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短編集~現代もの

赤い糸は猫に繋がっている

作者: 夏澄

赤い糸が繋ぐ絆の話。


 その陽だまりに包まれた家には老婆と年老いた猫が暮らしていた。


 老婆に子は無く、その広い家に住む者も一人と猫一匹きりであった。住人は彼らだけであったが、陽だまりに包まれているかのような暖かい空気がそこには漂っていた。

 いつも猫を膝に乗せて縁側に座り、華やかではないが綺麗に植えられた花咲く庭を見ながら茶を飲むことが彼女の習慣となっていた。

 木製の門扉は日中は開かれており、前を通りかかる近所の主婦や郵便配達員に対して老婆はにこやかに挨拶を交わした。彼女にとって近隣の住人は子であった。学校帰りの子供達は孫であった。猫はその膝の上でまどろみ、気が向けば彼らににゃあと鳴いて返した。


 老婆は誰にも教えていない不思議な目を持っていた。

 糸が見えるのだ。恋に憧れる少女なら羨むような左手の薬指に繋がる赤い糸が。

 ただし自分だけの。

 他人の指に繋がるそれが見えたなら助言を与えることもできたかもしれない。けれど見える糸は自分のものだけなので、それが見えることを他人に教えることは最後までしなかった。

 その糸は鮮やかな赤をした光の糸だった。三ミリほどの太さのそれはたわんで揺れて、だが不思議と日常動作の邪魔をすることなく流れていた。ふた結びで括り付けられたそれは何をしようと解けることも指から外れることもなく繋がっていた。

 それは今も繋がって、赤く光を放って揺れていた。

 繋がる先は飼い猫の左前足。赤い糸が見えるのか見えないのか、猫は繋がったそれを気にすることもなく、器用に左前足でゴシゴシと顔を撫でた。

 

 その赤い糸は伸び縮みができるようだった。

 ネコが気まぐれに遠くに散歩に出掛けても、糸は千切れることもなくゆるやかに伸びるのだった。ネコが戻ってくると、どういう仕掛けか糸は長さを縮めて揺れた。

 初めて出会ったときこそ驚いたものの、今となっては運命の相手がこの猫であることに老婆は誇りを持っていた。人と結ばれずとも、長い時をこの猫は共に生きてくれた。それだけで十分だ。

「赤い糸がお前に繋がっているのもまた運命なんだろうね」

 猫の頭を優しくさすると、ゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細めるのだった。




 それは冬のことだった。

 厚い灰色の雲が空を覆い隠し、冷気が大地に凍てつく風を送っていた。平生より強い風に、木の天井が軋んだ悲鳴を上げていた。

 穏やかに眠るように老婆は息を引き取った。老衰だった。

 炬燵にあたり、うとうととまどろみながら猫を撫でていた手がやがて止まった。猫が髭をピクンと震わせて老婆を見上げる。

 二人を繋いでいた糸が切れていた。赤い糸の鮮やかな光りは輝きを失い、黒くくすんだ赤に変わっていた。


 猫をおいて人のうちで初めに彼女を見つけたのは、定期的にこの家を訪れる食事宅配サービス業者の人間だった。それは庭を整えるだけの体力はあっても、重たい食事の買い物ができるだけの体力を失っていた老婆が契約していた業者だった。

 すぐに担当の在宅医が呼ばれ、その日の夕刻には親戚が駆けつけて葬儀の準備が執り行われた。

 彼女を慕っていた近隣の住人も慌てて喪服を取り出して老婆宅へ詰め掛けた。この年齢の一人暮らしの老人の葬式としては多くの人間が弔問に訪れた。

 陽だまりに包まれていた家は色を失い、人々の老婆を惜しむ悲しみの声に満ちていた。

 そこに老婆の飼い猫の姿はなかった。


 深夜、老婆宅の濃紺の瓦屋根の上。

 雪がしんしんと家々に白い布団を掛けていく中、老いた猫が空を見上げていた。猫はじっと空中を見つめている。顔の前にはふよふよと漂う淡い光が浮かんでいた。

 猫の左腕に括りつけられたくすんだ赤い糸が何度もそのビー玉サイズの光に向かって糸を伸ばす。けれど赤い糸がその光に触れても繋がることはなく、やがて諦めたように糸は下に落ちた。 

