第二話 籠の中の「鳥居」
「たーつ! おはよー!」
「おう、おはよう」
「龍ー、どうした~? いつになく眠そうじゃん?」
「うるせぇ、本当に眠いんだよ」
龍三の通う高校はこれといった特色もない、至って普通の学校だ。
いつものように仮眠を取るため教室の机に突っ伏し、いつものように友人と朝の挨拶を交わし、そしていつものように担任の挨拶と共に朝のホームルームが始まる。
代り映えのない日常。いつもの光景……なのに、またしても朝に感じたあの既視感が龍三を襲う。
またか、なんだこれ。変な感じ……と思いつつ、机に突っ伏したまま伸ばしている右手に意識を込める。
次の瞬間、そこに青い焔が出現した。
教室の中でメラメラと燃える青い焔。平凡な日常に突如現れた異常。しかし、教室にいる誰もが龍三の右手に出ている焔には気づかず、最早恒例行事となった担任教師のHRという名ばかりの世間話を退屈そうに聞いている。
誰も気が付かない。見て見ぬふりをしているわけではなく、本当に見えていないのだ。
「……」
龍三が右手を握り締める。すると手を覆うように出現していた青い焔も、それに連動して空気に溶けるように消えていった。
「えー、今日の授業なんだがな……昨今ニュースでも話題になっている石化事件。朝のニュースを観てる奴はもう知ってるとは思うが、遂に籠目市内でも石化した人が発見された。これの影響もあり、暫くは特例ということで午前中で授業は終わりだ。部活動も少しお休みになる」
担任教師の口から放たれたその内容に教室中がざわめき始める。
石化事件の被害者が遂に籠目市で発見されたことに対して怖いねー、と言い合う生徒や、いつもより学校が早く終わることに対してやったぜと喜ぶ生徒、学校が終わったあと何して遊ぶ? と友達と遊ぶ内容を相談し合う生徒など様々な反応があった。
例に漏れず龍三もよっしゃー! と心の中でガッツポーズを決めていた。
「ちなみに、今心の中でよっしゃーとガッツポーズを決めた奴、後で生徒指導室に来い」
読心術でも持っているのか、龍三の心を見透かしたように担任教師兼生徒指導の先生でもある綾咲叶江がニッコリ笑顔を浮かべる。
腰まで届くハーフアップした灰色の髪にスーツ姿の女性だが、身長がクラスの女子達とそう変わらないためどちらかというと少女に近い。それに加えて生徒指導の先生をやっているというギャップから生徒からは「叶江ちゃん」という愛称で親しまれている。
ちなみに怒らせると滅茶苦茶怖い。
「ま、冗談はさておいて、帰りも気を付けて帰るように。夜遊びは厳禁だからな?」
叶江がそう言葉を締めくくり、朝のホームルームは終わった。
その日の授業は順調に進み、下校時刻になると全ての学年が一律で同じ時間に帰ることになるため正門を出る頃には周りは沢山の生徒でごった返していた。
肌を刺すような日差しが照り付け、学校帰りの生徒たちは皆汗をかいて暑そうだ。
「石化事件かー物騒な世の中になったなぁ」
「そうだなー」
頭の後ろで手を組み、隣でそんなことを呟くのは親友の一ノ瀬大河だ。
小学校からの付き合いで小、中、高と同じ学校同じクラスというとんでもない腐れ縁の友人である。
「龍はこのあとなんか予定あんの?」
「んー? 桜華に買い出し頼まれてるから、それをさっさと済まして家に帰るつもりだけど。大河は?」
「そっかぁ、俺はこれからバイト~]
隣で天を仰ぎながら大河が気怠そうに呟く。
ちなみに大河が働いているバイト先は商店街にある喫茶店のことだ。
「これからって、家帰ってもうすぐ行く感じ?」
「ああ、マジ大変。いつもは夜の十時まで働いてんだけどさ、例の石化事件のこともあるから今日は早めにバイト入って、早めに帰らせてもらおうと思ってなー」
「なるほどねぇ……まあ、帰り道は気を付けろよ。あと日が暮れる前にさっさと家に帰れよ」
「お前は俺の保護者か! ……肝に銘じとくよ」
その後、大河と別れた龍三は、桜華に頼まれていた買い出しを済ませるため、そのまま足早に帰路に就いた。
※※※※※※※※※※※※※
帰り道。
龍三が今歩いている場所は登下校の際によく使う山の辺にある道だ。
人通りが少なく、すぐ隣は山なので森の草木が天然の笠となって日除けにもなるし、気楽に散歩気分で歩けるので龍三のお気に入りの道となっている。
騒がしい蝉の鳴き声も今なら寛大な心で受け入れられそうだ。
「それにしても、暑いな……」
夏の日差しを全身に浴びながら、龍三は烈々とした空を見上げる。
関東に位置する地方都市――ここ『籠目市』は去年よりも遅く梅雨が明けて青空が広がり、今日から本格的な夏が始まろうとしていた。
「まだ七月の上旬なのにこの暑さかよ?」
ギラリと照り付ける初夏の太陽。ゆっくりと動く入道雲。海を思わせるくらい広大な青い空。
熱せられたアスファルトからは陽炎が上り、本格的な夏の訪れを告げるように街中の至る所からミンミンと騒がしい蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「七月の頭でこれなら、八月はどうなっちまうんだ……?]
