第57.2話
学院へ編入する以前のアリスにとって、"侯爵令嬢"とはおとぎ話の世界の住人で、会話すことはおろか、一生のうちに実物を目にする機会すら訪れないであろう雲の上の存在だった。
「あーら、アリス様、ご機嫌よう」
「あっ、エリザベータ様」
なので、その"侯爵令嬢"がこんなふうに気軽に、事あるごとに話しかけてくるようになるとは思いもしていなかったのだ。
「歩き方から練習しなければならないだなんて、平民のかたは大変ですのね、おーっほっほっほっ!」
銀杏の黄がまばゆい、小春日和の中庭。
昼休みを利用して、〈礼節〉の授業で指摘された点を練習するーーそんなとき、エリザベータは現れる。
「社交の場での早歩きは粗野な印象を待たれてしまいましてよ。もっとゆっくり、足指に重心を置いて……」
「こ、こうですか?」
「ふん、まあまあかしら。今の感覚、ゆめゆめお忘れにならないことね!」
そして、いくつかのアドバイスを与えては去っていくのだ。
「まぁ〜た絡まれてたの?」
「ハンナ」
遅れてやって来た友人は、昼食の入ったバスケットをベンチに置くと、若草色の髪を揺らして朗らかに笑う。
ハンナは子爵令嬢であったが、ほかの多くの令嬢たちのように「平民だから」とアリスを見下すことはしなかった。
ハンナの嫌味のない性格にアリスは親しみを覚えたし、ハンナもまた、アリスの素直さに好感を持ち、ふたりはすぐに打ち解け合うと、こうして「ウチは貴族っていっても商家みたいなもんだからね〜、私も〈礼節〉の授業は得意ではないけど、協力できるところは協力するよ」と、ハンナがアリスの練習を手伝いがてら、お昼を共にするような友人になったのである。
「あれっ? アリス、すごくよくなってるんじゃない?」
「さっきエリザベータ様がね、色々教えてくれたの」
「な〜んだ、絡まれてたのかと思った」
「私もはじめの頃はそうなのかなって、思ってたんだけど……エリザベータ様ってね、私が迷ったり困ったりしたとき、どこからともなく現れて、助けてくれるの。憎まれ口は言うけど、騙したり、嘘ついたり、絶対しないの。……ねぇ、ハンナ。エリザベータ様って不思議なかたね」
それからも、エリザベータのアリスに対する干渉が続くにつれ、アリスにもエリザベータの人となりがわかってきた。
(エリザベータ様は、面倒見がいい、というか、世話焼き?)
プライセル伯爵令嬢も巻き込んで、アリスのダンスの指導に時間を割いてくれた。
授業でわからないところがあると「こんなこともわからないのかしら?」と言いつつ教えてくれるし、教えかたは丁寧でーー授業とは別途、〈武芸〉〈魔術〉において王太子から容赦のない実戦形式での訓練を受けていたアリスにとってそれは癒しだったーー「まったく、世話が焼けるわね!」「わたくしがいないとだめなんだから!」と大仰に首を振ってみせるその顔はものすごく嬉しそうだ。
(変なところで不器用で)
学院の外廊下。
「え……えっ? ええっ!?」
冷たい風が吹くたび一斉に降りしきる銀杏の葉の舞う中、どこから持ってきたのか箒を手に、野良猫を追い立てるエリザベータの姿にアリスは目を疑った。
「と、止めないんですか、ミュラー様!?」
なぜかそれを止めもせずに少し離れた場所で眺めているだけのギルバートは、アリスに「やあ」と軽く手を上げると、またエリザベータに視線を戻した。
「去年、アリスちゃんはまだ学院にいなかったから知らないだろーけど、エリィが学院に迷い込んだ野良猫にこっそり餌やって可愛がってた時期があったらしいんだ。俺も詳細は最近になってカルラちゃんから聞いたんだけどな。……まー小動物には逃げられるって言ってたし、懐かれて嬉しかったんだろーな」
「は、はあ……」
のんきな調子で頭の後ろで手を組むギルバートだが、眼前で繰り広げられているのは彼の言葉とは真逆の光景だ。
「その頃エリィを目の敵にしてたご令嬢がそれを知ってさ、猫を捕まえて、……その、害そうとしたらしいんだよ」
「えっ!?」
「猫は無事だったらしいけどね? まーそんなことがあってからさ」
アリスは「あっちへお行き!」と騒ぎながら箒を振り回すエリザベータに目を向けた。
動物虐待。重ねて間抜けな姿。貴族の令嬢とは思えない。
「また同じことが起こらないように、逃がそうとしてる、てこと、ですか? ああやって怖い目に遭った猫は、人間を警戒して近付かなくなるから……」
無分別に振り回しているように見える箒は、その実、猫に当たらないように距離を空け、地面をバシバシと叩いているだけだ。
「もしかして、不興を買った女生徒が行方不明になった、って……」
「あー、噂だろ? 俺も知ってる。実際には退学になって、領地に帰ったらしーね」
「侯爵家に監禁されて、屋敷からは夜な夜な女生徒の悲鳴が……」
「尾ひれが付いてるよなー。アルヴァハイム侯爵家の王都の別邸の広さ知ってる? もしも噂が本当でも、悲鳴なんて外まで聞こえねーよ」
ギルバートが笑う。
そうしている間に、猫は学院の敷地の外へと逃げ去った。
「他愛のないこと! 一昨日おいでなさいまし、おーっほっほっほっ!」
初冬の晴れ空に勝ち誇った高笑いが響く。
後に、婚約者であり生徒会長でもある王太子からの厳重注意を受けて以降、このエリザベータの奇行はなりをひそめた。
(クラウス殿下のことが大好きで)
エリザベータがクラウスの名を口にするとき、まとう高圧的な雰囲気が、険のある目元が、ほのかにやわらぐことをアリスは知っている。
「わたくしでは無理なのよ」
魔力の至らない自分は王太子と結ばれることはないと言ってエリザベータは笑った。
(でも、諦めてしまっているのは魔力のせい、だけではない、気がする)
エリザベータがときおり見せる、慕情、失望、自嘲、そういったものを無理矢理に押し込めたような笑顔。
この表情を見るたびアリスの胸は締め付けられる。
(誰にも見えないなにか、たとえば、精霊が定めるといわれている人の運命、決まった未来があらかじめわかっていて、あらがえずに苦しんでいるようなーーどうしてだろう、エリザベータ様を見ていると、そんな風に思ってしまうときが、ある)
細工された教本から暴発した魔術を打ち消し、アリスを守ったのはエリザベータだった。
軽い火傷を負ったものの、アリスの傷は医務員の魔術で痕も残らず回復。
学院からの指示に従い数日休学した後、復帰したかと思えば、エリザベータがアリスの教本に細工した令嬢相手に魔術を用いた報復行為の末、停学処分を受けていたことを知り、アリスは気が気でなかった。
エリザベータの停学が明けるのを待たず、学院は長い冬季休暇に入る。
「冬季休暇が終わるまで、お礼も言えないなんて……」
「じゃあ、ダメ元で誘ってみる? エリザベータ様」
落ち込むアリスに、エリザベータをお茶会に誘う提案をしたのはハンナだった。




