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もう顔の一部でもあるわけで




「主殿! わたくしめを綺麗にしてくだされ!」


 まったく、うるさい。キンキンと甲高い声が響いて、頭痛がしてくる。何度も何度も催促してくるが、今はそんなことが出来る状況じゃないということをわかってほしい。


「お昼に食べました鉄板焼きランチの油がペタリと! わたくしめに付着しておりまして!」


 勉学に励んでいる若者の気を散らすな。油が確かに飛んでいて、若干ポツポツとしているのはわかってる。

 でも、この教授の講義スピードは爆速だから構っていられないんだ。


「主殿こそ視界が悪うございましょう? レンズを早くお拭いなされよ〜」


 語尾が弱々しくなってきた。訴えても訴えても僕が無視し続けるせいである。

 こうも意識を持っていかれるのだったら講義前に一拭きしておけばよかった。コイツが講義中に汚れに気づいたのが運の尽きだ。手元もスライドもちゃんと見えているから問題はないのに。


「しくしく、しくしく」


 とうとう泣き出した眼鏡。涙は出ないというのにとても悲しそうに。

 そう、先ほどから懇願していたのは僕の眼鏡。何の変哲もない、銀縁のシンプルなもの。

 外見に頓着しない僕でも似合う、一番ありふれているような眼鏡は、ある日を境にいきなり言葉を発するようになった。

 眼鏡の声は僕以外には聞こえていない。オーソドックスなオカルトっぽさ。日々のストレスで自分がおかしくなったのかと思ったが、どうやらそうではなく、物に宿った魂がランクアップした結果なのだと眼鏡は言っていた。


「主殿ぉー……」

「この講義が終わったらちゃんと拭いてやるから」


 ぼそりと小声で呟く。眼鏡は「必ずですぞ」と声に力を込めて念を押してくる。

 言葉を発せられるようになる前も、埃まみれになったり、指紋でレンズがベタベタになったりしたら、こんなふうに大騒ぎしながら拭かれるのを待っていたんだろうか。僕は自他ともに認めるズボラだから、なかなか拭かれずにやきもきしていたことだろう。

 想像してみるとやけに滑稽で、笑いが漏れてしまった。隣に座っていた人がこちらに不思議そうな視線を向けてきて恥ずかしい。

 どこに眼鏡を置いたかわからなくなったときに返事をしてもらえてすぐ見つけられるのは便利だと思っていたけれど、やっぱりコイツが喋れると僕の人生に支障が出るのはないか。眼鏡を新調すべきか。


「本日の講義はここまで。来週までのレポート提出を忘れないように」

「講義、終わりましてございます! ささ、疾く疾く!」


 他の受講者たちが退席していったのを見計らって眼鏡を外す。よく見てみると思ったよりも汚かった。

 眼鏡拭きを僕みたいな奴が携帯しているわけがない。服の端っこで適当に拭く。汚れが服に染みる? 洗濯するからいいのだ。

 油が伸びようがもう一度拭く。余計に汚くなったかもしれない。とりあえず眼鏡本人が納得するまで拭きまくる。


「ふいー……極楽極楽〜。……もうよいですぞー」


 すっかり透明度を取り戻した眼鏡を照明に翳すと、嬉しそうに光を反射した。光は広がって何重にも乱れて見える。

 ド近眼のド乱視は眼鏡が無いとどこへも行けない。だから眼鏡のご機嫌取りも致し方ないところなのだ、反抗されて何も見えなくされてはたまったものじゃないので。おかしな力をコイツが持っているのはすでに体験済みでこりごりだ。

 再び眼鏡をかけ直して世界にピントを合わせる。


「むっふー! これでわたくしめはピカピカ! 満足ゆえ主殿の視界も綺羅綺羅しく調整してさしあげまする!」


 でもまあこの眼鏡、こうした可愛いところがなくもなかったりもする。わかるように方向性はとっ散らかっているが。

 宣言どおり、例のおかしい力のせいで視界がイルミネーションよろしく輝き出して、僕はまた吹き出した。どこぞのパレードだと。


「素敵でしょう? 主殿に真摯にお仕えするこんな眼鏡、他にはおりませぬぞー!」

「だろうね、他にいたら嫌だよ」


 しょうがない。金欠だし、新しく買いに行くのも面倒だし――少しこの状態を楽しんでいる自分もいることだし。

 まだしばらくはこの眼鏡をかけることにしておくか。




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