第78.1話
78話→
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白を基調とした広い寝室は、無駄な装飾のない落ち着いた雰囲気の部屋だった。
とはいえ、ここも王宮の一室。備え置かれた棚や卓子はどれをとっても最上級のものばかりだ。
紅い瞳をせわしなく動かして部屋を観察しながら、エリザベータは大きな寝台の上に縮こまるようにして座っていた。
(これは夢……では、ないのよね? ありえないことが次から次へと起こるものだから、なんだか現実味がないわ)
クラウスから気持ちを伝えられたのが昨日の話だ。
今朝は早くから王宮の馬車が迎えに来て、王宮聖堂で大司教の見守るなかクラウスと婚姻の誓約を交わし、王や王妃、高官らから祝辞を述べられた後、王太子妃の私室周りの説明を受け、ようやく椅子に腰掛けたのも束の間、怒涛のごとくなだれ込んできた侍女たちに湯殿へ連行されて爪の先までピカピカに磨かれたかと思うと、そのまま寝室へと案内され――そして現在に至る。
丁寧に梳かれた紅い髪はサラサラと波打ち、肌も香油を塗られてツヤツヤだ。柑橘系の上品な香りがほのかにただよう。
(さすがは王宮の侍女ね。しかし我がアルヴァハイム侯爵家の侍女も負けては……いえ、もう『我が』ではないのだったわ。ああ、わけがわからなくなってきた)
目まぐるしい一日だった。
屋敷から共に来たはずの両親が、どのタイミングで帰ったのかすら記憶にない。
侯爵家の(元)自室寝台の上で「クラウス様が! クラウス様が! わたくしのこと好きなんですって! キャー!! それでもって、明日結婚……あ、明日!? ギャァーー!!」とテンションを乱高下させながら転がり回っていた昨夜が、遠い昔のことのように感じられる。
侍女に着せられた夜着は上質な絹地で肌触りもよく、清楚なデザインだ。
だが、用途に応じて製作されたその生地は下着が透けて見えるほど薄く、肌触りがよすぎて着ている実感が湧かないので、衣類としてはあまりに心もとない。
夜着も下着も個々のデザインは清楚だが、総評すると淫靡だった。
その侍女たちもすでに退出して、彼女は部屋でひとり、寝台に座って夫の訪れを待っている。
(『夫』……! わたくし結婚したのよね、クラウス様と。そしてこれは、世間一般でいうところの初夜、というやつよね。そうよね。侍女が『こちらが王太子ご夫妻のご寝室でございます』とか言っていたもの。『ご夫妻の』……!)
エリザベータにも、夜の営みについて最低限の知識はある。
(最終到達地点はわかっているわ。なんとなく、ふわっと、ですけれど。しかし、何事にも順序というものがあるはずよ。まずは、ええと……いったい、なにをすればいいのかしら、具体的に。ああ言われたらこう返すみたいな、掛け合いの決まり事なんてないわよね? もう! こんなことなら事前に調査しておくべきだった!)
細かいことは学院の授業でも教えてくれない。
エリザベータは頭を抱えた。
(……ハッ! いつだったか、侯爵家の侍女たちが廊下で話しているのを耳にしたことがある。『閨の睦言を真に受けてはいけない』、とかなんとか。いえいえ夫婦なのですから、そこは真に受けてもいいところなのではないのかしら。『夫婦』……! どどどどうしよう、緊張してきましたわ! こんなときは、手のひらに『人』という文字を書いて……どうしてわたくし、前世の記憶は全然ないのに、こういった知識ばかりは覚えているのかしら。脳の記憶領域が違う? いいえ、体が違うのだから、脳だって違うはずよ)
混乱のあまり、彼女の脳は思考をあさっての方向へと飛躍させていく。
扉が開いたのは、その混乱のさなかだった。
「待たせたな」
「ひえぇっ!!!」
寝室に入ってきたクラウスは寝台に座るエリザベータの姿を見てわずかに目を見張ったものの、悲鳴を上げたことについては特に気にとめる様子もない。
扉を閉めると、彼女へ向かって歩きながら卓子を一瞥した。
「なにか飲むか?」
「イイエ……ダイジョウブデス……」
なぜかエリザベータはカタコトだ。
卓子に用意された食事や飲み物に、彼女は手を付けていなかった。
要所要所で軽食は出されていたので空腹感もなかったし、なにより今はそれどころではなかったのである。
(クラウス様の、夜着姿……!)
