乙女心よ静かに燃えろ
髪を切ったから、もしかしたら気づかないかもしれない。
長い間、腰近くまで伸ばしていた髪をひとつに括ってから「もういいか」と、その房の根元にハサミを入れた。案外、何の感慨も湧いてこないことに少しだけ寂しくなったが、それは当たり前のことだと納得した。
思えば、あの人は私の髪を触るのが好きだった。くるくると指に絡めたり、さくさくと揉んでみたり、するすると梳いてみたり。
いつの日か「楽しいの?」と訊いたら、言葉にはせずに微笑まれたのだったか。楽しいのだと、細められた瞳と上がった口角が示していたから、それ以降触れられることがあっても言うこともなく好きにさせていた。
私もまんざらではなかった。君が愛しいのだと、その触れてくる手から伝わってくるようだったから。
さて、と変わった自分を見つめる。洗面台の鏡の前で立ち尽くす。「大丈夫、ショートヘアも似合ってるよ」と心の中で的外れな鼓舞をする。
何年、あの髪形でいたのだろう。私を表すためのひとつのパーツを、構築するためのアイデンティティとすらなっていたそれを自らの手で消去した。
何も浮かばない。ただ胸に冷たい風が吹き抜けていく心地があるだけ。
「もういいか」と思った。こうしないとあの人の姿を見に行けないと思った。いきなりやりすぎだと友人や仕事仲間には驚かれるかもしれないが、ちょうど季節の変わり目、大胆なイメージチェンジをするのも意外とアリではないかと乾いた笑いが漏れる。
血管がほのかに目立つようになり、かさつくことも増えた私の手からハサミが離れた。かしゃん、と泣き声のようにこぼれた音はあまりにも無機質だった。広げられた新聞紙に散らばる髪を、荼毘に付すかのように丁寧に包んで、ゴミ箱に投げ入れる。収集されて燃えるときにはこの胸の穴が閉じていることを願う。
自分が会場にいたらあの人は気づいてくれるだろうか。あの人が好んでくれたロングヘアでもなくなって、髪色も変わってしまった今の私は、おそらくあの人の記憶の中の私ではないけれど。
リビングのテーブルの上には一通の招待状が置いてある。可憐に装飾された白く手触りの良い封筒を、ポストから取り出した時の頭痛の強さと言ったら。
なのに、招待状を破って捨てることは出来なかった。だから、「もういいか」と思った。切られた髪は乙女心。さっさと燃えて煙となって、空に還れ。
自分の髪が長かったのは先ほどまでの話。髪の色が眩しいほどの金色であったのも、随分と昔の話なのだ。
ペーパーナイフと万年筆を手に取る。
今から私は〈出席〉に丸をつけなければならない。




