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異国の人

作者: 星野区

 長い眠りから目が覚める。テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。昨晩からずっと眠っていたものだから、首や肩が痛みに軋む。リビングに差し込む夕焼けの光が、目覚めたばかりの目にしみた。

 あの人はまだ帰ってきていないようだ。……いや、帰ってきた形跡がある。目玉焼きを自分で作って食べた後、片付けていかなかったのだろう。テーブル上の皿に、目玉焼きの黄身の欠片が残っていた。加えて――彼が気を利かせて掃除をしてくれたのだろうか。部屋の壁に掃除具が立てかけられたまま置いてあった。彼としては珍しい行動だった。ただ、フローリングの床掃除をしていた途中で止めてしまったらしい。有り難いことではあったが、私は小さく溜め息を漏らす。

 私はやっと起き上がり、皿を片付けに立ち上がる。自分が食べた後片付けは、全て私という妻に任せる。昔から習慣づいていた。夫である彼は異国の人間だ。文化が違えば、それも仕方の無いことだろう。私は彼に自分で片付けさせることを諦めていた。

 皿を洗い終えると、私は玄関の方へ向かう。彼は異国の人だ。鍵を掛けないままに出て行くことなんてざらにある。彼は、見知らぬ誰かが何かを奪いに家に侵入してくる恐ろしさを知らないのだ。だから彼が出て行く度に毎朝ドアの戸締りを確認する必要があった。

 施錠したことを確かめ、ドアのチェーンを外す。こうしないと彼が家に入ってこられない。彼がこの家に帰ってくることは間違いないことなのだ。

 もう、ここ何年もずっと彼の姿を見ていない。私は毎晩彼を待っていて、待ちくたびれて眠って、私の気のつかないうちに彼は帰ってくる。それからまた私の気づかない間にこの家から出て行く。毎日がそれの繰り返しだった。そこには何の変化も無い毎日があり、それを過ごすことが私の日常だった。

 しかし、私はそれに嘆くことはない。家事に文句をつけられながら、仕事に疲れ果てた肉塊を相手に精気を吸い取られるような生活を送っている者がいる。そんな配偶者に成り下がるよりは、寂しさに鬱ぎ込むことの方がよっぽどましだろう。そうやって私はここに生活してきたのだ。彼が帰ってくるか分からないままに、気づけば私は夫と共に過ごす今夜の献立を考えていた。

 冷蔵庫の中に卵はあっただろうか、と私は思い起こした。彼は卵が好きだから絶やしてはいけない。頭の中の記憶を呼び覚まし、扉を開けることなく内容物を物色する。確か、二つ残っていた筈だ。でも、明日のうちに買いに行かなければすぐに無くなってしまうだろう。彼は朝に二つは卵を消費してしまう。そういう文化の人だ。私は彼のどんなことでも知っている。何が好きか、何をするのか、全て把握している。……いつ帰ってきて、いつ出て行くかだけは、分からないけれど。


 もうすぐ日が沈む。彼は夜中になるまでは帰ってこない。自国の労働者とは違うから、我が家に帰れる時間が異なるのだ。私の夫はとても忙しい。だから、浮気の心配もいらない。もっとも、浮気なんて出来るような人ではないことは、基よりよく知っていることではある。

 リビングに戻り、横の壁に目が留まる。視線の先には彼のやり残した仕事がそこに立てかけられていた。

 かけ終えないうちに止めてしまったとはいえ、途中までは彼は床を磨いてくれたのだ。彼に代わって、私がやりかけの掃除を済ませてしまおう――そう考え、私は壁の掃除用具の柄に手を伸ばす。

 掃除をしながら、ふと、私はみぞおちの辺りに空腹感を覚えた。昨日の夜から今日の夕方まで眠っていたものだから、丸一日何も食べずに過ごしていたことになる。流石にそろそろ何かを摂取しなければと、私は掃除用具を傍らに置き、台所に向かった。掃除なんて毎日やらなくて早々に汚らしくなるものではないのだからと、私は久しぶりの食欲に忠実になる。どうせ彼が帰ってくるのは夜中なのだから、それまでに済ませておけばいいのだ。

