第34話 エリザベータという女⑥
イドニア王国後宮女官長ハイデマリー・フォン・ブットシュテット。
王妃の側近奉仕を取り仕切り、将来王妃になるであろう王太子の婚約者の訓育―――所謂王妃教育は彼女が直々に行う。
彼女の王妃教育は、そのあまりの厳しさに泣かぬ令嬢はいないといわれている。
と、いわれている私だが、別に好きで泣かせている訳ではない。
知識、教養、気品―――王妃に求められるものは数多くあれど、最も必要なものは―――これは持論だが―――胆力だ。根性でもいい。
表向き国政に直接関わる事はしないとされている王妃だが、実際には王の補佐に回る事もあれば宮中伯らと意見を交わす事もあるし、国家間の交渉の席に着く事だってある。
この王宮で、女官達を取りまとめながら海千山千の男達を相手に対等に渡り合う。強靭な精神力が必要なのである。
……まぁ、王妃も人間。これはあくまで『理想』だ。
王太子の婚約者に据えられる御令嬢は、そもそもが良家の子女で然るべき家庭教師が付いている場合が多いので「教育」そのものに躓く事はほぼ無い。
だがいかんせん、蝶よ花よと育てられた女性らしい―――はっきり言うと打たれ弱い御令嬢も多いのだ。
将来王妃となり壁にぶつかった時、この王妃教育を最後までやり遂げたという自信が少しでも心の糧になればと―――「やりすぎでは」という周囲の意見も尤もではあるのだが―――手心を加える事はしない。
なので私の担当する王妃教育、厳しくしすぎてこれまで受け持ったどの御令嬢も泣いてしまった。
―――ひとりを除いては。
エリザベータ・フォン・アルヴァハイム。
ゆるやかに波打ち流れる鮮やかな紅の髪に、髪と同じ紅色の瞳はガーネットのよう。
険のある顔立ちだが将来は美しく成長するだろう。
我が強く、感情が昂ぶると高笑いを上げる所に難はあるが、これは教育で何とかなるだろう。
……と、思った。
まさか何とかならないとは、今現在に至るまで何ともならないとは、この時の私には想像も付かなかった事だ。
教育とは、指導とは、奥が深い。
王妃教育を始めた当時。彼女は僅か8歳で、少しつつけば泣いてしまうだろうという予想に反して、どんなに厳しく接しても、涙ひとつ見せる事なく私の指導に付いてきた。
私が彼女の涙を目にしたのは、後にも先にも一度だけ。
10歳にもなると体内の魔力も安定してくるので、教会で魔力の総量を査定する。
彼女の魔力は"並"であった。
"並"。
貴族の中ではなかなかお目にかかれない。
平民とさして変わらぬ魔力であった。
「ふわあぁあああん!!」
彼女は泣いた。
それはもう盛大に。
「これではクラウス様のお嫁さんになれませんわぁああ!」
精霊信仰のこの国で、精霊の加護―――魔力のない王妃などありえない。
号泣する彼女に、共に査定を受けていたクラウス王太子殿下は―――後ろ姿だったのでこちらから表情を窺い知る事は出来なかったが―――いつもと変わらぬ声音で「そうか」と言っただけだった。
「公の場、しかも王太子殿下の御前で見苦しく泣き喚くなど」―――この時ばかりは流石の私も言えなかった。
課題に躓いても泣き言を言わなかった。こなしきれない前提で出された膨大な宿題も次の授業までには完璧に仕上げてきた。
大抵の事は初めから人並み以上に出来る王太子殿下の様な天才とは異なり、彼女本来の能力はさして高くない。
それでも王妃教育に喰らいつく―――妙な迫力があるので彼女を相手に指導していると本当に喰らいつかれている様な気になる―――喰らいついてきたのは、偏に王太子殿下への想いゆえであると、その頃になると私にも分かっていたからだ。
「この程度の事、クラウス様のお嫁さんになれると思えば平気ですわ!」
厳しく接してもめげずに笑う彼女の顔が頭に浮かび、苦い気持ちになる。
元来、アルヴァハイム侯爵家から出される王太子殿下の婚約者は、王室の『盾』―――実際に王太子妃となる者の盾としての『繋ぎ』の役割としての意味合いが強い。
だが彼女であれば―――実際に王太子妃に推薦する事も吝かではないと、私は思っていたのだが。
次の王妃教育。酷く落ち込んでいるだろうという私の予想に反して、彼女は元気いっぱいで現れた。
「わたくし将来は吟遊詩人になってクラウス様の素晴らしさを各地に伝え歩きたいのですわ。詩句と歌唱の授業を増やしてくださらない?」
………頬を張って目を覚ましてやろうかと思ったものだが、どうやら本気で言っているらしい。
彼女が実際に王太子妃になる事はなくとも、私は指導の手を緩めるつもりは無いし、彼女もそれまで通りに付いて来た。根性がある。勿体ない。
ただ―――その日を境に、彼女の口から「クラウス様のお嫁さんになりたい」という言葉を聞く事は無くなった。




