勇者とそのおともは野宿をし
陽だまりのにおいが薄れていく。そのことに気づいたのはいつのことだったか。
底抜けに明るい、地と空が溶け合ったようなあたたかさが徐々に薄くなっていると感じるのだ。変化は良いことであるのかもしれないが、俺は若干の虚しさをおぼえている。
においの持ち主に初めて会ったときの目映さを忘れたことはない。あれほど明瞭で穏やかなにおいは知らなかった。それがなければ、この現状はあり得ず、俺はずっと同じ日々を送っていたことだろう。抗うことも不可能、余裕がなくなるまでに鮮烈だったのだ。
「くしゅんっ」
「……冷えるな。枝を足すか」
「あ、ありがとう」
突然のくしゃみの音に現実に引き戻された。
そうだ、俺たちは野営中。夜も深い、考え事も程々にしておくべきだ。警戒を怠るわけにはいかないと自らに言い聞かせる。何かあってからでは遅い。不測の事態に備えられるようにしておかなくては。
広がる静寂、時折訪れる木の爆ぜる音が強く響く。
「考え事? 何か悩みでもあったりする?」
「あ? そんなものねえよ」
「そっか」
無いはずだ。これは悩みと言えるものじゃない。ただの我が儘だ、エゴだ。唾棄してもいいくらいの。自分に好ましくないからと拒絶したいだけ。
遠くで虫と鳥の鳴き声。そよぐ風。時間は粛々と流れていく。暇を持て余しているとは思わないが、やはり思考は巡る。俺のこと、世界のこと、コイツのこと。
先ほどの勇者の発言を咀嚼する。コイツの方こそ悩みが尽きないのではないか。他人の心配をする前に、己の心配をしろと思う。言っても聞かないだろうが、勇者に危うさを感じているのは否めない。たやすく決壊してしまいそうな脆さが無いとは言わせない。
だが、頼るしかないという現実が忌々しく苦い。
横目で見やれば、勇者はぼんやりと火を眺めている。
眠れないのか、言いたいことがあるなら聞くから言えと、軽々しく口にしたい。望む返事を返してやれるとは限らないから、そうはしないけれど。そもそもそんなことを言う資格すら俺にあると思えない。
明るく照らされた勇者の横顔が壊れ物のように見えて、苦しくなった。浮かび上がる、たくさんの“何故”という気持ちは飲み込まなくてはならないのだろう。
「……悩んだりしてないんだよね?」
「黙れ、じっとしてろ」
傍らにいた勇者の頭を撫でる。幼い弟妹にしてやった時とほぼ同じ感触。勇者は混乱しつつも大人しく俺にされるがまま。
丸く小さい頭。いずれは体もたくましく成長し、別人のようになるのだろう。そして最盛期を迎えたのちに老い痩せさらばえ、やがて大地に還る。自然の営みだ、変わるのは当たり前のことだ。
ああ、精神の成熟にもっと肉体がついていけばいいのに。
「オマエはこの世界が好きか」
「好きだよ」
「言い切るんだな」
「好きだからこそ、守るために闘ってる」
見据えてくるのは強い光をたたえた瞳だった。反射的に手を勇者の頭から離せば、髪が揺れ、甘く薫った。乳臭いその甘ささえ、旅のさなかに消えていってしまうのだろう。
一切は止まらない。ならば前に行き続けるしかない。そして、俺はその手助けをしてやりたいと思う。
引け目があるのか? 馬鹿らしい。そうじゃない。ただ、この感情を表す言葉が見つからない。ぬくもりは感じられるところにあるというのに。
「大丈夫だよ、心配しないで。自分は自分が出来ることをしてるだけ」
肺が軋んだ。息を呑むことさえできない。
そうだろう、コイツはそういう奴だ。そういう人間になってしまった。やれるからやる。わかりやすく単純だ。成し遂げられてしまうということも、ある種の悲劇かもしれない。
そうして、勇者は誰もが望む存在になろうとしている。ごく普通の村人だった頃の名前すら遠くへ置き去りにして。
「えっ、泣いてる!?」
「違う。泣いてねえよ。なんでそう思う……」
コイツが決めたことだ。だから悔しくはない。けれどもどうしようもなく名残惜しい。うまく飲み込めなくて吐き気がする。
俺を連れ出した、森に差し込む木漏れ日のようなあたたかさは欠片となって少しずつこぼれ落ちていく。過去のきらめきを伴って。崩されなければあり得たであろう平凡な日常と共に。
「っ、くしゅん!」
「……まだ寒いか」
「ご、ごめん。なんかそんな雰囲気じゃなかったのに」
「別に良い。……今夜は本当に冷え込むな」
着けていたケープマントを外して渡してやる。遠慮はいらんと促せばすんなりと羽織ってくれた。余る肩の布、隙間が見える襟元、出会った頃とさして変わらないという事実にも、俺の心は軽く荒むようだ。
「牛乳温めたら飲むか?」
「うん。蜂蜜入れてもいい?」
「入れろ入れろ。んで、飲み終わったら寝ろ」
「やったー。あっ、見張りは交代するから起こしてね」
「了解」
もうすぐ今日が終わり、明日も勇者は歩みを進めるだろう。そのたびに俺が惹かれた、あの陽だまりのにおいは薄れていく。その対価がどうか見合うものであるようにと願わずにはいられない。
その思いを聞き届けたのか、星が一筋、空をかすめて流れていった。




