姿は、こうして改めて見てもやはりどこか浮世離れしていると思う。童顔だが楚々とした美しい顔立ちは超然としていて、まるで白い百合の花が咲いたよう。小柄で華奢なその身体は、抱き締めればそれこそガラス細工のように脆く、簡単に壊れてしまいそうだ。
何より、その見た目は完全に幼い少女にしか見えないのに、どこか大人の女性を思わせる魅力があるのだから不思議である。
本当、下手に触ると罰が当たるんじゃないかとさえ思う。
龍三が徐に天を仰ぎ、ギラギラと輝く太陽を睨みつける。
「それにしても、今日は本当暑いな」
「……暑い?」
小雪も釣られて空を見上げ、燦燦と照り付ける太陽を見る。
「ふむ、確かに日差しは強そうじゃな……」
「……小雪は暑くないのか?」
日本の夏は暑さに慣れた外国人でさえ辛いのだそうだ。というのも日本の夏の暑さは湿気が含まれた暑さなので汗をかいても身体に熱が籠りやすく熱中症になりやすい。
例えるなら蒸し暑い空気にずっと抱き締められているような感じだ。家の中にいる時も電気代をケチってエアコンをつけないと命を落とす可能性だってある、そんな危険な暑さなのである。
しかし小雪を見てみると、こんなに蒸し暑いのに汗一つ流しておらず、涼しい顔をしているのだ。
「心配には及ばん。妾は外から伝わる熱を拒絶しておる故、全く暑さを感じぬのじゃ」
「嘘だろ、こんなに暑いのに? てか、拒絶って、そういえばさっきも言ってたな……」
龍三が驚愕する横で小雪は「うむ」と小さく頷く。
更に小雪が蝶と戯れる様子を傍らで見守っていた龍三はその時、石段の上から小雪に突き落された時に感じたある違和感について思い出した。
「……あのさ」
「ん?」
「あそこから小雪に突き落とされる時、なんか見えない力みたいなもので俺を吹っ飛ばしたよな? ……あの時、俺に何をしたんだ?」
そう、龍三は確かにあの時小雪に石段の頂上から突き落された。しかし、物理的に身体を押されて突き落とされたわけではない。
小雪が龍三に向かって両掌をかざした瞬間、まるで反発し合う磁石のように謎の不可視の力で身体が後ろに吹き飛んだのである。
龍三自身、破魔の焔という超常の力を持っているため、あれが普通の現象ではなく超常現象の類だとすぐにわかった。
故に、小雪が口にした言葉を聞いて、龍三は耳を疑う。
「……あれは、霊能力じゃ」
「は……? 霊能力?」
目をぱちぱちと瞬かせ、龍三が困惑の表情を浮かべる。
「……うむ。霊能力とは霊的な存在を五感で知覚したり、霊力を用いて様々な霊的な事象を引き起こしたりする力のことじゃ。……そうだのう」
「……?」
すると、小雪がきょろきょろと周囲を見回し。やがて近くに落ちていた手頃なサイズの小石を見つけると、膝下に手を入れて撫でるように緋袴を整えつつ、ゆっくりとその場を立ち上がる。
そして小石に近づき、徐にそれを手に取った。
「うむ、これにするか……」
「? 小石なんか拾ってなにすんだよ?」
「百聞は一見に如かず。説明するより、実際に見せた方が早いと思ってな……」
そう言うと今度は手に取った小石を頭上に放り投げ、目の前に落ちてくるそれに向かって小雪がゆっくりと右手を伸ばす。
彼女の指先が触れる瞬間――小石は物凄い勢いで弾かれ、そのまま龍三の目の前を横切り、木々をへし折りながら森の奥へと消えていった。
「…………へ?」
「これが、お主の身体を吹き飛ばした見えない力の正体じゃ……」
その速度は軽く音速を超えていたと思う。あまりの衝撃に龍三も呆然とするしかない。
本当に驚くと人は言葉が出てこないのだと改めて思い知らされる。
「いやあんなの食らったら死ぬて!? よく生きてたな俺!?」
「無論、加減はしておる」
「ったりめぇだろ! 今のノリで吹っ飛ばされてたら身体が持たんわ! …………てか、これが霊能力? 俺の想像してるものとはだいぶかけ離れてんだけど……」
龍三が思い浮かべる霊能力は幽霊を身体に降ろして会話したり、神主さんがお祓い棒を持って悪霊退散~とかするあれのことだが、小雪が今見せた霊能力は龍三のイメージするそれとかなり乖離している気がする。
