夢見る心臓 ‐Dハート‐
薄青い布の中に僕がいて、胸の上には虹が輝いている。
Tシャツを着た僕と、その胸にプリントされている、企業のロゴマークのことだ。ロゴは胸の左側を中心に、お腹や右胸にまで広がってデカデカと貼り付いている。
下はショートパンツ。
天井に広がる偽物の青空。どこまでも果てしない、ように見える。
その偽物を、白いシーツの上で仰向けに横たわりながら見上げている僕は、両手両足を自然な形でだらりと投げ出していた。
錯覚の眩しさに、腕をおでこに乗せて、空の青さから目を庇った。
もう片方の手が、わずかに握り込んで、シーツにしわの渦を作る。
この力みは、眩しさをこらえるためだろうか。それとも────。
「ハイ、ゼア」
気がついたら僕の唇は動いていた。
Tシャツのロゴマークが光を放ち、その光が胸の上にデフォルメされた心臓の虚像を結ぶ。
平面的ではない、丸みを持った量感に、プラスチックのようなすべすべとした質感の表面。
その立体型ハートマークは、ツギハギで出来ていて、パーツごとに異なる原色をしていた。
Dハート、夢見る心臓。
ドリーミングの冠を被せられた、かつて心の宿る臓器とされたそれが、ツギハギの線に沿って、全部パカッと外向きに広がった。
接合面は歯車状、内側に秘められていたパーツも全部そう。押せば綺麗に組み上がる、ハートの形の立体パズルだ。
そのパーツ同士が、物理的な妨げをすり抜けてどんどん広がっていって、不意に、隙間に新たなパーツ群を生じさせる。
出現した幻の立体歯車はキュルキュルと回り、他のパーツを触れないままに回転させながら、まだまだ広がらせていく。
その隙間にまた新しいパーツが生まれ、その連鎖がまたたく間に、幻の心臓によって包み込まれる体積を巨大化していった。
いつしか、すり抜けられる側の現実が存在感を失い、ぼんやりと透けていって、代わりに立ち上がっているのは、回る歯車の間に広がる極彩色の輝き。
うねる虹色の空間は、偽物の青空を遥かに遠く突き抜けて、色調を一斉に青く整え、本物の空に変わっていった。
僕の体の上下感覚は、寝そべっていた背中ではなく、足元を基点に重力を掴まえている。
パタパタと、どこかでまだまだ回転している、今や膨大となった歯車群に連動して、そこら中の空間がモザイク状にめくれ上がり、見る間に世界は色と形を変えていく。
たっぷり一分間はありそうな、一秒にも満たない引き伸ばされた刹那に、これらの変化は全て起こっていた。
僕の世界。
僕の幻の、そしてもう一つの大切な心臓が見ている夢。
ここから僕は、あらゆる星へと届くよう、空を架する。
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DハートのDはドリーミングのD、デュアルのD、デジタルのDだ。まさに3D。
ナノサイズのドットにまで押し固められ、布状の専用素材に直接プリントアウトされたセンサーと電子回路が、この3Dの心臓を構成している。
もちろん、たったこれだけの要素で全てが出来上がっているわけではない。Dハート自体は、心臓のさらに核、あるいは起動鍵に相当している。
現代の家は、俗に電子骨格とも呼ばれる、量子コンピュータを中心としたフレームを組み込んでいて、それらを物理的な骨格に織り込んだ工法で仕上げられている。
この電子骨格がサーバーにつながり、Dハートから読み取った最新の記憶情報と身体感覚をデジタル世界へと投げ込んでいる。投げ込まれた先でそれを受け取るのは、僕の世界を統べる神、もう一人の僕だ。
「ハイ、ゼア(やあ)」と僕がさっき呼びかけたのは、この神様に対してなんだ。神様だろうと自分自身が相手なのだから、砕けた挨拶になるのも当然かな。
この神様に人としての写し身はない。神とは法則であって、法則に縛られる側ではないんだ。
空を見上げると星がある。
見慣れた小さな光点じゃない、表面にある構造物が直接目に見える大きさの球体が、ほんの数メートル、あるいは数十メートル先、数百メートル先に、いくつもいくつも浮かんで見えていた。
僕の立っている場所も、別の星から見ると、同じように見えている。
(どこへ行こうかな)
星は、もちろんこれっぽっちの大きさではない。その特徴を映像化したものが見えていて、もっと言うなら、距離さえ見たままの遠さではない。
例えばどれかの星に近づけば、それと似たような世界観の星が、もっと細かく特徴を押し出した状態、もっと大きいサイズで見えてくるだろう。
中には親となる世界観の部分的な特徴だけを抜き出して作られた衛星もある。
それらの星は、それぞれが自転、公転し、本物の星々よりも複雑に関係しあいながら、この空を巡っている。
空の続く限りは、どの星にでも行ける。
