祖父の話
ちょっと毛色の違う話となります
入院中に、つらつらと思い出したので書きました
ちょっと長いです
とばしても大丈夫です
私の父方の祖父の話、というか生育歴の話になってしまうのだが、入院中によく思い出したのでつらつら書いてみる
文章化したらえらい長くなったので、入院記録にさしはさめず、別立てになりましたごめんね(何を謝っているのか)
じーちゃんは幼い頃、投石で腕に怪我をして(いじめっ子にやられたと言ってた気がする)それが身体障害で手帳をもらっていたと思う
本人が
「これで戦争にとられなかったんだ」
と言っていたから。
そんな楽なもんでもなかったんじゃないかな。腕は確かに動きがよくなかった(伸びなかった?)
じーちゃんは働き者だった。専業の農家だったのだと思う
米を育てて(餅米もやってた)梅の木の世話をして青梅は市場に出してたし、梅干しも作っていた(梅干しの仁をよく取り出して食べさせてもらった。種の中身ですね)。蕎麦も一時期やってた、裏山で。
たぶん昔は煙草を育てていたらしくて、隣の納屋は乾燥場、と普段呼ばれていた。昔はそのように使用していたのかも知れない
庭木の世話もよくやっていた。グミの木があって時期になるとわんさか実った。バラの木や曼珠沙華、ラッパ水仙を植えていたのも祖父だ。金柑はよく漬けていて配っていたし、柿の渋抜きも得意だった。らっきょうの甘酢もうまくて、私はあれより美味しいらっきょうを食べたことがない。
庭の定位置に植えられていた椿の低木を祖父が亡くなったあと親父が切り倒したが、あれの世話もよくしていた。とても美しい椿が咲いた
時期になると餅つき器で餅をついて丸めていたが、祖父はあの不自由な手でとてもキレイですべすべした丸餅に素早く仕立てあげていて、それは親父もかなわなかった(なんでもできるスーパーマンみたいだな)
母屋と納屋の間の通路が風を通して夏場は涼しかったので、よくそこにいた
菜種をやっていたのは誰か、あれは親父かな。
じーちゃんは、台地といって、裏山をのぼったところに梅林を所持していて、つづら折りの山道を背負子を担いで梅林と畑の世話に行ってた
私も何も持たずについて行って、途中のイボの観音様のまわりを掃除して手を合わせるのが常だった
未就学児の私を家にひとり置いておけないと思ってくれていたんだね
じーちゃんの農作業の傍らに、ボーッとしたの(私のことだ)がチョロチョロして野っ原で遊んでる感じの、本当に昔ながらの育児でした
戦争にとられなかった、のは、それなりにまわりから「生き残りやがって」と、やっかみというか羨みとかあったんではないかな、想像だけど。
ちょっと苦笑いしながら、いつも言っていたから。
戦争中は、芋ばっかり食べてた、らしい
そのわりに芋ごはんばかり出てきて、私はなかなかの芋ごはん苦手に育ってしまった…一生分の芋ごはん食べちゃった気がするもん…
じーちゃんは三男四女をもうけ、
私の父は長男だが上に二人の姉がいる
七人兄弟、けっこうな多産ですね。
末の四女を産んで祖母は亡くなり、
物心つかないうちに母を亡くした四女を皆はかわいがった
「とぜんね」というのは鹿児島弁で、さびしいね、みたいな意味なのだが、よく言われた。
同じく、物心つかない3才で母を亡くした私にも向かって。
また「ぐらしか」は、かわいそう、みたいなニュアンスが強く、母を亡くした幼い子供に多用されていて、
最初はあまり感じなかったけれども言われるごとに私はものすごく反発心を抱いていたものです。なんだろう、同情するなら金をくれ的な?(実際、お年玉は多めだったように思う)
なにくそ、どーせこっちの気持ちなんかわかんないくせに、みたいなひねた見方を「かわいそうだねえ」なんて言われたら思っていたものだった
そもそも、最初から思い出が数えられるほどしかないので、母がいる状態がわからず、わからないのにわからないのを哀れまれて、へそを曲げてしまっていたように思う。
父は働いてはいたが、実に不安定な人で(収入的にも生活態度的にも)、母はヤクルトの販売員をしながら私を育てていた。私はその頃は幼稚園に通っていた。実家とは同じ市内の商店が連なる通りの裏路地の長屋みたいなところに父と母と私の三人で暮らしていた
母は、よく笑う人だったと皆は言う。母方の親戚に聞くとそう言っていた
ヤクルトの事務所前の側溝を覚えている
深く、幅が広く、子供の私には恐ろしく見えたことを覚えている。足のすくむ私をヒョイと抱えてそこを越えた母を覚えている。自転車の前かごに乗せられて仕事に向かう前に私を幼稚園に送り届けた母を覚えている。動物園の手すりに私をのせて笑っていた母を覚えている
…あれは怖かった、やめてほしかった。
その母を喪い、まだ幼い私をどう育てたらいいのかどう接したらいいのかわからない父が、祖父と四女の居る実家に戻ったのも、致し方のないことなのだろう
…思えば祖父は、実家を四女に遺したかったのかな?