「拒絶能力と妾は呼んでおるが、月の都ではこの能力のことを不可侵域と呼称している」
「ワ、ワールド・リジェクター? なんか、小雪の口から横文字の言葉が出てくるとすげぇ違和感……」
小雪が自分の手を見つめながら話しを続ける。
「この能力の権能は『不変』、即ち変化の拒絶じゃ。この力は妾が触れたもの、あるいは妾の身に影響を及ぼすあらゆる変化を拒絶する……」
説明をしている最中にも蝶達は小雪の周りをひらひらと飛び交い、時折、頭や肩の上に止まったりして身体を休めている。
小雪はそれを気にも留めず説明を続ける。
「結界みたいなものじゃ。普段は無意識下で発動しておる故、不意の攻撃も妾には通用せん。それこそが、妾の有する霊能力じゃ……」
「……」
「龍三、お主はこのような摩訶不思議な力を持つ妾を見てどう思った?」
「え、どうって……?」
「気味が悪いと思ったか?」
龍三に向けるその眼差しには恐れと不安、二つの感情が入り混じっているように見えた。
その言葉にどれほどの意味が込められているのか龍三にはわからない。わからないが、それに対する回答は別に考えなくても自然と言葉に出ていた。
「……いや、別に」
「……!」
予想外の返答だったのか、小雪が驚いたように目をパチパチと瞬かせる。
「んだよ、ハトが豆鉄砲食ったような顔してんぞ?」
「いや、すまぬ。少し驚いてな……。普通の人間ならば、この力を見れば途端に恐れを成して逃げていく。中には妾の存在や能力に利用価値を見出し悪事を企む者もいた。お主は変わり者じゃな……」
「変わり者ねぇ。ま、ある意味そうかも……」
龍三が自分の右手を見る。意識した次の瞬間、手を覆うように青い焔――破魔の焔が姿を現した。
龍三の両手に宿る異能――破魔の焔は魔物のような霊的な存在、あるいは霊的な力のみを燃やす焔。水につけても消えることはなく、紙切れ一枚燃やすこともできず、龍三以外の人間には全く見えない未知の力だ。
その時だった。
「龍三、それは――?」
「ああこれ? これは――って、え?」
小雪の質問に違和感を覚えた龍三が思わず顔を上げる。
見ると、小雪の視線は真っ直ぐ龍三の右手に集中していた。その青い瞳の中にメラメラと確かに燃えるもう一つの青い焔が映っている。
そう、小雪は見えているのだ。
「え――? え――? まさか小雪、破魔の焔が見えるのか!?」
「ん? その青い焔のことか? うむ、見えておるが……」
龍三の思考が停止する。まるで時が止まったように、右手をかざしたままその場で動かなくなってしまった。
小雪は確かに今、青い焔と口にした。その言葉に全ての意味が込められている。
時間の経過と共に龍三もようやく思考が追い付く。確信する。間違いなく、小雪は破魔の焔が見えているのだと。この力を宿してからというもの、これが見える人と今まで出会って来なかった龍三は酷く狼狽していた。
そんな龍三の反応を見て心底不思議そうに小雪が小首を傾げる。
「そんなに驚いてどうしたのじゃ龍三?」
「どうしたもこうしたも……だってこの焔は、俺以外の人には見えなかったんだぞ? なのになんで小雪は見えるんだ?」
「何でと言われてもな。見えるものは見えるのじゃから仕方あるまい」
何故この焔が小雪には見えているのか、考えられる理由は幾つかある。一つは小雪が月の民であること、そしてもう一つは小雪が霊能力者であることだ。というか、最早それが答えなような気もする。
まだわからないことはたくさんあるが、もしかするとこの力について何かヒントが得られるかもしれない。
そんな期待を胸に抱き、いざ聞いてみようとしたその時、突然、ぐぅうと可愛らしい音が小雪のお腹から聞こえてきた。
「――っ!?」
「……え?」
見ると、さっきまでの気丈な振る舞いはどこへやら、今は自分のお腹を押さえて恥ずかしそうに俯いている小雪がそこにいた。
「もしかして、まだごはん食べてない?」
