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どれだけの回数一緒に食事して、どれだけの数の夜を共にしただろう。
弘子が恵と付き合いだしてからもう二年以上が経っていた。
敬語が抜けるまでに三か月かかり、彼の家に泊まるまでに半年かかった。
当時はそこまで自覚がなかったが、今ではそれが大事にされていたからだと知っている。
*
上映が終わって照明が灯されると、小さなシアターからぱらぱらと人が吐き出されて、その最後に二人も続いた。
この映画館にエンドロールの間に席を立つ無法者はほとんどいない。
弘子が恵と久しぶりに会うのは、弘子が大学生、恵が社会人になったから、というのが一番大きな理由だ。
学生時代はいつだって好きなときに恵が一人暮らししているアパートに訪ねて行けばよかったわけだが、彼は大学四年に上がったと同時に一人暮らしをやめ、街中から電車で三十分ほどの実家に戻った。
今も、通勤に便利だという事でそのまま実家で暮らしている。
そうなればどうしても会うのは土日になるわけで、恵の休日出勤だとか弘子の補講だとかまあその他いろいろで、二人が最後に会ったのは先々月の末だった。
「なんかがっつり食べたいわ、俺。カルビチャーハンとか焼きラーメンとか。弘子は?」
「あー、それいいかもね」
恵がそう言いながらバスに乗る。続いて弘子も。
二人の間でそういったものがおいしいのは、街にある行きつけの居酒屋だと決まっていて、酒もつまみもおいしければ値段も安いという、若者にはとてもありがたい店だった。
店主は無口な中年の男性で、いつもTシャツの袖をまくりあげて首にしょっちゅう流れ出る汗をタオルで拭いている。
真冬でも厨房の中は暑苦しそうだが、今の時期はなおさらだろう。
店へ向かう途中、二人はつい先週も会ったかのように会話を交わす。
二人でいる時、恵は基本的にものしずかだ。
大勢の前ではノリがよく、盛り上げるタイプなので、付き合いだした頃は恵があまりにもしゃべらなすぎるせいで『機嫌が悪いのだろうか、何か怒らせることをしただろうか』と誤解して心配する始末だった。
彼の友人曰く『酒を飲んだらべらべら話すし、めっちゃ笑うけど、素面の恵は大概無口』だそうで、当時はそれを聞いて胸をなでおろしたものだ。
恵と会わない間に弘子が観た映画、卒論で使う小説について、恵の職場の先輩について、弘子と会わない間に恵が飲みに行った店、おいしかった食べ物。
会話と会話のあいだにちょっとした間が空き、それを気まずく感じる前にどちらかがまた口を開く。
大体の割合でそれは弘子になるが、別にお互い黙っているからと言って特に気まずく感じることもない。
そうこうしているうちに二人はバスを降り、街頭照明や商業施設のウィンドウから漏れた灯りで明々と照らされたタイル張りの歩道を歩く。
夕方を過ぎてから、この辺りは余計に賑わう。
隙あらば若者を連れて行こうとする居酒屋の客引きの青年たちの間を足早に抜ける。
ビルの五階にその店はある。エレベーターのドアが開く前にテーブル席がいいと恵がいい、カウンターがいいと弘子が言う。
果たして二人はカウンター席に並んで座っている。
今度は正真正銘、仏頂面をしている恵をなだめる。
「空いてないんだからしょうがないよ、二人なんだし」
自分がなだめられていることに苦笑した恵が、早速メニューを開く。途中で店員がお通しとおしぼりを持ってくる。ちらっと目を通しただけで恵はメニューを弘子に手渡し、ほかほかと湯気をたてるおしぼりで手を拭く恵を横目に、弘子が手早く注文していく。
生一杯、米をボトルで一本。水割りセットでグラスは二つ。串物を何本かずつとそれが来るまでにつまむ枝豆と冷奴、メインのカルビチャーハン。
他に何か頼むものはあるかと恵に目をやると、今はまだいい、とぱたぱたと片手を振られる。
「じゃあ、とりあえずそれで。お願いします」
最初の乾杯はビール、なんて会社じゃあるまいし気にしなくてもいいのに、と思っていたがどうやら純粋に最初の一杯目はビールが飲みたいらしい、と気づいたのは実は最近のことだ。
間もなく二十三歳になろうかという弘子はいまだにビールが苦手だが。
ほどなくして飲み物が準備される。手早く自分の分の水割りを作って乾杯した。
「堀田君、次の休みは出勤お疲れ様」
「なんだそれ」
ごくごくとビールを嚥下する。
喉仏が上下するのをじっと見て、「ああ、私はこの人と付き合っているのだ」と弘子は思った。
背は低くもなく高くもない。
二枚目かと言われるとそういうわけでもなく、かといってずっと見ていたくない顔かと言われるとそういうわけでもない。
どちらかというと清潔感のある顔立ちだ。
食事のマナーはとてもいい。箸の持ち方がとてもきれいで、食後のお皿はいつもきれいだ。彼のそういう躾の良さが透けて見えるところはとてもいい、と思っている。
性格は末っ子気質で甘ったれだ。
社会人と学生だからもちろん彼の方がしっかりしているところもあるが、基本的にはマイペースだ。とはいえ、長女気質の自分とはうまいこと補いあっているんじゃないかと思ったりもする。
弘子が就職活動で経済的に苦しいときは恵がデートの度に食事を御馳走してくれたし、恵が十年以上可愛がっていた愛猫を亡くした時は弘子の胸で声を押し殺すようにずっと泣いていて、その背中を弘子がゆっくりとさすり続けた。
客観的にみて、自分たち二人はとてもうまくいっている部類なのだろうと思う。
恋人とかそういったものを超えて、家族とか兄弟みたいな。
じゃあ、この先もずっと、ずっとずっと彼と一緒に居られるかというと、弘子にはこの先の未来が全く見えないのだ。
恵が弘子に就職時相談したこともなければ、弘子が恵に将来どうしたいかきいたこともなかった。
冷奴は冷たくおいしく、隣には恋人がいて笑っているが、果たして自分は今幸せなのだろうか、と思う。
続いて、こんなことを思う暇があるのだから多分幸せなのだろう、と弘子はいつも思うことにしている。
--to be continued...