第6話 元カノと間接キス。……えっ、間接キス!?
「これなーんだ?」
朝、優愛に起こされ、手を繋いで登校した日の昼休み。
俺はいきなり教室から連れ出された。
本当は購買にパンを買いにいきたいのだけど、相変わらずお嬢様は問答無用である。
優愛は携帯用のトートバックを持っていて、『んー、どこも人がいっぱいで空いてないわねー』と言いながら、渡り廊下や中庭を進み、やがて校舎裏にたどり着いた。
そこでおもむろに優愛が言ったのが、前述の『これなーんだ?』である。
顔の前に突き出されたものを見て、俺は目を瞬く。
「お弁当……?」
「正解♪」
優愛がトートバックから取り出したのは、ランチクロスに包まれたお弁当箱だった。
「見事正解した真広には、このわたし特製の手作り弁当を進呈してあげましょう。泣いて喜びなさい?」
はい、と渡されたので反射的に受け取った。
しかしまだ驚きが冷めやらない。
中学の頃、三か月以上付き合っていたけれど、優愛の手作りなんて初めてだった。
まあ、受験もあったし、機会がなかったというのもあるのだけど……。
「優愛って料理もできたんだ?」
「何言ってるのよ。人類にできることは大抵できるわよ、わたし」
「セリフが壮大過ぎて日常生活で聞くレベルじゃない……。いやお嬢様だから料理とかはさすがにしないかと思ってた」
「まあ、確かにあんまりしてはこなかったけど。学べばすぐ出来るようになるのはわかってたけど、別段、優先順位を高くしてなかったからね」
優愛は毛先をいじって目を逸らす。
「でもほら、そろそろ……ちゃんと作れるようになろうかなって思って……」
「そろそろ? 何か心境の変化でもあったの?」
「や、だから……」
ごにょごにょと口ごもってつぶやく。
チラチラこっちを見ながら。
「は、花嫁修業……とか?」
「……っ」
心臓が飛び跳ねそうになった。
花嫁修業。
つまりそれは……俺のために料理の練習をして、こうしてお弁当を作ってきてくれたということ。
マズい。
朝に手を繋いで登校したせいか、俺は先のことを考えなきゃという思考がちょっと止まりかけている。
単純に顔がにやけてしまいそうだ。
「ちょ、ちょっとちょっと、なにニヤニヤしてるのよ?」
「し、してないっ。別にしてないって」
「してるわよっ。鬼の首を取ってそれで3Pシュート決めたようなニヤニヤ顔してる!」
「せっかくの手作り弁当なのに比喩が物騒!」
照れ隠しでそんな言い合いをしつつ、とりあえず座る場所を探した。
校舎裏には使われていない花壇の跡がいくつかあって、その煉瓦を椅子代わりにすることにした。
俺は煉瓦の上に直接、優愛はハンカチを引いて隣同士で座る。
「ちなみにこのお弁当、おば様との合作だから」
「母さんとの?」
トートバックから自分の分のお弁当も出し、優愛は頷く。
「そ。朝、真広を起こす前に二人で作ったの。『最近、料理の勉強を始めたんです』で言ったら、『じゃあちょっと作ってみる?』って話になって」
そういえばランチクロスに見覚えがあった。
小学校の遠足か何かに使ったやつかもしれない。
「だから、たぶんお口には合うと思うわよ? ちゃんと森下家の味になってるはずだから」
「あ、もしかして……」
よせばいいのに、つい尋ねてしまった。
「それも花嫁修業の一環?」
「……っ」
ボォッと優愛の顔が赤くなった。
お弁当の蓋を開けている途中で、優愛は固まってしまう。
ああ、ダメだ、ニヤニヤが抑えられない。
お弁当を作ってくれるだけでも嬉しいのに、わざわざウチの味まで覚えようとしてくれてるなんて。
「い、いちいち指摘しなくていいの! 察したんなら黙って美味しく食べなさいっ。あとニヤニヤ禁止! このわたしをあざ笑うなんて生意気よっ」
お嬢様が照れていらっしゃる。
これ以上怒らせると大変なことになりそうだから「失礼しました」と素直に謝って蓋を開けた。
「おお……」
おかかのふりかけがまぶされたご飯。
ミニハンバーグ。
アスパラのベーコン巻き。
タコさんウィンナー。
ミニトマト。
茹でたブロッコリー。
きんぴらごぼう。
そして卵焼き。
まさしく我が家のお弁当だった。
だが驚くべきはこれをお嬢様の優愛が作ってくれたということ。見事に庶民の味に合わせてくれている。
しかもこのハンバーグやきんぴら……冷凍食品じゃなくて、本当の手作りじゃないだろうか。そんなに時間はなかったはずなのに、とても手が込んでいる。
これはありがたく頂かないといけない。
まずはどれから食べよう、と箸を伸ばしていくと、突然優愛が「あっ」と声を上げた。
「卵焼き、真広のやつと入れ間違えちゃった」
「卵焼き?」
確かにお弁当箱の右端に卵焼きがある。
優愛のお弁当も同様だ。
見た目はほとんど変わらない。
でも作った本人には違いがわかるらしい。
「真広はしょっぱい塩味が好きなんでしょ? わたしは甘い砂糖派だから両方作ったのよ」
「え、わざわざ二人分作ってくれたってこと?」
「ええ。感謝していいのよ?」
それは普通に感謝する。
「ありがとう。じゃあ、卵焼き交換する?」
「そうね。わたしは食に妥協する気はないし。……ん、いやちょっと待って」
優愛が考える込むような仕草をし、何やら不穏な表情を見せ始めた。
「これは……ニヤニヤの罰を与えるチャンスね」
きらんっと目が光る。
直後、優愛は俺のお弁当箱の甘い卵焼きを箸で掴むと、考えられない暴挙に出た。
「はい、あーん♪」
「なっ!? いやいやそれは……っ」
さすがに恥ずかしすぎる。
付き合ってた時だって、そんなのしたことない。
あーん、なんて未知の領域だ。
だがお嬢様は止まらない。
「問答無用!」
「むぐっ!?」
口のなかに放り込まれてしまった。
「美味しい?」
さらっと髪を揺らし、賛辞を期待するような上目遣いの笑顔。
美味しいというか、可愛い。
この元カノは本当に可愛い。
って、いやいや違う違う!