龍三の問いかけに小雪が小さく頷く。
それを見た龍三は数舜押し黙った後、勇気を振り絞って言葉を紡いだ。
「……もしあれならウチでご飯食べてくか? 家もここからそんなに遠くないし……」
今日会ったばかりの素性も知らない少女を家に連れて行くのは少し気が引けるが、それもやむを得まい。
この様子だとお金も持っていないのではないだろうか。土地勘もなさそうだし、元々月の都に住んでいた小雪からすれば地上はまさに未踏の地といえるだろう。
一番の理由は小雪が普通の人間ではないという点だ。龍三と同様に異能の力を持っているだけでなく、小雪は自らを月からやってきた月人だというのだ。
もしそのことが世間にバレたりでもしたら、どうなるか想像もつかない。
そのような理由もあり、提案してみたのだが。
「気持ちはありがたいが、流石にそこまでしてもらうのは申し訳ない……」
「けど、どこにも行く当てはないんだろ?」
「それは……」
小雪が言葉を詰まらせる。暫く押し黙って、恐る恐る口を開いた。
「……本当によいのか?」
「まあ、知らない場所で野垂れ死なれても困るしな。全然構わねぇよ」
「ありがとう。うむ、そうじゃな。……月に帰る術がない以上、致し方あるまい。龍三、すまぬが暫くの間、世話になる……」
「おう、任せとけ。つっても、大したもんは出せねぇけどな」
「構わぬ。食事を頂けるだけでも有難い」
ニカッと笑う龍三を見て小雪も安心したのか、釣られるように笑みを浮かべた。
そこで、龍三はある異変に気づく。
「そういえば小雪、お前靴はどうしたんだ?」
靴というかこの場合、草履と言えばいいのだろうか。ふと足元を見ると、小雪は履物らしきものを履いていなかったのである。
今思えば、確かに鳥居から現れた時には既に草履など履いていなかった気がする。
「? 真じゃ……気が付かなんだ」
龍三に指摘されて石段に座り込んだ小雪が自分の片足を上げる。
「うむ、妾としたことがどうやら草履を履き忘れたらしいのう」
そう言って両足をパタパタしながら何故か小雪も不思議そうに小首を傾げていた。
「……履き忘れたって、そんなことあんのかよ?」
龍三も呆れ半分に驚く。
草履を履き忘れることなんてあるのだろうか?
室内にいるならいざ知らず。外を出歩くなら絶対に忘れることがないものだ。
それなのに小雪は草履を履くのを忘れていたという。
「――まあいいっか、その辺の詳しい話しも帰ってからすれば」
そして小雪と共に籠目神社の入り口まで向かう。入口に到着すると、鳥居の外にあるアスファルトの道路を見て絶句した。日が照っている場所を見ると陽炎が浮かんでいるのがはっきりとわかる。
暫く太陽の光を浴びてあっつあつになっている道路を見つめた後、龍三は趣にその場で屈み込み、小雪に背中に乗るよう促す。
「? 何をしておる?」
「ほら、背中貸してやるから、とりあえず乗れよ」
「……! そこまでしてもらわんでも良い。このままでも妾は平気じゃ……」
「いや、そういうわけにはいかねぇだろ……」
「それに殿方に背負ってもらうなど、恥ずかしい……」
「つっても、流石にこの炎天下を何も履いてない状態で歩かせるわけにはいかねえよ。日本の夏の暑さはやべぇんだぞ? 靴も履かずに歩いてたら火傷しちまうよ。だからほら、遠慮すんな……」
「むぅ…………わかった」
そこまで言うと、小雪も渋々納得し龍三の背中に乗る。
小雪が背中に乗ったのを確認すると、龍三は軽々とその場に立ち上がった。
「龍三、重くはないか?」
「全然? むしろすげぇ軽い」
「……左様か」
そう呟いた後、まだ恥ずかしいのか小雪が背中に顔を埋める。背中越しにそれが伝わってきた龍三は特に何か反応するでもなく、そのまま家に帰るためゆっくりと歩きだすのだった。
真夏の太陽の日差しがサンサンと二人を照らし、蝉の鳴き声が籠目市内に木霊する。
投稿がかなり遅くなってしまいました。
キャラ同士の掛け合いが本当に難しい。
文才のぶの字もないですが、よければ見ていってください。