誰に話すわけでもなく、一人でそんなことを呟きながら緩慢な足取りで歩き慣れた道を進む。
暫く歩いていると、不意に龍三の目の前を一匹の黒揚羽が横切った。
普段見かける黄色い翅をした揚羽蝶とは異なり、名前の通り鴉のような黒い翅を持った揚羽蝶だ。
この周辺ではあまり見ない種類の蝶だったので、つい物珍しさに気を取られてその場で立ち止まり、蝶の動きを目で追ってしまう。
黒揚羽がひらひらと飛びながら向う先に目をやると、そこにはまるで神隠しにでも遭いそうな神秘的な雰囲気を漂わせる『籠目神社』の入り口があった。
苔生した石垣の上に龍三の身長の二倍ほどある高さの石造りの鳥居が建っていて、奥には森に囲まれた石畳の参道が続いている。
籠目神社は縁結びの神様が祭られている古い神社で、良縁や恋愛成熟を祈願するパワースポットとなっている場所だ。
神社の本殿、参道、鳥居が全て東に向いて作られているのが特徴的で、鳥居の中心に向かって太陽が昇るように設計されており、縁起が良いという理由から元旦になると沢山の参拝客が訪れる。
更に神社の祭神が縁結びの神様ということもあり、若者の間では日の出の時に鳥居の下で恋人とキスをすると、その二人は永遠に結ばれると噂されているらしい。
とはいえ所詮、都市伝説は都市伝説。本当かどうかはわからない。
蝶はそのまま空中をゆらゆらと定まらない動きで舞いながら、鳥居を潜って神社の境内に入っていく。
その様子を遠巻きに見守りつつ、目的のスーパーへ向かうため再び歩き始めようとした――その時。
龍三は今見ている光景にふと、既視感を覚えた。
記憶にはないが、何故か龍三はこの光景を前にも一度見たことがある……? ような気がしたのだ。
(まただ、この感じ……)
しかも不思議と、蝶が何処に向かっているのか気になっている自分がいた。
この炎天下なので早く買い出しを済ませて家に帰って涼みたいと思っているのに、何故かそんなのは二の次と言わんばかりに蝶の向かう先が気になって仕方ない。まるで運命の力が働いているかのように、その足は自然と籠目神社に向かって歩み始めていた。
「一体、何があるってんだ?」
蝶に導かれるように龍三も神社の境内に足を踏み入れる。鳥居を潜ると何故だか異世界に迷い込んだ気分になるのは自分だけだろうか。不思議と鳥居を潜った瞬間、都会の喧騒が一瞬消えたように感じてしまう。
鬱蒼とした木々に包まれた参道。
道の両脇には幾つもの石燈籠が間隔を空けて建てられており、それらを流し見ながら龍三は規則正しく敷き詰められた石畳の道を歩いていく。
辺りをきょろきょろ見回しながら進んでいくと、やがて、山の傾斜に沿うように作られた石段の前に辿り着いた。
「……」
石段を上がると、朱色に染められた鳥居と荘厳な雰囲気を漂わせる神社の本殿が龍三を出迎えてくれる。有名どころに比べればそこまで大きくはないが、静けさの中にひっそりと佇むその姿は時代の名残を感じさせ、その神々しさに龍三も圧倒されてしまう。
初詣くらいしかここに来る機会がないので昼間の籠目神社は少し新鮮に感じる。
気になる点があるとすれば、揚羽蝶の数が妙に多いことくらいだろうか。見渡してみてもあちらこちらにいる。特に鳥居の周りに集まっているようにも感じた。
振り返ってみると、森の木々が左右に開けて朝日が望めるようになっており、今も東の空が前方に広がっている。なるほど確かに、これなら水平線から昇る太陽を拝めるわけだと龍三は一人心の中で納得した。
「……なんだよ、何も起きねぇじゃねーか」
とりあえず本殿まで登ってきたものの、結局何か起こるわけでもなく、ただ疲れただけという結果にがっくりと肩を落とす。
溜め息を吐きながら「戻るか……」と呟いた龍三は、最後に神社の本殿の方へ振り返り――
「――え?」
龍三の思考が停止した。
息を呑んだ。
視界に飛び込んできた光景に一瞬目を疑う。
無理もないだろう。何故ならそこには、さっきまで誰もいなかったはずの場所に、いつの間にか人の姿があったからだ。
よく見るとそれは、少女だった。
――巫女装束を着た女の子が、龍三に向かって倒れ込んでくるように鳥居の中から現れた。
「えぇぇッ!?」
あり得ない光景を目の前にして、龍三も思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
その困惑と驚愕が入り混じった声は虚しく神社の境内に木霊し、そのまま青い空に吸い込まれていった。