長女は遠くに嫁にいき次女は近くに嫁ぎ、
長男は若くして家を飛び出して放蕩息子、
三女は遠くに嫁ぎ、次男は名字を変え婿入り、
三男は頭の良さで実家を見切って嫁さんの味方で長男(私の父)とソリ合わずイヤその判断と気持ちわかる、すごいよくわかる私も縁を切りたい親父と。無理だけど。
基本的に長男(父)は快楽主義者で今がよければいい、という、なんていうの…、江戸っ子じゃネンだからサ…(ため息)宵越しの銭は持たねえみたいなところがある(私も人のことは言えない)
それは母が生きていた頃からかわからないけど、亡くなってからより歯止めが利かなくなったんじゃないかな想像だけど。
七人いる兄弟の中で、四女のみ、実家に残っていた
かわいがられていた弊害なのか、もってうまれた素質なのか、聞いた話だが仕事が続かず男運も悪かった(真偽は定かでない)らしい
祖父はこんな風にしてしまったのは自分だと、責任を感じて?実家に置いていたのかな?祖父の気持ちはわかりません
家土地を遺してせめてもやっていけるようにと考えていたのかな?
しかし、出ていったと思っていた長男が出戻ってきた
物心つかない娘(私)を連れて。
長男は金を稼ぐためと年の半分は都会や離島へ出稼ぎに行く。いちおう職人なので、建設現場とか工事現場ですね
その間、私の世話は祖父と四女である
近くに嫁いだ次女もいるが自身にも子がおり(私と年の近い3人)家庭がある
伯母は多分その頃はご主人のご両親も健在で農家の嫁で、忙しかったろう
それでも私のことを気にかけて世話をしてもらったことは覚えている、感謝している、頭が上がらない
四女(叔母)は私が中学にあがった頃、結婚して家を出て行った
妊娠したのだ
乳児だったいとこを覚えている
仏間で座布団に寝かせられて、あぶあぶして、オムツを替えられていた
もしかしたらだけど、四女は実家が居心地悪かったかな。
それとも逆に、祖父が心配で家にいたけど兄貴帰ってきたし大丈夫よね、という気持ちで嫁いだのかな。私にはわからん
私はそれなりに叔母になついたけど、あの広いとは言えない家に三人で暮らしていたからなぁ(て言われても広さわかんないか。木造日本住宅今築…50-60年くらい?DK1仏間1和室2、みたいな?)
長男(父)は納屋の2階を改装してそちらに居着いた、そして出稼ぎに出かけて「ヒャッホー!!」である。帰ってきてもよく出歩いてた
そういやアイツは小銭を貯める趣味があって、ザクッと袋に入れてたけど、あれはなんだったんだ。私はもちろんくすねてたけど。
バレてないと思ってたけど、…もちろんバレてたんだろうな…
渡されていなかった、小遣いがわりだったのかもしれない(私は一年をお年玉でやりくりしていた)
私の世話はもっぱら祖父がみた
祖父の臨終の際、病院に来ず家にいろと言った父を恨んでいる。母の臨終にもたぶん立ち会っていないので(覚えていない)、恨みかさ増しである
そして多分この分だと親父の臨終にも間に合わないのでざまあみろである。
電話がくるからいろと言った、その電話も自分が病院からかけてきたくせに。
祖父は私が高校生の頃、亡くなった
晩年、三~四年は入退院を繰り返し、記憶もおぼろげになっていた、時々怒りっぽくなっていたのも覚えている。確か、肺の病気だったから、家にいるとき酸素ボンベがあったような気がする
父が用意したごはんを気に入らないと投げつけていたのを見ていた。少量を種類多くと注文が多いようだった
私が手伝うこともあった(遺影用にか病院に祖父の写真を撮りに行けと言われたことはまだ父を恨んでいる)
祖父が四女の繋ぎ止めだったのだろうたぶん。
病院から父の電話で祖父が息を引き取った、四女に知らせろと連絡がきたのだ
思えばあの人(四女)は危篤の父の病院にかけつけられなかったのは婚家による圧迫だったのか?
祖父が亡くなってすぐくらいに、四女は幼い息子とともに行方をくらました。失踪である。
亭主がロクな男ではなかった、本当に。
結婚する前も皆は反対したのだ
私はそのとき未成年であったから具体に大人から話を聞いたわけではない
だが経験はした
中学だか高校だか、祖父は入院中、父は飲みにか何か、とにかく居なかった
夜、たいていの場合、私は家にひとりだった
あの頃はあれは別に普通だと思っていたけれど、本当は寂しかったのかな。ひとりで時間をやり過ごすのは得意になった気がする
…その夜もひとりだった。テレビとか見てたのかな。
夜の9時過ぎとかだったと思う、10時とか…
勝手口のドアが叩かれた
…こわごわ、出てみた
四女の亭主がいた
「こっちに○○(四女)はきている?」
物腰は柔らかいし言葉は丁寧だ
だが何か怖かった。目が。(うまいこと説明できない)
…いや、いない。だがそもそもなぜ四女?そちらにいるのでは?
