第57.4話
『わたくしだけが知っていたのに、防ぐことができず大火が起こってしまったとしたのなら……』
『それはリーゼ様のせいには、なりませんよ?』
(きっとアリスは、それが本当だったと知っても――そう言って、わたくしを許してくれるのね)
自分だったら、許せるだろうか。
どうして助けてくれなかったのかと責めなじったりしないなどと、自信を持って言えるだろうか。
(アリスは優しい。優しくて、強い。それはゲームの主人公だからではなく、彼女だから。そう、アリスだったからこそ、主人公になれたのだわ。……悪役令嬢とは違う)
手元の書類をぼんやりと見つめながら、いつの間にかペンを持つ手が止まってしまっていることに気が付いた。
ふうっとひと息ついて、卓子の傍らに置かれた紅茶のカップを手に取る。
クラウスとアリスのハッピーエンドを目指すため――王太子クラウスの暗殺を阻止して、ふたりが無事結ばれる結末を見届けるため、エリザベータは乙女ゲーム『evergreen lovers』通称『エバラバ』のシナリオ通りに行動してきた。
その結果、エリザベータは生徒会の業務を手伝うことになった。ゲームにはない展開である。
(なぜ?)
わからない。
エリザベータは首をかしげた。
(けれど今日は、クラウス様の姿を目に焼き付けるには絶好の機会)
放課後、昼下がりの生徒会執務室。
アリスは公爵令嬢として招かれた晩餐会への出席のため、ウィルフリードは王宮魔術士団の訓練のため、本日はそれぞれ不在である。
クラウスの護衛騎士やエリザベータの侍女カロリーナは廊下で控えているし、ギルバートが学院に併設された図書館の書庫へ資料を探しに席を外している今現在、執務室にいるのはエリザベータとクラウスのふたりだけだ。
(書き物をするクラウス様も素敵……)
紅茶を飲みながらこっそりと視線を上げ、生徒会会長の席で黙々と書類を捌くクラウスを盗み見る。
普段であればクラウスをひと目見ただけでウキウキと躍り上がる心が、今日はふさいでなかなか晴れない。
その原因が間近に迫った精霊祭にあることをエリザベータは自覚している。
精霊祭を無事に越えることさえできれば、精霊王となったアリスと王太子クラウス、ふたりは結ばれ『エバラバ』どおりのハッピーエンドだ。
そのために、あらゆる手段を尽くしてここまでやってきたし、達成の目処は十分に立ったと感じている。
(……だというのに)
幼い頃は口癖のように「クラウス様のお嫁さんになる」と言っていた気がする。
自分の絶望的なまでの魔力の少なさを思い知ってからは、目標を「クラウス様の幸せ」に切り替え、無駄な希望はいさぎよく捨てた――捨てたつもりでいた。
(未練がましいったらないわ)
捨てても捨ててもよみがえるそれを力ずくで押し込めては蓋をして、見えないふりをしながら風化するのを待っているというのに、会話するたび、顔を見るたび、それはふとしたはずみで心の奥底から頭をもたげる。
執心、嫉妬、独占欲、年を追うごとに余計なものばかりがどろどろと絡みついて、もう目も当てられないありさまだ。
本音は誰にも渡したくなどない。
こうしてずっと、独り占めしていたい。
掛け時計の振り子が刻む音とともに、流れゆく静かな時間。
紙の上を淀みなく走るペンの音。
少し開けた窓から時折ふわりと吹き込む風、差し込む春の陽を受けてきらめく金糸雀色の、その襟足の髪をかき上げる仕草も――
「……そんなにじっと見られると集中できない」
「しまった!!」
(バレてた!!)