 猫が糸の代わりというように光に額を寄せる。目を細めて何度も擦り寄った。しばらくそうしているうちに雪は粒の大きさを増していった。静寂が深くなっていき、丸い背に白が溜まっていく。

 じっと動きを止めた猫はまるで屋根の上の置物と化していた。このまま猫の姿の雪の塊ができてしまうのではないかという頃になって、光が猫の周囲をくるくると回りだした。

 そのまま三、四度と周囲を回ると、光は空高くへと昇っていった。

 

 にゃあ

  

 猫の鳴き声が真白の雪の綿に吸収されて闇夜に消えた。


 ※ ※ ※


 年が明けて春。

 一組の若い夫婦が老婆宅に越してきた。

 老婆の遠縁に当たる夫婦だった。親戚ということで、格安の値段でここを譲り受けたのだ。

 妻には子が宿っていた。妊娠二ヶ月。越してくる前に産婦人科で受けた検査にて判明した事実だった。

 その腹からは鮮やかな赤い糸が伸びていた。長く伸びるそれに、しかし誰も気付く様子はなかった。糸は庭の植木の下まで伸びていた。植木の根元で老いた猫がふあぁとあくびをする。その左腕に括りつけられた糸にそれは繋がっていた。


 数ヵ月後の年末、予定より少しばかり早いが珠のような赤ん坊が産声をあげた。可愛らしい女の赤ん坊だった。あの赤い糸はその小さな左の薬指にしっかりと括りつけられていた。


 そしてまた春が巡り、少しずつ赤ん坊に表情というものが宿るようになった頃――、

 赤ん坊は時折きゃっきゃと笑い声をあげるようになった。それはたいてい何も無い左手を見ているときだった。

 母親は、大人には見えないものがこの新しく生を受けた我が子には見えるのだろうと微笑ましくそれを見守った。実際には赤い糸がふよふよと動いていたのだが、赤ん坊の母親だからといってそれを見ることができるわけではないようだった。


 ある日のこと、縁側で日向ぼっこをしながら赤ん坊が左手の赤い糸と戯れていた。赤ん坊の母親は洗濯物を干していて傍にいなかった。

 老いた猫がぴょんと縁側に乗り上げて赤ん坊に擦り寄っていった。寄ってきた猫に赤ん坊は「あー、うー」と声をあげて出迎えた。猫が鼻先をその柔らかな頬に付けると、赤ん坊はまた声をあげて喜んだ。

 全てが生命の輝きの色を放つ中、赤い糸だけはくすんだ色を放っていた。赤い糸はその輝きを失いつつあった。太さも細くなり、糸の中間などは特に細く、蜘蛛の糸ほどになっていた。


 にゃあ


 一声鳴くと、猫はすっと彼女の傍を離れた。塀の上に飛び乗った老猫が赤ん坊を見下ろす。赤ん坊はそれに声をあげずに静かに涙を落とした。

「あらあら」

 洗濯物を干し終え、様子を見に来た母親がその涙を柔らかなガーゼのハンカチで拭い取る。赤ん坊の頬を伝う涙は乾いたハンカチをじわりと濡らした。

 目蓋を覆ったハンカチが通り過ぎた後には、塀の上の猫の姿は消えてなくなっていた。

 



 猫はのんびりとした足取りで山林を目指した。

 流れる小川のせせらぎをぴょんと飛び越え、さらに奥へと分け入って行く。

 誰にも見つからないような木々の隙間を見つけると、猫はその隙間に入り込み身を丸くしてうずくまった。

 尻尾を一振りすると猫は動きを止めた。筋肉が固まり体が堅くなった。熱の産生が止まり、体温は急速に下がっていった。左腕の糸が完全に色を失い、黒くくすんだ赤に変わっていく。

