ダーク・チョコレート
バレンタイン向けに短編で書いていたものの、そのまま終ってしまうと謎だらけですっきりしないので、連載にする事にしました。
朝靄の中を息を大きく弾ませながら駅へと向かって走った。
刺すように冷たい風が頬を掠めたが、胸は熱かった。
彼の好きな藍色のリボンを掛けた包みをギュッと握り締めた。
今日は一世一代の大勝負。
彼と初めて言葉を交わしたのは去年の夏。
うだる様な暑い日で、ラッシュの時間帯に信号機故障の遅延も加わり、電車内は詰め込まれた人々で蒸し暑く、苛立っている人も多かった。
私は段々と気分が悪くなり、頭が朦朧として扉と手すりの間に体をもたれさせ、目を閉じて何とか凌いでいた。
僅かな隙間を何とか確保していたが、息苦しさが増して行き、数分で到着するはずの降車駅が遥か遠くに感じられた。
冷や汗が額や背中から滲み出て、体の中心は熱いのに鳥肌が立ちそうな感じがして、ついに堪えきれなくなり、その場でしゃがみ込んでしまった。
混雑している中で、周りの人に迷惑がられるだろうと思っても、どうする事もできず、情けなくなって泣きそうだった。
その時、近くに立っていた男の子が優しく声を掛けてくれた。
私はまともに返事が出来ないまま、扉が開くと同時にホームへ導かれ、そのまましゃがみ込んでしまいそうなところを体を支えられながら何とか駅員室へ辿り着き、暫く休ませてもらうことになった。
次に目を覚ました時には、その子の姿は無く、顔もよく覚えていなかった。
今までに一度も遅刻をしたことが無く、ドキドキしながら学校へ行くと、先生は駅員室へ連れて行ってくれた男の子から聞いて、私が体調が悪くなって遅れたことを知っていた。
私は人見知りが激しく、友達以外とは普通に話せず、その男の子とも話したことは無かった。
自分が名前も知らない相手に知ってもらっているのは不思議だった。
友達の話では、私の行動はドジで目立つので覚えられていたのだろうと容赦なく言われた。
その日から、何と無く気になって男の子の姿を目で追うようになっていた。
どうして気が付かなかったのか疑問に思うほど、私と彼には多くの接点があった。
選択授業が同じ美術で、学食のいつも使っている席の近くに彼らのグループが陣取っていたので、友達は彼らと顔見知りだった。
同じ駅と路線を利用しているだけでなく、同じ車両に乗り合わせることも度々だった。
少しずつ彼のことを知る度に、少しずつ彼を好きになっていった。
キラキラして見える愛らしい笑顔、悪戯が好きで、声がちょっと幼い。足が速いし、字がキレイ。すれ違うと珈琲の匂いがする……。
そして、知らなくても良いことも知ってしまった。
彼には可愛い恋人がいて、その子は明るくて、男女問わず友達がいて、しっかり者で……私とは正反対の人だった。
いつもは内気で何も出来ない私だけど、今日だけは特別!
星占いでも、血液型占いでも一位だったし、何よりも今日はバレンタインデーだから。今までの勇気と思いを込めてチョコを渡すと決めた。
先月、何気ない話題のように彼が恋人と別れたことを笑いながら友達と話しているのを偶然耳にした。
何でもない風を装っていたが、彼は本当は辛いんじゃないかと思い、喜んではいけないと自分に言い聞かせていたが、チャンスかも知れないとも思った。
最近、彼とよく目が合い、あいさつや世間話も少しはできる様になったし、一緒に居ると安心するとも言われたんだから、ほんの少しくらい期待をしてもいいと思ってるんだけど……。
彼がいつも通る駅の階段で、真っ白な息を手に吐き掛けて、耳へと当てながら待つ。
何度も深呼吸をくり返し、何度も練習してきた言葉を復唱する。
大丈夫、きっとうまく伝えられる。自分に勇気を出させるように呟くと階段を見上げた。
あくびをしながら眠そうな目をこすっている彼の姿が見え、思わず顔がほころんでしまう。
「おはよう」
私の姿に気が付くと彼は右手を上げた。
「おはよう」
私は嬉しくなって、満面の笑顔で彼に手を振り返した。
足を一歩踏み出したところで、彼の背後に異様な空気が流れているのに気付き、急に不安が心に広がり、胸がキュッとなった。誰かが彼に近づいて来ている?
黒い影から手が伸びて、彼の背中を勢いよくドンっと押した。
一瞬の出来事で目を見開いたまま声が出ず、私の世界は凍りついた。
彼は、宙を舞って段差に叩きつけられるようにして、階段を転げ落ちた。
ぴくりとも動かない彼の体の下に、鮮血と赤黒い血が混じりあって滲んでいくのをただ眺めながら、私は色々な感情が吹き飛び、糸が切れた様にその場に崩れた。
人が集まりだし悲鳴や怒号が飛び交い、あっという間に人だかりが出来ているのを駆けつけた駅員が誘導していた。
「一体、何があったんだ?」と駅員に肩を揺すられながら聞かれ、現実に引き戻され辺りを見回した。
喧騒の中でも迫ってくる足音だけは、はっきりと耳にこだました。ゆっくりと階段の方へ視線を移すが、目の前を通り過ぎようとする人影に、息が詰まり顔を上げられず、その人の足元を凝視していた。
彼女は微かだがはっきりとした口調で言い放った。
「あなたなんかに彼は渡さない」
胸が締め付けられ、涙でぼやけていたが、人ごみに紛れる前に一瞬だけ見えた後姿で、それが別れた彼女だと知る。
彼へのプレゼントが、ポケットの中で潰れて歪んでいた。