不審感もあらわに、私は言ったはずだ
「そうか…」
男はスッ、と千円札を差し出した
「自分がきたことは、とーちゃん(私の父)には言わないでくれ」
イヤ言うよ、ソッコーでゲロったよ
おまえこわいもん。
しかし金の魅力には逆らえず、千円は受け取ってしまった
父はたぶん深夜に帰宅したと思う
四女の亭主を嫌う派だった父は、ソッコーゲロった私に「わかった」と言い千円札をぷるぷる震えながら差し出すのに「それはおまえが使え」と受け取らなかった
その日は勝手口も玄関も施錠を厳重に確認して眠った
私の手元にきた千円は、すごい汚いお金に見えた気がしてすぐさま消える食料品(パンとか?)を買った気がする
四女に何があったのか、どうなったのか、聞いても何も教えてくれなかった。あの人(父)は全体的に言葉が少ないと思う、本当にいかんと思う
…ちなみにあの男(四女の最初の亭主)は本当にこわい男で、とてもではないがここには書けない。
四女は最終的に離婚し(なんとかできた)、息子をひとりで育てていたが、善い人とめぐりあい再婚した
失踪したあと、確かに何年かは居場所もわからなかったようだがそのうち、近所に住んでいた幼馴染みの嫁いだ土地に行き頼り、基盤をもてていたことを知れた
実家からは離れているが県内である
四女(私からみると叔母)は実家から離れた土地で幼き息子を抱え善い人とめぐりあい定職に就いた。こう言うとおかしいかもしれないが、まっとうになったのである。
地元にいると甘えがあったりどこか馴染めない自分を好きになれなかったのかもしれない
これは、地元を遠く離れて嫁いだ私にも言えることだが。
私が内面を見つめたり(旦那はなんか言ってたな、哲学者?求道者?)、いろいろな記録をするのは、祖父の影響が強いと思う
祖父は寝る前、その日に何があったのかノートに記録していた。多分、出納帳も兼ねていた。現金の出し入れも書いていたから。それが何冊にも渡っていた。ラジオをよく聴いていたのも、私には影響している。黒くて大きなラジカセはまだ覚えている
男手ひとつで三男四女を育てた。そして最後に私も育ててくれた
七人兄弟の上と下が20くらいの歳の差があるから、下が産まれて3才くらい?で祖母が亡くなったとき、上は嫁いだか嫁いでいないかというところではないか。
出稼ぎに行って善い人とめぐりあい土地に根付いたので、
それを見ていた父が、一人娘の私が余所の土地に就職で出たいと言ったとき…反対した父の気持ちもわか…
いやわからん。
理不尽しか感じない。
なんでじゃ、と思ったし言ったはずだ
おまえは家を飛び出してフラフラしてたクセに?全体的にあの人は「おまえが言うなよ」と思うようなことをよく言うしする。
とにかく反対された
四女とおまえはそっくりだ、ダメになる、ずっと頭ごなしに言われ続けた(だから旦那が子供を叱るとき頭ごなしに言うのが腹立つときがあって、横から私が強い口調で言い返したりする←いかんこととはわかっている…)
祖父が亡くなったあと、私と父は険悪になった
衝突が多くなったのだ
ソリが合わないながらも私が結婚して家を出るまで父と一緒に暮らせていたのは、私がかなりの部分で我慢していたし妥協していたからだと思う。もちろん父も全く我慢していなかったとは言えないけれど。ひとり暮らし出来るほど蓄えも稼ぎもなく、実家に寄生してなんとか暮らせてはいたが、先行きは暗かった
…よくこんな私を拾ったね、とここで旦那が神様に見える。感謝しておこう。
母方の親戚とは、私の結婚を機に疎遠になっている
たぶん私が何かマズいことをしたのかもしれない。
母が亡くなったとき、私を引き取って育てようかと母方の親戚から声がかかったと、私が結婚するとき父から初めて聞いた
断ったのだと。どう思ってどう断ったかは言わなかったのだが(あの人は全体的に言葉が少ない)、初めて私も聞いてびっくりした
え?私には違うルートの人生をいく可能性もあったということ?
たぶん母と出かけた動物園のとき、一緒だった人なのかな。あのとき、おぼろげですが誰かと一緒だった気がするんですよね
引き取られたら…そうだなあ、たぶんもっと父を客観的に見られたかもしれない。私の進路の可能性も、もっと広がっていたかもしれない。…でも、あくまで、かもしれない、だからなあ。
祖父は怒らないようにすることを気をつけている人だったように思う
私は図書館に通う児童だったが、返すのが面倒くさくなった時期がある
全然褒められたことではないのだが、そのうち、自分が図書委員なのをいいことに、借りた本を返さず、机やダンスの引き出しにしまい込むようになった
…あ、いかんですよね、ハイ。
あるとき祖父にバレた。いや、学校から連絡きたのかな
祖父は私に怒らず、集めた本を袋に入れて全部返しに行ってくれた。怒られるのがイヤな私はついていかなかった
祖父は、祖父の精神は私の中に生きているし、覚えているなあ、と思っている