 やがて自己の消化酵素によって内臓が分解され始めた。猫は穏やかに土へと返っていく。蛆が発生し、ハエが死骸の周りを羽音をさせて飛び交った。バクテリアにより組織が破壊され肉の原型は崩れていった。

 最後には白い骨が地面に残った。

 穴の開いたからっぽの眼窩が向く先には、あの濃紺の瓦屋根の家が建っていた。

 幾度目の夜を迎えたときだっただろうか。地面に白く横たわる骨の中から、ビー玉サイズの白い光が浮かびあがった。

 それはふよふよと空中を漂い、まっすぐに濃紺の瓦屋根の家へと向かっていく。

 帰宅の途へつく塾帰りの子供はそれを見て「お化けだ」と言った。その隣を歩いていた姉は「季節はずれの蛍だ」と指を指して言った。

 光は濃紺の瓦屋根の家の壁を抜けて寝室へと侵入した。

 眠っていた赤ん坊がパチリと目を開けて「あー、うー」とそれへ手を伸ばす。左指の赤黒い糸が再び繋がろうと浮かんだが、光はそれを避けるように赤ん坊の頭上を数度旋回すると天井を突き抜けて空へと昇っていった。

 赤ん坊の頬を一筋の涙が伝い落ち、赤ん坊の頭にあてがわれた低い肌触りの良い枕を濡らした。

 糸はしばらく空中を漂い、名残惜しそうに下に落ちた。


 ※ ※ ※


 アサギは縁側で二つ折りにした座布団を枕に丸くなって眠るのが好きだった。

 昨日から春休みに入っている。縁側でまどろむには良い季節だった。

 春休みが終われば小学四年生に進級する。

 園芸が趣味の母親の手によって綺麗に咲いた花々の匂いを風が運んでくる。春の香りだ。

 風に揺れて左指に結ばれた赤い糸がそよぐ。それはすぐにちぎれてしまいそうなほど細く、かろうじて赤と判別できるくらいにくすんだ黒い赤色をしていた。糸はアサギにだけ見ることができて、他の人間には見ることができないようだった。幼いころはそれが哀しかったが、今では自分の瞳だけに映るささやかな幻覚だと受け入れていた。

 糸は三十センチくらいで切れていて、時折繋がる先を探すように空中に浮かんでは下に流れた。


 今日も座布団を持ち出し、縁側で丸くなって目を閉じる。

 家の前を自転車がチリンとベルを鳴らして通り過ぎた。どこからか廃品回収のトラックが町内を周回するアナウンスとエンジン音が聞こえてきていた。昼食の片づけをする母親の食器をカチャカチャと水切りに置く音が台所から鳴っている。

 穏やかな午後だった。

 暖かい春の陽光が降り注ぐ中、モンシロチョウが蜜を求めて花に舞い降りた。

 誰かが木製の門扉からこちらを見ている気配がした。けれどあまりの夢の居心地の良さに目を開ける気になれない。しばらくこちらを見つめた後、その視線の主は軽い足音で土を踏みながら近付いてきた。

 口吻を伸ばしていたチョウが羽をひるがえして塀を軽やかに飛び越えていく。


 浅い眠りから覚めかけてピクピクと動く目蓋。


 にゃあ

 

 子猫の鳴き声が耳をくすぐった。

 目を開けたかったが、驚いた猫が逃げてしまってはいけないと思い目を閉じ続けた。

 足音はすぐに遠ざかっていった。

 そのとき、左手の薬指がピンと引っ張られる感覚がした。

 短い糸が何かに引っかかったことはこれまでになく、目を開けてみてみれば、三十センチ程だった糸が長さを増して伸びていた。さっきまで細く短かった糸は、太さを増し、色も目に鮮やかな赤に変わっていた。それは門扉を通り抜け、外まで繋がっているようだった。