雑念を振り払うために卵焼きに集中。
その瞬間、
「甘ぁっ!?」
予想以上の甘さにむせ返りそうになった。
途端、優愛は楽しそうに笑いだす。
「大成功ー♪ わたし、ただ甘いだけじゃなくて、めいっぱい甘々なのが好きなの。自分用のつもりだったから容赦なく砂糖まみれにしたんだけど、まさか真広への罰に使えるとは思わなかったわ。天才ね、わたし!」
俺は途中で買っておいたペットボトルのお茶をがぶがぶと飲む。
くっ、あーんの罠にしてやられてしまった。
地味に悔しい。
「……頭にきた。よし、やり返そう」
「え?」
「問答無用!」
「はむっ!?」
あっちのお弁当箱から卵焼きを掴み、優愛の口に放り込んだ。
「ちょ!? あーんなんて付き合ってた時もしてもらったことないのに、いきなりそんな……って、しょっぱぁ!?」
「俺の気持ちがわかったかい、お嬢さん」
森下家の卵焼きは塩分多めの玄人仕様だ。
甘々派には耐えられまい。
「何するのよぉ!? このわたしの口に変なもの放り込むなんて訴訟かつ損害賠償ものなんだからね!?」
「自分で作った料理を変なもの扱いはどうかと思う。あと言い方がなんだか卑猥」
自分の水筒でお茶を飲む優愛に、俺は苦笑する。
「ほら、これで差し引きゼロだから仲良く食べよう? せっかく優愛が作ってくれたお弁当だからちゃんと食べたいよ」
「む……し、仕方ないわね」
やっぱりちゃんと食べてほしいらしく、素直に言うことを聞いてくれた。
お互いの卵焼きを交換し、俺たちは改めてお弁当箱に向かう。
まずはやっぱりハンバーグかな。
いやアスパラガスのベーコン巻きも捨てがたい。
迷っていると、一足先に優愛がブロッコリーを口に運んだ。
うん、なかなかね、みたいな顔で咀嚼している。
しかし。
突然、稲妻を受けたようにその表情が固まった。
「――! ――!? っ!? !! ……っ!!」
無言のなかに凄まじい感情の起伏が伝わってきた。
え、何が起きたんだ?
まさかまた味付けがしょっぱかったわけでもないだろうに。
「優愛? どうかした……?」
もぐ……もぐ……ごくん。
ブロッコリーを飲み込んだかと思うと、ギギギッと錆びた人形のようにぎこちなくこちらを向く。
「真広、どうしよう……。わたし、今気づいた……」
「な、なにを……?」
動揺で瞳が潤んでいた。
ただ事じゃない雰囲気だ。
「わたし、あなたの卵焼きを取って、あーんしたじゃない? そのお箸で今、ブロッコリーを食べちゃった。こ、これってつまり……っ」
かぁーっと真っ赤になっていく。
ポンコツお嬢様はいっぱいっぱいの表情で叫んだ。
「これって真広とキスしちゃったのと同じだわ――っ!」
んなあほな!
しかし優愛はものすごくおろおろしている。
まるで天と地が逆転したかのような勢いだ。
俺は反射的に叫ぶ。
「いやキスじゃないって!? 箸を使っただけだから、せいぜい間接キ――」
スだよ、というツッコミを俺は飲み込んだ。
気づいたのだ。
自分が今、右手に何を持っているのか、ということに。
ドドドドドドドドドッ!
心音がうるさいくらいに鳴り響く。
そう、俺の右手は持っている。
優愛にあーんをしてしまった箸を。
何がせいぜい間接キスだ。
間接キスはせいぜいじゃない!
「ま、真広……」
はっと顔を向けると、優愛が動揺しまくった目でこっちを見ていた。
「……つ、使うの?」
「え……」
「使うの? そのお箸……」
「え、いや、その……っ」
冷や汗が滝のように流れる。
え、どうしよう?
これは……どうすればいいんだ!?
よく晴れた校舎裏の昼休み。
予想外のところで、俺は未曽有の窮地に立たされた。