書類に目を落としたままのクラウスの言葉に、エリザベータは一瞬で我に返った。
こっそり見つめていたつもりが、気付けばガン見である。
「失礼いたしました!」
持っていたカップを速やかに置くと同時に、飛びつくように書類仕事を再開するエリザベータ。その姿、雪中のネズミを狩るキツネのごとし。
(まったく、わたくしったら、油断するとすぐこうなのだから)
『エリィなら、王太子暗殺だけ阻止して、そっからバッドエンドまで持ってくことだってできるだろ?』
いつだったか、ギルバートに言われた言葉が頭によぎる。
(できる。できるわよ。何度思ったかわからない。クラウス様を助けてもらうだけ助けてもらっておいて、すべてが終わったらふたりの仲を引き裂くの。まさに"悪役令嬢"ね。……自分は王太子妃になど、なれもしないくせに)
悪役令嬢がどれだけ足掻こうと、主人公がいなければクラウスの命は救われない。
策を弄して舞台を整えたところで、クラウスを幸せにすることができるのは、ただひとり、アリスだけなのだ。
エリザベータは思う。
アリスだったら、こんな感情は持たないのであろう。
不実で、打算的で、「恋」と呼ぶには憚られる。
アリスは、エリザベータの理想の主人公を絵に描いたような少女だ。
可憐で純真、優しさと、成長するにしたがって、困難に立ち向かう強さも手に入れた。
エリザベータにとっては、クラウスを奪い去ってしまう憎き存在。嫌いになれたら楽なのに、あの春の木漏れ日のようなほほえみを向けられると、エリザベータはすべてを許してしまう。
いっそ『エバラバ』の主人公とは正反対の、粗野で野放図で、性悪な人間であってくれたならば、大手を振って「クラウス様にはふさわしくない」と言えるのに、嫌いになれるのに――そう考えてしまう自分が、一番嫌いだ。
(……いけない、まただわ)
思考が逸れてしまう自分を叱咤しながら、エリザベータは業務に集中するよう努めた。
ペンを走らせる書類の上に、几帳面な字が流れるように並んでいく。
春の空気はうららかだ。
穏やかな静寂のなかに、掛け時計の振り子の音がカチコチと響く。
雑念を振り払うように書類仕事に没頭するエリザベータは、自分に向けられた視線に気付かない。
「……心配事か?」
低く響く声に、反射的に顔を上げた。
クラウスの藍色の瞳と視線がぶつかって、エリザベータの鼓動が跳ねる。
「はいっ……あの、い、いいえ……?」
「浮かない顔だ」
ほんのりと頬を紅潮させてあたふたと返答に窮するエリザベータとは対照的に、クラウスはあくまで平然とした様子だ。
慣れた手つきで容器に入った水にペンの先を浸し、インクを落として布で拭き取る。そしてペンを台座に立てると、再びエリザベータに視線を戻した。
「詩句の授業のときにも、よくそんな顔をしていた」
「そう……でしたかしら。ふふっ、よく覚えていらっしゃいますわね」
「ああ。それで放心状態のまま歩いて庭園の石段から転がり落ちた」
「……それは忘れていてほしかったですわ」
ふたりが11歳の頃の話だ。
魔力の査定を受け、その魔力の少なさから王太子妃の未来が閉ざされたエリザベータは、王妃教育の授業を増やし、想いを振り切るように日々勉学に励んでいた。
なかでも詩句は国外から著名な詩人を講師に招いての授業だったこともあり、王太子であるクラウスも共に授業に参加していたのであった。
季節を感じ、情緒を育む、そういった理由から王宮の庭園を散策しながらの授業が多かったのだが、そのときばかりはそれが仇となった。
「怪我がなくてよかったな」
「はい……」
石段から転がり落ちるエリザベータの姿は、後に講師がそのときの様子を獲物を捕らえる隼になぞらえ詩を一編したためるほどのアクロバティックさであったが、奇跡的に傷ひとつなく無事に済んだ。
エリザベータ・フォン・アルヴァハイム――丈夫さが取り柄の女。
「クラウス様は優しいですわね……。わたくしが石段から落ちたときも、心配してくださいましたわ」
「普通するだろう」
「でもクラウス様に気にかけていただくような、たいした悩みではないのです」
「その顔でいるときのリーゼは決まって、頑として理由を明かさない。……目を離すと、どこか俺の手の届かない遠くへ行ってしまうのではないかと、時折そう思うことがある」
「……? 確かに、吟遊詩人になって遠く各地を遍歴するのがわたくしの夢ではございますけれど……」
「そういう話はしていない」
「ソウデスカ」
ふっと遠い目をしたクラウスだったが、すぐにまたエリザベータへと視線を戻す。
「……リーゼはよく俺を『優しい』と言うが、俺はリーゼが思っているほど優しい人間ではない」
エリザベータの知るクラウス・グランツ・フォンシュルツェブルクという人間は、常に悠然と構え、まっすぐに相手の目を見て話す。今もそうだ。
「リーゼがそう思うのだとしたら……」
しかしなぜだか今は、そのまっすぐな視線にエリザベータの胸が騒ぐ。
クラウスが、言葉を継ごうと口を開きかけた、その時。
ノックとほぼ同時に執務室の扉が開かれ、資料を小脇に抱えたギルバートが現れた。
「おまたせしましたー! いやー、探すの手間取っちゃって! で、ちょっと聞いてくださいよ。司書のおねーさん、いるじゃないですか、図書館の。なーんか俺を見る目に熱がこもってる気がするんだよなー。もしかしたら俺に気があるんじゃないかなー……って、あれ?」
持ってきた資料を卓子に置きながら上機嫌のギルバートだったが、しらけた空気にようやく気付いた。
「……貴方、一度『ノック』の意味を辞書で引いてごらんになったら?」
「え?」
エリザベータに冷ややかな目で一瞥され、ギルバートは助けを求めるようにクラウスのほうへ顔を向ける。
「お前、あとで覚えておけよ」
「えぇっ!?」
しかし、なぜかクラウスにまで邪険にあしらわれ、執務室にはギルバートの「あれ、俺なんかしちゃいました……?」の声がむなしく響いた。