 私は冷蔵庫から卵を二つ取り出し、それをフライパンの上に割る。彼が好きなものは私も好きだ。自分の好みは全て彼に合わせてきた。異国の人と好みを擦り合わせることは簡単なことではなかったけれど、私は彼のためならどんなことでも苦ではなかった。彼が私と共に生きてくれるだけで、私は満足なのだ。

 出来上がった目玉焼きを皿に盛り付け、冷めないうちに口に運ぶ。静かな夕餉だった。彼がいない夜はとても寂しい。静寂の満ちる部屋に咀嚼と食器が当たる音だけが響く。もう少しの辛抱だ。私は一人ではない。彼がいるのだ。そう言い聞かせながら、味気ない食事を過ごす毎日を送り続けてきた。

 いつからだったろうか。こんなことが当たり前になっていたのは、何かがきっかけになっていた筈だった。私だって馬鹿ではない。それに何の疑問も抱かないなんてことはありえない。でも、私は何か忘れていることがあるような気がしてならなかった。こうして彼の帰りを待つ生活に、微塵の違和感も覚えない。ただ彼が残していく生きた証を確認することだけが、私の主体性を支えていた。彼がなくなる事が怖かった。それだけが全てだった。


 ――彼は鍵を持ち歩かない。彼はそういう文化の中で生きてきた。だから、錠を下ろしておかないと彼は家の中に入れない。私は再び玄関に立つ。彼も鍵を持っていけばいいのに、そうしないのだから仕方がない。

 次に、私はチェーンを差し込む。こうしておけば強盗が入ってくるなんてことはない。金品を奪うだけにとどまらないから、彼らはとても恐ろしい。私は彼とは違い、それだけはよく警戒していた。

 玄関に背を向ければ、置き去りにした掃除用具がすぐそこに転がっている。先程居た部屋に入ると、真ん中には二人がけのテーブルがある。彼と私の椅子が向かい合っていて、テーブルの上には黄身の欠片が残る皿があった。

 それらを見て、私は何だか無性に空しさを感じた。掃除も、皿の片付けも、彼を待っていることも、途端に何もしたくなくなったのだ。

 これらの生活に一体何の意味があると言うのだろう。私だけの住む家に、果たして私が暮らすことで何らかの有用性が生じることはあるのだろうか。

 生活の断片に、彼の影がところどころに潜んでいる。私は時折、日ごとにそれらが彼から私という存在を切り離していくような錯覚に陥る。私は存在していると、誰が証明してくれると言うのだ。彼という唯一の存在にすら会えないままに、永遠とも言えるような長い時間を待つということだけに費やしているような女を。

 ただ、彼の存在していた証拠を私は知っている。形の分からない虚空だとしても、私だけは確信を持って彼は実存していると言明出来る。それだけが私の救いだった。そうでなければ今頃、私も彼もどこにもいないものとして淘汰されてしまっているだろうから。

 ついに、眠気が私の身体を支配し始める。温もりの残る椅子が私を夢の中に誘った。このまま寝てしまえば、彼は私の気のつかないうちに帰ってきて、それからまた私の気づかない間にこの家から出て行くのだろう。彼は帰ってきた時に私を起こしてはくれない。

 掃除用具が放り出されている家など、なんと見苦しいことだろう。しかし、私にはそれを仕舞う気力がもう残っていなかった。彼には悪いが、この日のことは大目に見てもらおう……そう思いながら、私は睡眠欲の赴くままに椅子に座る。食べ散らかした皿を彼の席の方にずらすと、私はテーブルに突っ伏した。とても眠たくて仕方がなかった。

 あの頃のように、明日こそは私の夫に会えるだろうか。ぼんやりとした頭で、私は眠るまで彼のことを考えていた。彼は異国の人だけれども、いつか待ち侘びた私に会いに来て、寂しさで固まった身体を抱きしめてくれる、そんな幸せだった日のことを待ち望むように。

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