湯浴みを終えて来たらしいクラウスは、ゆったりとした上衣を羽織っていた。
(この上なく私的な空間を共有しているからこそ見ることのできる、激レア中の激レア姿。『私的な空間を』、『共有』……!?)
エリザベータの緊張が高まる。
クラウスは「そうか」とだけ言って、エリザベータの隣に腰掛けた。
寝台が沈み、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
エリザベータの緊張は頂点を極めた。
しかしグッと拳を握りしめ、己を鼓舞して気力を振り絞る。
「ご、ご安心ください、クラウス様。初の試みではありますが、このわたくし、立派に務めを果たしてご覧に入れますわ……!」
謎に意気込むエリザベータにクラウスは怪訝そうに眉根を寄せたが、すぐに言っている意味を理解したようだった。
「初、でなければ一大事だな。嫉妬でどうにかなってしまいそうだ」
「えっ」
隣でふっと笑う気配がして、エリザベータは反射的に顔を上げた。
普段あまり表情を変えることのないクラウスが笑うと、その笑顔を視覚情報に収めようとする――エリザベータの習性である。
「手が冷たい」
「ひゃっ!」
緊張でこわばった手の上に大きな手が重ねられ、エリザベータの肩が驚きに跳ね上がった。
「心配するな。不安であれば、今日、無理にとは言わない」
握りしめた拳を解きほぐすように指を絡ませる、その手は温かい。
一方で、エリザベータが奮い起こした気合いはふにゃふにゃと抜けていった。
束の間の隆盛であった。
「そ、そういうわけにも……」
「これから時間はいくらでもあるのだから、リーゼの気持ちが落ち着いてからでも遅くはない。周りにも、どうとでも誤魔化しはきく」
「クラウス様……」
いつも通り淡々と話すクラウスだが、そのまなざしは柔らかい。
(クラウス様、優しい……。あと、頼もしい。
『誤魔化しはきく』……どうやって、誤魔化すおつもりなのかしら。過去に、なにかしらをどうにかして誤魔化した経験があるのかしら。なんだか、手慣れているような……? だって見てちょうだい、このみなぎる余裕。まるで百戦錬磨のたたずまいだわ。男性と女性とでは身体の事情が違うと聞きますし、クラウス様に女性経験があってもおかしくはないわよね。王太子様ですし。ええ、おかしくは……お相手は、どなたなのかしら)
エリザベータから不穏な気配が滲み出る。
「言っておくが、俺もこういういったことは初めてだからな」
クラウスが少し言いたくなさそうに口を開いた。なにかを察知したのかもしれない。
「ソウデスカ?」
「信じていないだろう、その顔は。王子教育の一環には性教育も含まれていたが、俺は早くから自分の予定は自分で管理していたからな。座学は為したが、必要を感じなかったので実技は飛ばした」
「じ、実技」
(実技って。……それにしてもクラウス様、なんて堂々と。殿方のなかには、女性経験をステータスに数えるかたも多いと聞くわ。それなのに胸を張って『ない』と言い切るだなんて。威厳すら感じられるこの潔さ。さすがですわ、クラウス様!)
