第57.3話
お茶会の招待を受けファウルハーバー子爵家別邸へとやって来たエリザベータに無事礼を言うこともでき、更には「友達になりたい」「アリスと呼んでほしい」「リーゼ様と呼びたい」と矢継ぎ早に言い立て、勢いのまま受諾させた。
帰宅の手配のためハンナが席を外している間、応接室に飾られた美術品を眺めながら並んで歩く、アリスの心は浮き立っていた。
「……リ、リーゼ様」
「なにかしら? アリスさ……アリス」
ぎこちない雰囲気に、どちらともなく笑みがこぼれる。
思えば、こうしてエリザベータとふたりきりで話すのは久しぶりだ。
「アリスは市井に暮らしているのだから警備をもっと強化すべきだわ。公表がまだだからといって、王宮はなにをやっているのかしら」
エリザベータは、町の教会で暮らすアリスの警護体制に不服があるらしい。
"愛し子"の後見のため、ザイフリート公爵家はアリスを養女として引き取ることを決めた。
二月ほど後の国王主催の園遊会、その終盤に公式発表がなされ、アリスは公爵家の屋敷へと居を移す予定になっている。
ごく親しい友人くらいにならば話すことを許されていたため、アリスは今回のお茶会でエリザベータとハンナにこのことを打ち明けていた。
「もともと王宮から派遣してもらっていた騎士のかたたちもいますし、今は公爵家からも護衛を付けるって話にもなってて、十分すぎるくらいですよ。さすがに住んでる教会の中までは、入ってこないですけど……すごいんですね、"愛し子"って。ここまでしてもらえるなんて」
「王太子妃の筆頭候補なのよ? 足りないくらいだわ。お父様に言って、王宮に掛け合ってもらおうかしら……」
「だっ大丈夫ですよ! 私の住んでるところ、治安もいいほうですし」
"愛し子"だから、それのみではない。
公爵家が後見となる最大の理由――無私無偏、冷淡無情な王太子が懐に入ることを許す、唯一の女性。
対外的に見た自分の立ち位置は、アリス自身も理解している。
王太子クラウスが妃にと望んでいるのは"愛し子"アリスなのではないか。
事実、そういった印象が世間に広まるにつれ、アリスの周辺では危険も増えた。
名前も聞いたことのない貴族に金で雇われたならず者に襲われそうになったこともあった。自分で撃退して、遅れて駆けつけた護衛に謝罪される一幕もあった――のだが、それはエリザベータには言わないでおく。
(その分だけ、エリザベータ様の危険が減ったと思えば……全部あの男の思惑どおりっていうのは、気に入らないけど)
クラウスに想いを寄せているはずのエリザベータ。彼女は不思議なほどに平然と「アリスが王太子妃の筆頭候補である」と口にする。
しかしそのたび、ほんの少し曇る表情に、アリスは気付いている。
(全部、言ってしまいたい……リーゼ様に隠し事なんて、したくないのに……)
だが、その件に関しては、王太子本人から「否定はするな」と厳命されている。
更には、その倍口うるさく「ただし、肯定もするな」と言われているのだ。
「リーゼ様、〈火〉の魔術って、使うときどんな感じがするんですか?」
この話を長引かせたくないアリスは話題を変える。
魔術、特に雑学・うんちく関連はエリザベータの得意分野だ。己の魔術談義を人に聞かせているときのエリザベータは、いつもわかりやすく生き生きとしている。
〈火〉〈土〉〈水〉〈風〉〈光〉〈闇〉6種の魔術。
〈水〉の魔術を使う者は「すっと体温が下がる心地がする」と言い、〈闇〉の魔術を使う者は「視界の彩度が落ちる」と言うように、魔術を発現させたときの感覚は魔力の種類によって異なる。
「そうね、〈火〉は――体が温かくなるような、胸の奥に火が灯るような、そんな感じかしら。……アリスは、7年前の大火が原因で火が怖いのよね」
学院に編入する際、素性については王宮から事細かに調査された。エリザベータが知っていても不思議ではない。
「……たとえばよ。たとえばの話なのだけれど」