 試しに左手を後ろに引いてみる。

 つんのめるかと思われた糸は、滑らかに長さを伸ばした。糸の切れ端がこちらに返ってくることはなかった。


 ふと顔を下に向けると、二つ折りにして枕代わりにしていた座布団の横に一輪の白い花が置かれているのを見つけた。白い花は陽光を受けてキラキラと光っているように見えた。

「お母さん、花瓶ちょうだい!」

 家には大振りの花瓶しかなかったので、代わりに透明なガラスのコップをもらい中に水を満たして花を挿した。

 つんと突いてふふっと笑う。

 夜はそれを机の端に置いて春休みの宿題をした。思いのほかはかどった。


 その日を境に縁側で丸まって寝ていると、時々花が置かれるようになった。

 世界の色は濃くなって目に入ってくるようになった。特にまどろみの淵で傍に置かれる花は、他のものより色濃く綺麗に目に映った。

 新学期が始まってからは、夕刻に縁側で丸くなって寝るようになった。春休み中は昼頃に縁側に来ていたが、時間を夕刻に変えてからも花の贈り物は続いた。

 三度に一度はどこにも花が無いときがあり、そんなときは少しだけ寂しいと感じた。

 一度、寝返りを打った拍子に花が地面に落ちていたときがあった。目覚めてすぐに花が無いことを残念に思い下に落ちていた花に目が行ったときは、寂しいと感じていた自分の気持ちが簡単に反転したことに笑みがこぼれたものだ。

 その花も花瓶代わりのガラスのコップに挿して眺めた。

 

 近付く気配に目を開けたことはない。

 アサギにとって花の送り主と過ごす時間はほんの一瞬のこと。けれどその身をくすぐるような淡い時間が崩れてしまいそうで、気配を感じても目を開けることはしなかった。

 赤い糸の先を探すこともしたことはなかった。向こうから会いにきてくれるというのに、わざわざ探しに行くのも無粋な気がしてためらわれた。




 ある日、夕食に醤油がきれているので買ってきてほしいと母親にお使いを頼まれた。商店街はアサギの足で歩いて十五分のところにある。

 その道すがら、住宅が並ぶ中、一つの民家に糸の先が繋がっていることに気が付いた。

(意外と近くにいたんだ)

 それが素直な感想だった。

「こんにちは」

 明るい色合いの庭にホースで水を撒く女性と目が合ったので声を掛ける。

 糸の先は女性の足元の後ろに繋がっていた。顔は隠れていたが、小さな耳が隙間から覗いていた。

 そっけない態度でも、こちらが気になっている様子にふふっと笑うと、女性が後ろの小さな頭をそっと撫でた。

「ユウと言うの。仲良くしてあげてね」

「かわいいですね」

 思った通りの感想を述べたのに、つんとそっぽを向かれてしまった。アサギが見ていることが気に食わなかったのかぶんと首を振るので、頭の上の柔らかそうな手が振り払われた。そのまま家の奥へと駆け込んでいく姿を見送る。