エリザベータの瞳が称賛に輝いた。
向けられる側にとっては不本意な称賛であったかもしれない。声に出さなくてよかった例である。
「……だから、あまり期待はするな」
「えっ、期待?」
決まり悪げにつぶやくクラウスに、エリザベータはあわてて弁解した。
「い、いえ、わたくし別に、手ほどきを受けようとか、考えていたわけではなくてですね。ただその、もしもクラウス様にそういったご経験がおありになるのでしたら、お相手を見つけ出して八つ裂きにしてやろうかと思っただけで……」
「……話しておいてよかったな」
王太子が実技をサボったおかげで救われた命がある。
クラウスはふっと遠い目になった。
「俺はこれまで言葉で伝えることの重要性を軽んじていた。どうりで『言葉が足りない』とよく言われる。特にリーゼに対しては」
「どなたですか? そんなことをおっしゃったのは。見つけ出して八つ裂きに……」
「八つ裂きにはしなくていい。事実だ」
エリザベータの薬指には昨日までにはなかった銀の指輪が光っている。
その存在を確かめるように親指でなぞり、クラウスはエリザベータをまっすぐに見つめた。
「今日も、あまりに急すぎただろう。なにも知らせぬまま、俺のわがままに付き合わせてすまなかった」
見つめられ、エリザベータの頬がじわじわと熱を持つ。
互いの呼吸音すら届く距離だ。
恥ずかしさに耐えかねたエリザベータは「い、いえ、そんなことは」と口ごもりながら、視線から逃げるようにうつむいた。
熱を分け合ったふたりの手は、気付けば同じ温度になっている。
「逆臣を召し捕るためだとか、侯爵夫人がリーゼには秘密にすると言っていたからだとか、どれも俺の身勝手な言い訳にすぎない。もっともらしい理由を見つけては自分を正当化して、ただ、逃げていただけだ」
「逃げる……?」
「リーゼはなにかと俺を持ち上げてくれるが、俺はリーゼが言うような立派な人間ではない。リーゼに情けない姿を見せて失望されはしないかだとか、想いを伝えて拒絶されたらだとか、そんなことばかり考えては逃げている、臆病な人間だ。……リーゼに嫌われることが、俺はなにより怖い」
「まさか! わたくしがクラウス様を嫌うなんて、そんなこと!」
そればかりは聞き捨てならないと、エリザベータは勢いよく顔を上げた。
目の前に、自分を見つめる藍の瞳があることも忘れて。
「あ、るはず……」
深い藍色の奥底は、確かな熱を帯びている。
エリザベータははっと息ののみ、言葉を続けることもままならぬまま、その瞳に引き込まれた。
骨ばった手が紅い髪を撫で、白く柔らかな頬に触れる。
そっと顔を寄せられても、エリザベータはまるで魅入られたかのように視線をそらすことができない。
ふたりの唇が重なった。
(ひゃあああああ!!)
目覚めてすぐ目の前にあったクラウスの寝顔に、エリザベータが心の中で悲鳴を上げたのは翌朝の話だ。
一瞬で目が覚めたエリザベータは鈍く残る身体の痛みも忘れ、その寝顔に見入った。
窓から朝の光が差し込む薄明るい寝室。
普段の鋭敏さは影を潜め、静かに寝息を立てるクラウスは、どことなく幼くも見える。
(クラウス様の、油断しきった寝顔……! かっ、かわいい……!)
みじろぎもせず凝視しているうちに、クラウスの目がスッと開いた。
「起きていたのですか!?」
「視線を感じた」
「起こしてしまいました? ……すみません」
どうやら視線がうるさくて起きたらしい。
「いいや。見たければ、好きなだけ見ればいい」
少しかすれたような声でそう言うと、ゆるい動作で手を伸ばし、エリザベータの紅い髪を撫でる。
「目覚めてすぐとなりにリーゼが眠っている。昨日までは必死なばかりだったのに、不思議だ。いざこうしてみると、おもはゆい気持ちになる」
「わたくしも、不思議です……。クラウス様が、わたくしと同じことを思ってらっしゃるなんて」
夢見心地でクラウスにみとれているエリザベータを眺めながら、クラウスがふと微笑んだ。
雪解けのようなやわらかな微笑みは、確かな愛を伝えている。
彼は髪を撫でていた手で彼女を抱き寄せ、「幸せだ」とつぶやいた。
最終話→
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