それよりもアリスは、壁の絵画を見るふりをして目をそらすエリザベータの表情のほうが気になった。
「たとえば、わたくしがすべて……大火が起こることもすべて、知っていたとして……わたくしだけが知っていたのに、防ぐこともできず大火が起こってしまったとしたのなら……貴女は今みたいに、わたくしと友人になりたいなんて言ってくれたのかしら。ご両親を失ったのが、火への恐怖を植え付けられてしまったのが、わたくしのせいだったとしても」
気付くと足を踏み出していた。
強引でもかまわない。力なく下ろされたエリザベータの両手を取って、その冷たい指先を自分の両手で温めるようにぎゅっと握る――そうして繋ぎ止めておかなければ、今にも消えてなくなってしまうのではないかと思った。
「もしも本当にそうだったとしても、それはリーゼ様のせいには、なりませんよ?」
面食らって目を瞬くエリザベータは少し幼く見える。
不安げに揺れる紅色の瞳をまっすぐに見据え、言い諭すように言葉を続けた。
「あの頃私たちはまだ小さくて……ううん、大人だって、あんな大きな災害、防げたとしたらビックリですよ。……それに私、思うんです。もしもリーゼ様が大火が起こるって先に知っていたとしたら、大火を防ぐためにすごく、すごーく頑張ってくれたんじゃないかな、なんて。ふふっ、もしもの話ですけど、ね」
あっけにとられたようにアリスの笑顔に見入っていたエリザベータだったが、はっと我に返ると、握られた手を引き抜いて、逃げるようにアリスから距離を取る。
「あ、あ、貴女、わたくしを買いかぶりすぎですわ」
うっすらと頬を染めて怒ったように言うエリザベータが本当は照れていることを、今のアリスは知っている。
くすくすと笑うアリスを見て、エリザベータは毒気を抜かれたような顔で「もう……」と小さくため息をついた。
「……火が怖いと言っていたけれど、本当に怖いのは、制御ができない力だわ」
おもむろに上へ上げられたエリザベータの右手をアリスの視線が追う。エリザベータはそのまま魔術を紡ぎはじめた。
風に舞う羽根のなめらかさで掲げられた右手の白い指先の軌跡に沿って、紡がれた魔術がいくつもの光の粒となってキラキラと散り落ちる。
「今はまだ怖いかもしれない……けれどきっと、貴女なら」
光をまとって天を仰ぐ肢体のしなやかさに、ゆらめく炎のような紅色の髪に、胸が締めつけられるような憂いを含んだ微笑みに、目を奪われたアリスは――声をかけられた頃にようやく、ほのかなあたたかさを残して消えた光の粒が火の粉であったことに気が付いた。
「あ〜っ! エリザベータ様、魔術を使いましたね!? 貴重な調度品が多いからこの部屋で魔術は禁止って言ったのに〜!」
やがて応接室へ戻ってきたハンナがエリザベータを糾弾する。
「なっなんの話かしら?」
「とぼけたって無駄ですよ。この魔力の残滓、〈火〉の魔術を使うのはこの中ではエリザベータ様だけです!」
追及の手を緩めないハンナがエリザベータから謝罪と次のお茶会の約束を引き出している間も、帰り道も――就寝前の祈りの時間になってもなお、アリスはふわふわとした夢見心地の中にいた。
(嬉しい……なんて言ったら、怒られるかな。でもなんだか今日は、リーゼ様の心の一端に触れられたような、そんな気がして……)
とうに日は落ちた。
跪いて見上げる祭壇の向こう、高窓のステンドグラスに描かれた"聖母"を照らすのは、祭壇に置いた角灯の明かりだけだ。
薄暗がりのステンドグラスを、オレンジ色がほのかに照らす。
(不思議な気持ち……)
ほんの昨日まで、角灯のガラスの内側の、小さな炎のゆらめきですら怖かったはずなのに。
やわらかなオレンジ色が重なって、右手を掲げて天を仰ぐ"聖母"の髪は紅色をしている。
毎日見上げているというのに、"聖母"の姿をただ純粋に「美しい」と思ったのは、初めてだった。
なんだか体が温かい。
まるで、胸の奥に火が灯ったような――
その日、アリスはいつまでも、いつまでも"聖母"を見上げていた。




