恋。
遠くに夕日が沈み落ちていく。
赤く染まる稜線、地平線、水平線。太陽が沈む最後の一番綺麗な瞬間が訪れるのを、私は待ち遠しく思っている。さざめく波や隆々しくたたずむ山々、広大に広がる大地、その全てをまるで自分ただ一人とでも誇るが如く真っ赤に染め上げる夕日。
ただただ真っ赤に染める。それだけの行為で地球上に存在する全てのものを牛耳り、支配するかのように。
そうして次からは段々と暗闇が押し迫り黒々と滔々と、あたり一面が闇に塗りつぶされていく。真っ赤な大地から真っ黒な大地へと染め替えられていくその情景、きっと10分にも満たないだろうその時間が私には美しく感じられる。その瞬間に私の心に訪れる気持ちは、何故だか誇らしく果てない。
その日ただ一度だけ訪れるその瞬間、一瞬だけに私の心は奮い立たされる。未来永劫二度と訪れないただその一度だけのひと時を、私はとても感慨深く感じる。その日のそのときは二度と私の前に立ちはだかることはないのだ。
「また見惚れているのですか」
私の後ろから眺め観る青年に、私は一度だけ頷いた。彼は私より一回り以上年下で、尚且つ私より一回り以上身長も高い。それでも彼は私のことを見くだしたりも見下したりもしない。ただただ誠実に私に対応してくれる彼を、私は好ましく感じていた。
「綺麗ですから」
「何が」とは問わない。この情景は誰もが好みさえすえ嫌いにはならないだろう。綺麗なのだ。全てを赤く染め上げ、全てを黒く塗り替える。
「あなたが好きです」
そう告白を受けたところで私はその宣告とも思える「愛のしるべ」を聞き逃さずに、ただ一度頷く。それを彼は冗談だと受け止めたのだが私は実に誠実だった。
「冗談じゃありません」
「冗談だなんて思っていません」
私は正面を向いたまま答えた。つまりは彼の顔を見ずに彼と同じ方向を見ていたということだ。だから私の表情から彼が感じられる情報は皆無なのだろう。
「本当に冗談じゃありませんから」
「冗談とは思っていませんよ」
「たとえあなたが私のことをどう思っていたって、私は諦め切れません」
「まだ何もお答えしていませんよ。否も諾も。ただ冗談だとは思っていませんと申し上げただけです」
「先生」
「先生だなんて止めてください。既に職は辞していますから」
私自身は自分自身がいかに残酷な存在か分っている。彼にとって私がどんな存在であるのかも同時に認識している。それでも彼の想いに応じることが出来ないこともわかっている。
「また先生にはなられないのですか」
「私には・・・その資格はありませんから」
「そうとは思えません」
「いえ、その資格はありません。私自身、自覚しています」
「先生」
「あなたの先生であるという事からも条件としては欠落しています」
彼は私にどこまで残酷な台詞を言わせるつもりであろうか。また彼自身、私の彼への返答も想定しているはずである。
私が彼にどんな気持ちを抱いているかも彼は知っている。知っていて問答をしている私たちは、もはや既に自分たちの問答という行為に酔っているのかもしれなかった。
「私はあなたに恋をしております」
私はそれを知りながら今まで彼に、彼の先生としての顔を見せており、また人の妻としての顔も見せていた。
「聞きました」
「お応えしてはいただけませんか」
「その資格はありません」
先ほどとまた同じ問答に陥る。
「先生・・・」
「先生という私の役割は終焉を迎えました。しかし人の妻としての私の人生は、まだ終わりを告げてはおりません」
「旦那さんは」
「あの方は私の心の中におります」
彼の断言する言葉を私は決して他人から聞きたくはなかった。それが例え真実であっても。その為、彼が言い切ろうとする前に、私は彼の言葉を阻止したのだ。
「あの方は私の心の中におります。心の中に生きております。たとえその身は潰えても。彼の心の記憶は私が持っております」
「もう二度と旦那さんにはお会いできないのですよ」
「たとへそうだとしても、私はあの方を裏切ることなど出来ません。あなたもご存知だとは思います」
私はそこで初めて彼の方へと振り返った。すると彼は静かに涙を瞳から流していた。
「 」
彼はただ、私の瞳をずっと見続けて視線を決して離したりはしなかった―。
短編を書くのは難しいことは知っていますが、どうにもやはり私には短編は苦手でなりません。
今回は短くサッパリ読める作品を書きたいなと思い、書きました。
バッドエンドでもなくハッピーエンドでもない得てして不可思議な話になってしまいました。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
*「航路」の「私」と本作での「私」は無関係です*