第77話 エリザベータという女⑧
エリザベータという女は、思えば何時も俺の隣にいた。
初めて会ったのは5歳の頃。
王太子である俺の遊び相手にと引き合わされた、紅い髪に紅い瞳を待つアルヴァハイム侯爵家の息女。
それがエリザベータ・フォン・アルヴァハイム―――リーゼだった。
お互いまだ幼かったが、出会い頭に拝まれるという経験はそれまでした事がなかったので、その時の事はよく憶えている。
初対面で既にリーゼは俺に対して崇拝の念、と同時に、姉が弟に、或いは親が子に向ける類の親愛の情を抱いている風に感じた。
幼い頃は自身の魔力を処理し切れず体調を崩しがちだった俺を心配して、リーゼは何彼に付けては俺の後を付いて回り、貴族達が王都に集まる社交の期間は、リーゼと、リーゼと同じ様な理由で交友を持ったウィルとの3人でいる事が多かった。
7歳。
母の死にも涙を見せない俺を「冷血王子だ」と陰で揶揄する声を聞きつけ怒り狂ったリーゼは、伯爵家の子息相手に葬儀の席で大暴れして謹慎を言い渡された。
馬鹿な女だ。
フォンシュルツェブルクの血を引く人間は怒りで瞳の色が変わるので他人に感情を悟られ易い。
「決して人前で感情を露にしない」という母との約束を守ろうとする俺に気付いたリーゼが「クラウス様の分もわたくしが泣きます!」などと言い出して、本当にそうするので―――俺の涙を、リーゼが泣いてくれていると知っていたから、俺は何を言われても平気だったのに。
8歳で俺とリーゼは婚約を結んだが、特段感慨もなく、身分を踏まえると自然な流れだと思った。
よく泣きよく怒りよく笑う、俺と正反対のこの女は、大人になってもこうして変わらず俺の隣にいるのだと、そう思っていた。
9歳、王都を見舞った大火の後、リーゼは暫く塞ぎ込みがちだったらしい。
久々に会った俺に興奮し、踊り回って隣国より贈られた壺を破壊した。
隣国の出身である亡き母の橋渡しにより長きに渡る不和が解消され、友好の証にと贈呈されたものだったと記憶している。表沙汰になれば敵対関係に逆戻りしてしまう可能性もあったかもしれない。
リーゼもその事は理解していたので、今迄見た事もないくらい青い顔をしていた。
俺は割れた壺よりも白く柔らかそうな手が破片で傷付いている事の方が気になって〈魔術〉で治したが、それすら気付かぬ様子の紅い瞳にはみるみる涙が溜まっていく。
―――まずい、泣く。
俺は焦った。
リーゼが泣くのは苦手だ。
王室の教育に生来の気性が相まって大層愛想のない性格をしている俺は、席を共にする貴族の息女を怖がらせ泣かせてしまう事も珍しくない。都度「泣いたな」程度の感想しか出てこないのだが、リーゼに限っては―――リーゼが泣くと俺はどうにも狼狽えてしまい、何とか泣き止ませる方法はないものかとあれこれ考えを巡らせた挙句、気の利いた策ひとつ浮かんで来ないのだ。
「とても狼狽えている風には見えないですけどね」などとウィルは言うが、性分なのだから仕方ない。
俺は咄嗟に〈魔術〉で壺を復元した。
リーゼはぽかんとした顔をしていたが、共にそれを見ていたリーゼの父、アルヴァハイム侯ワルテンは、壺を割った時のリーゼよりも青い顔をしていた。
「あの〈魔術〉を、人前で使ってはなりませぬ」
後に単独で登城したワルテンから苦言を受けた。
俺が壺を復元した〈魔術〉は通常使う『精霊言語』の別書体を用いたもので、フォンシュルツェブルクの血を引く者にしか扱う事が出来ない。
ワルテンを含む一握りの臣下を除いては知る事すら許されないものだった。
「その事であれば承知している。リーゼは顔に出易いが口は固い。何れは王太子妃になるのだから、知ったところで問題はないのでは?」
思ったそのままの俺の言葉に、ワルテンは渋面を作った。
これ迄のイドニア王国では、王太子妃の座を狙う者によって王太子の婚約者の身が危険に晒される事が幾度となくあり、アルヴァハイム侯爵家より立てる婚約者は、リーゼは、それを防ぐ為の『盾』である事を、俺はその時知った。
「……聞いていない、そんな話は」
「これは我々臣下の責です。慣例の事故、皆既に殿下が御存知であるものと思い込んでいたのでしょう」
時が来ればこの婚約は解消される。
そうなれば俺は本当の相手を妃として迎え、当然リーゼも別の男と―――
今となっては明白だが、その時の俺は理由も分からぬまま、その事に対して激しい憤りを覚えた。腑が、煮え返る様な。
その場に居た臣下達は俺が瞳の色を変えた事に震え上がり、それが必要な報告を怠った為と捉えた様だったが、そんな事はどうでも良かった。
この歳で腐敗の進んだ王宮の是正を担わされた事も、「陛下だと少し不安で…」と国王の公務の一部まで割り振られる事も、状況を鑑みるに当然の事と受け入れて来た。
だがこれだけは、あの紅いガーネットの瞳を輝かせて微笑うあの女が俺の隣にいない未来だけは、どうしても受け入れられなかった。
リーゼも事情は知った上で「アルヴァハイムから王太子妃が出た例もありますわ!」と王妃教育に励んでいたが、それは恐らく不可能である事を―――リーゼの魔力が、貴族では珍しい程に少ない事を、俺は既に知っていた。
魔力を多く持つ者は相手の魔力を感じ取る事が出来る。魔力の査定もそうした者が行うのだ。
「婚約者なのだから関係ない」と高を括っていたが、精霊信仰のイドニア王国では魔力の多さを精霊の加護と見做す。眇たる加護しか持たぬ者を王太子妃になど、認める者はいないだろう。
「精霊」というものを、俺は見た事がない。
存在すら不確かな者の顔色を窺ってよくもここまで右往左往出来るものだとは思うが、信仰は王国の根幹に関わる事柄であり、王太子が表立って批判し徒に混乱を招く行為は許されない。
国が乱れて一番に割を食うのは何も知らない無辜の民だ。
ワルテンもリーゼの魔力が少なすぎる事に薄々勘付いていたが、娘が傷付くのを恐れ言い出せないでいる様だった。
これを知ったらリーゼは泣くだろうか。泣くだろうな。
だが、何れ査定を受ければ知る事だ。
今泣くか後で泣くかの違いでしかない。
いや、知るならむしろ早い方が良いだろう。
次に会った時には―――
次は―――
この次こそは―――
―――結局何も伝えられないまま迎えた10歳。
査定を受け「クラウス様と結婚出来ない」と泣くリーゼを慰める言葉ひとつ思い浮かばぬまま、俺はただ「そうか」と呟く事しか出来なかった。




