緑電話の呼出音
「……夏音。ちょっと、良いか」
恵人が転校してきてから一か月が経った、現在七月十日。夏休みを目前にした日曜日、あたしは恵人に呼び出されたのだった。
「良いけど……一体何?」
「おまえだから信用して話したい事がある。良いから来てくれ。…玄妖中の校門前、午前十時だ」
時計を確認すると、今午前八時二十六分。十時まではまだ余裕があるが……
「あの、実は宿題全くやってなかったりするんですけど」
激ムズ数学問題集十ページ。問題数実に百五十三問。
土曜日の朝イチでトライ、一問目で二時間悶絶、あえなくリタイア。以後見たくも無い。
しかし、出したのが八純先生な手前、やらずに行ったが最後、骨や血管の一、二本は犠牲にするつもりでいかなければならない。
「だから今日はうちのマンションに住んでる双子の女子大生に手伝ってもらおうかなーと」
「俺と協力すれば良い話じゃねぇか」
「えっ、嘘マジ恵人出来るの?」
「俺が転校してきた理由知ってっか?」
「へ?……いや、聞いた事無い」
「前の学校追い出されたからだ」
「!?……何やったの砲丸でガラス割ったの?」
恵人は陸上部砲丸投げ選手です、あしからず。
「昭和のヤンキーか俺は。じゃなくて。……成績がな」
「全教科満点+α、とか?」
「真逆。……全財産を掛けて言っても良いが、多分俺は玄妖中開校以来の馬鹿だ」
……全教科零点-αですか。
「ていうかそれさ。協力になるの」
「なる訳ねぇだろ」
だったら何だ、その[俺と協力すれば良い]は!
マイナス×マイナスがプラスになるのはあくまで紙の上だ……それじゃ逆効果じゃないか。
「分かった。じゃあ……よし恵人、あんたが家に来い!」
「は?何で」
淡々とした声で言われてもなぁ。ノリが無くてあたし悲しくなっちゃうなぁ。
「と、とにかく来いっ!話はそれからだっ!」
「一体いつの間に主導権をおまえが握ってんだ?」
……ガチャン。
ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー。
「……」
これは。
来るのか来ないのか。どっちなんだ。
答えないまま電話を切ったぞ、恵人。
まぁ、取り敢えず。
仮に恵人が来なかった所で、どっちにしろ円香さんと角香さんは来る訳でして。
えーと、二人との約束は昼過ぎだから……恵人が来るとしても。
「ざっと一時間半、時間が余る訳ですね、これが」
その間どうしよう。
「……もう一度、トライしてみますか」
考えた挙句、出た答えだった。
「うん。まずは、問題を読んでみよう」
設問一。
[A町から60km離れた所にB町があり、現在PはA町に、QはB町に住んでいる。ある日の午前八時、PはB町に向かって毎時14kmの速さで走り始め、Qは午前8時30分にA町に向かって毎時16kmの速さで走り始めた所、2人はA町とB町の間にあるC地点で出会った。この時PとQが出会った時刻を求めよ]
ちなみに先生、解答はくれません。全員一斉に授業中採点です。
そりゃ不正行為は出来ないけれど。
プレッシャー増大大大大大!!!
……万一半分以上間違うと、先生と二人っきりの楽しい(、、、)補習が待っている。
しかし……だな。あたしだって、テストの成績は学年で半分以上には入っている。そのあたしでさえこんなに苦労してるってのに、恵人大丈夫なんだろうか。
「てか、案外その事で泣き付かれたのかもしれないっすね」
これでいいや。自己解決自己解決。
宿題……いいや。菱口姉妹を待とう。
机の上に置かれた時計を何気なく眺める。
只今の時刻、午前八時四十八分。
……それから十五分後、午前九時を過ぎた。
…………それから更に三十分後、午前九時半を過ぎた。
「んなこた分かってる」
我が家にタイムマシンはありません。
「あーあ、暇だなぁ」
呟いて、うつ伏せに寝転がる。このまま寝てしまいたいが、それをするといつ目ざめるかが分からない。さてさて、どうしよう。このクソ暑い時期に。
『……しゅくだい、やればいいじゃないですか』
頭上からの声。機械で合成した、人工的な男性の声。
「レイム?充電終わったんだ」
言いながら、半身を起こす。あたしの前に正座しているどう見てもそこらの純粋な高校生の兄ちゃんは、機械の合成音で答えた。
『おわりましたよ。これでいっかげつはだいじょうぶです。けど、やっぱりめんどうですね。じゅうでんにまるいちにちもかかるなんて』
苦笑するレイム。この仕草だけを見て、どこの誰がアンドロイドだと見破れるだろうか。
そのせいで、町内の噂であたしには兄貴がいる事になっている。そうでなければ恋人だ。
「レイムあんたさ、体内で原子力発電とか出来ないの?人工知能入ってるくせに」
『あぶないですよ。なつねさんが、ぼくのせいでびょうきになっちゃったらどうしようもないです』
「そりゃそうだけどさ」
ちなみに、見た目は高校生だからと言って知能が比例している訳ではありません。正直言って、あたしよりは馬鹿だ。まぁ、基本、家事専門だからね。
父、拍軸鈴夢。
母、入海涼風。
あたしの両親は、あたしが生まれて直ぐに離婚した。あたしはお母さんに引き取られたけど、そのお母さんはあたしが九歳の時に癌がもとで亡くなった。故に、あたしは一人暮らし五年目。アパートを離れ、今は一軒家に引っ越している。レイムは、その後開発者として働いているお父さんが作ってくれたものだ。人間に限りなく近い人工知能としての最高傑作らしい。その前はクローン培養実験をやっていたけど、ある失敗を機にそれから手を引いた。失敗に付いては、実の娘であるあたしにさえ語ってくれない。
「でも、レイムのおかげであたしは随分楽をさせてもらってるから良いとするか」
いつの間にか、レイムはいなくなっていた。直後、台所から怒鳴り声。
『なつねさん!なんですかこのしょっきのやまは!ぼくがやるからといってほったらかしにしないでくださいよ!もう、じぶんであらえるんだからやってくださいよいっかげつにいちどくらい………っ……う、うわぁー!ご、ごきぶりがいるっ!』
あーあ。遂に出たかゴッキー。
宿題をぼんやりと眺めながら、あたしは欠伸を一つする。レイムにはお構いなしだ。
時計が時を刻んでいる。
秒針の音が、やけに鮮明に聞こえる。
瞼が自然と落ちて来て、あたしは眠りに落ちていった。