第76話 悪役令嬢の目にも涙
かさなり合った唇がゆっくりと離れ、瞬きすら忘れた瞳の紅を、確かめる様な藍が覗き込む。
クラウス様はもう一度、そっと啄む様にキスをしてから、わたくしの体を抱きしめた。
「俺が誰にでもこんな事をする男だと思われているのだとしたら、その誤解を解かなければならないな」
力強い両腕に抱き込まれ、胸いっぱいに広がるクラウス様の匂いに思考が乱される。
「だ、だって、わたくし、魔力もなくて……」
やっとの事でそれだけ言うと、わたくしを抱く力がぎゅうと強まった。
「魔力の査定の後も王妃教育に真摯に取り組んでいたのは自己研鑽の為だけではなく、王太子妃として俺の隣に立ちたいと、まだそう思っていてくれたからだと考えるのは、俺の思い上がりか?」
低く囁く声が鼓膜を震わせる。
言葉を紡ぐ度掠める唇に、耳が火傷しそうな程に熱い。
その唇が離れ際、ちゅ、とキスを残していくので、わたくしは「ふゎぁあ!」と腑抜けた悲鳴を上げた。
クラウス様はそれを気に留める様子もなく、少し体を離し、わたくしの頬に右手を添えてお互いの顔を向き合わせる。
頬に触れただけの手に強引さなんて微塵もない。
わたくしの方だって、恥ずかしさに慣れたなんて事は全くない。
それなのに何故かその手に抗う事が出来ず、凛々しく引き締まった顔立ちに、深く澄んだ藍色の瞳に、魅入られた様に目が離せなかった。
「リーゼの気持ちが聞きたい。……『吟遊詩人』だ何だと、いずれ各地を遍歴するのが夢だと言っていたな。―――それはリーゼの本心か?俺から遠く離れる事が、リーゼの心からの望みなのか?」
懇願の響きが滲む声音に、心が揺さぶられた。
「わ、わたくし…わたくしは………」
この、全て見透かす様な藍色に射抜かれると、長年培った虚勢も建前も、怖いくらいに容赦なく剥ぎ取られてしまう。
ずっと昔に心の奥底に仕舞い込んだ願望が、未練がましく頭をもたげる。
「はなれたくない……」
ほろりと頬を伝う涙と共に、願いが口から零れ出た。
「ずっと、クラウス様の隣にいたいです……」
堰を切った様に、止め処なく涙が溢れる。
「でも、でもでも、そんなの、無理、だって、思ったからぁっ……!」
えぐえぐ泣き出したわたくしの頬をクラウス様の両手が包み込み、親指が涙を優しく拭った。
「俺を、幸せにしてくれるんだろう?」
うわあぁん!あのギルバート、なに余計な事まで話しているのよぉ!!
「だったら、俺から離れて行こうとするな」
少し拗ねた様な声でそう言って、こつんと額をぶつけられた。
涙で滲んだ視界に、真っ直ぐにわたくしを見つめる愛しいひとの顔が映る。
「俺が想いを寄せるのは、昔からずっと、ただひとりだ」
いつも涼やかな藍の瞳が、確かな熱を帯びて。
「リーゼを愛している」
再び、唇がかさなった。
「ほ、本当に……?」
ふわふわとした夢見心地で―――もしかしたらこれは夢で、目が覚めたら泡になって―――なんなら今にも目が覚めて、また今日をいちからやり直しなんじゃないかって―――口から零れた不安が、否定の様に、咎める様に、塞がれる。
「信じられないのなら、リーゼが信じられるまでこうしている」
クラウス様は唇を触れ合わせたままそう言うと、また、わたくしの口を塞いだ。
そのまま二度、三度と、唇を食む様にキスをされ―――ちょ、ま、待って、コレいつまで続くの?
今、わたくしが「信じられるまで」こうしているって言った?
「信じられる」、その判断基準は??
クラウス様は何を以て、わたくしが「信じられた」と判定を下すのかしら!?
そしてその判定が下されるまで、わたくしは耐え切れるのかしら!!?
―――絶対無理!!!
そんなの待っていたら、わたくしの頭が沸騰しちゃうわよ!
何度キスされたのかすら曖昧になった頃漸く、わたくしは力の入らなくなってきた手でヘナヘナとクラウス様の体を押し戻した。
案外あっさり離れるクラウス様。
「わか、わかりました、信じましたから……!」
もう、わたくしは限界です。
頭はのぼせた様にぐらんぐらんしているし、顔だって、きっと茹でダコよりも真っ赤になっている事でしょう。
こんな、こんな状況、わたくしには刺激が強過ぎて、何時何時鼻血が吹き出したっておかしくはないのです。
「もう、ゆるして………」
必死に哀願するわたくしを、クラウス様は無言で見つめる。
どうですか、クラウス様。
判定は―――判定は、如何に。
見定める様にわたくしを見ていたクラウス様が、ややあってから口を開き―――
「いや、まだだな」
「えぇっ!?……んぅっ!!」
そう言ったクラウス様の手がわたくしの後頭部に触れたかと思うと、頭を強く引き寄せられ、そのまま深く口づけられた。
先刻までの優しいキスとはまるで違う。激しく貪る様なキスに、驚きおののき逃げ惑う舌はおろか、思考までもがあっという間に絡め取られ、意識がくらりと揺らぐ。
ちょ、これはおかしい。おかしい、何が?
だってわたくし、ちゃんと信じて、信じて?何を?
しどろにもつれる舌の触感に、頭の中まで一緒に掻き回されているみたいで何ひとつ考えが纏まらない。
合間合間に、クラウス様が息継ぎみたいに「好きだ」と繰り返すので、頭の芯が甘く痺れて、ぼんやり霞む意識は抵抗する術もなく、何もかもを受け入れてしまう。
宮中伯の皆様はわたくしが王太子妃で納得なさるのかしら、なんて考えも、コレ何だか洗脳されてるみたいじゃあない?、なんて考えも、激流の様なキスに呑まれて消えて―――
そっかー…クラウス様、わたくしの事が好きなのね……なーるほど、納得………
―――気付いた時には、ぐったりと力が抜け切ってしなだれかかる体をクラウス様に抱き支えられながら、
「……愛している。ずっと俺の隣にいて欲しい。俺の妃になってくれないか」
と耳元で囁く声に、
「はい……」
と返事をしていた。