逆に、その人が受け付けない世界観であればあるほど遠く、そこに居続けるだけで息苦しい、それこそ本物宇宙の真空にも等しいと感じられ、行くこともままならない。
地面を蹴って、僕は空へと飛び出した。すると、視界の端で小さく表示されていた数字が、目減りという形でゆっくり崩れ落ち始めた。
気にせずに、ゆるやかな星間飛行を続ける。空の色は、リラックスした穏やかな青から、血と炎を想起させる、燃える赤へと移り行く。
突き出した火山、荒れ果てた大地、たなびく灰色の雲、細い小川、そしてほんのわずかに垣間見える黄金の財貨────。
そんなものが見える星へと、今、僕は向かっている。
ある一点を越えた途端に、見えていた景色がうねる大小の銀河団に置き換わる。
闘争を基調とする世界観は人気がある。暴力が日常から縁遠い生活を現実で送っている人たちほど、押し込められたストレスを暴力で解消したがるからだ。
この系列の世界観にはもう一つ、決して無視出来ない大きな派閥があるんだけれども、今回は置いておこう。
人影が、赤色の虚空に漂っている。僕の飛ぶ軌道上だ。
現実の僕とは比較にならないほど大柄な体躯、荒々しい印象の極短髪の背中、そこに僕は後ろからぶつかっていく。
《──同期──》
──【俺】になった。
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暴力的な世界観には、暴力的なパーソナリティで向き合う。方法がこれだけってわけじゃないが、俺の本体の好みは、これだった。
サーバー上には、世界観に適した人格を保存するポイントが自由に設定出来る。さっき通過したのも、そのポイントの中の一つだ。
ここから更に個別具体的な世界観へと下りる際、性別・年齢・外見・出自などといった詳細を持ったキャラクターに、俺はコンバートされていく。
もちろん暴力に暴力以外で対抗する発想が俺の本体にないわけじゃない。
その選択を取る際には、俺とは別のパーソナリティをベースに拡張する。
「──────……」
虚空に薫る匂いを、クンと鼻で嗅いだ。
懐かしい匂いだ。
数ある銀河の一つに、無造作に飛び込む。星系がまた無数に見えてくる。その星系からまた一つをろくに見もせず選んで飛んだ。
慣れた航路だ、確かめるまでもない。
体がメキメキと音を立てて変容する。
筋骨は太く、爪は長く、頭蓋の主要部位が架空以外では許容しがたい感触と共に歪み、凹凸を与えられていった。
獣人。それも、狼の。四肢の骨格は人形を保っているので、亜人レベルは高くない。
滴る血の紅と同質の艶やかさを帯びた空の色。
その紅に、黒々とした毛並みの狼=俺がいる。
毛皮に入った亀裂のような、肉食獣特有の形を取った双眸が、俺のいるべき世界を見出した。
脳をはみ出て体外に広がる俺という思考が、脳ごと揺れる。ガガガガガ────ッ!
《──空間、認識──》
《──時間、固定──》
俺が溶ける。いや、俺を含んだ虚空が融ける。
俺という点が、拡散しながらに凝縮する。
空という空が、崩壊しながらに再生する。
世界観という歴史が、世界という現在に置き換わる。
虚ろが現に裏返り、表戻る最中、問いかけてくる声を聞いた。
《──加速度:標準(XXX倍)
FiCレート:XXX──》
OK、それでいい。チマチマした目盛りの操作は嫌いなんだ、俺は。
「────さあ、おっぱじめようか!!!」
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もう一人の僕たちが冒険をしている傍らで、僕は既にベッドを降りていた。
(どう動くかなんて、おおよそでいいもんな)
リアルタイムでキャラのイベントログや、時には映像化した姿を追いかけられるほど、僕の部屋の設備は上等じゃない。
そういうのは普通、専門のお店に行ってたまに楽しむぐらいでいい。
リアルの充実のためにフィクションがあるのであって、フィクションのためにリアルを捧げるのは本末転倒──だしね!
なので、僕のプレイング方針としては、基本的には任せっきりの送り出しっぱなしで、記憶の同期レベルも低い。
「さて、やりますか!」
掛け声一発、机に向かい、課題と向き合う。
現実の僕の夢は、どこまでも現実の僕の延長線上にしかない。現実でどこかへたどり着きたいのなら、勉強して積み上げるしかない。
頭の上には、偽りの青空。向かう先の、その向こうにあるのは、広がりもしないただの壁。
Tシャツの胸に、今は演算の輝きを宿さない虹を乗せたまま、頭蓋の中だけで僕の思考はぐるぐる回る。
歯車のように散らばった知識を、組み合わせては回し、これじゃない、あれだろうかなどと試しながら。
とくんとくんと意識も出来ず、胸の内側で鳴る心臓。
止まることなく、続いていく。
今回は視覚化に重点を置いてみました。
物語はまだ動きません。そのための準備中です。