「あっ、こらユウ。逃げるな!」

 女性が腰に手を当てて声をあげた。

「あれであなたのことが好きなのよ」

 耳元で内緒話をするように手を添えて女性が教えてくれた。

「実はいつも花を置いているのはあの子なの」

 こくんと頷いて返した。頬が少しだけ熱くなるのを感じる。

 自分達だけが共有していると思っていた時間を他の人が知っているという事実が気恥ずかしかった。


 その日以降も、うたたねの花の贈り物は続いた。

 慣れてきた花の贈り主が時折アサギの頬を突くこともあった。小さな手でつんつんと突かれると、泣きそうなほど嬉しく感じる。人は嬉しくても涙が出るのだと、初めて知った。


 たった一度だけ、頬に鼻先を近付けてきた贈り主の唇が触れたことがある。甘いミルクの香りがふわりと香り、頬の表面が優しく押された。

「んっ」

 みじろぎをしたアサギに驚いたのか、飛ぶように後ずさって走って逃げていく。土が音を立てて跳ねていった。

 木製の門扉の傍に転がる一輪の花を拾い上げて、アサギはそっと口づけを落とした。  


 ※ ※ ※


 初夏。

 少しずつ緑が濃くなり、縁側でうたたねをするにも日差しが目に痛くなってきた。

 最近は物騒な事件が多いらしい。

 学区内では空き家への放火が数件起こり、隣の学区ではコンビニ強盗が発生したとテレビの報道番組で取り上げていたと父親が話していた。どちらもすぐに犯人は掴まったらしい。母親がご飯を茶碗に盛りつつ、「最近は物騒ねぇ」とぼやくのに、アサギはガラスのコップの中の花を気にしながら「そうだね」と心ここに非ずの生返事をした。

 ここのところ縁側でまどろんでいても花が置かれていない。コップの中の花も萎れていたが、新しい花が来るまでは、と挿したままにしていた。

 指でガラスをはじく。ガラス特有のキィンという音が澄んだ響きをもって空気を震わせた。




 最近の重なる事件を背景にか、アサギの学校では全校集会が行われた。

 校長がテカテカと薄い額を光らせながら子供達に話し掛ける。

 この学区を含む周囲の地域で子供が行方不明になる事件が相次いでいるらしい。幸いと言うべきか、アサギの小学校では起こっていないが、山間に近い小学校に通う児童の行方が一週間前から分からなくなっていると校長が話をしていた。

 話は続き、知らない人には付いていかないこと、一人きりで行動しないことなどの注意事項へ移っていたけれど、アサギは話に集中できずにいた。

 左指の糸の光が薄くなっているような気がして、校長の長い話に耳は貸せてもその話を飲み込むまでは出来ないでいた。太さも少し細くなっているように感じられて、話の内容よりも糸の変化の方に気を取られてしまっていた。気のせいであってほしいと、アサギは右手で左手を握りこむ。力を込めても、糸の光が強くなることはなかった。

 帰りは大事を取って集団下校となった。


「ユウが昨日からいないの」


 集団下校となったその日の夕方、母親と商店街へ買い物へ行った帰りにそう話しかけられた。

 女性の話によると、一昨日は体調を崩していて家の中に閉じ込めていたと言う。昨日は全快とまではいかないが体調が良くなったので夕刻に少しだけならと家を出ることを許可したのだそうだ。女性の庭の花を持って家を出て、それから家に戻っていないのだと女性は意気消沈した声で話してくれた。

「あなたの家に行かなかった?」

 そう尋ねられたが、昨日は花は置かれていなかったし近付いてくる気配も感じなかったと答えると、女性は項垂れて家の中へと入って行った。

 左手を見る。

 糸は女性の家の中へは続いていなかった。


 ※ ※ ※


――庭のきれいな花をもらった。あの子の家まで駆け足。昨日は行けなかった。走って行く。きっとまた寝てる。


 息がはずむ。いつもより疲れやすく感じたけれど、心は躍っていた。


――角を曲がった。あと少し。早く会いたい。でも、花を置いたらすぐ帰らないと。少し残念。


 木造の民家まであとちょっとの距離というところになって、日の光が遮られた。大きな手が視界を塞いだ。


――黒い影が邪魔をする。邪魔。どいて。離してっ。


 アサギはハッと息を呑んで布団から飛び起きた。


「糸が……」


 翌日、目が覚めてから見た糸は昨日よりも色あせてくすんだ赤に変わっていた。太さもより細くなっている。

 布団を出て障子を開ける。外は明るく、朝鳴きの小鳥のさえずりがチチチと木の葉の陰から聞こえてきた。左手をぐっと握りこみ、目を閉じてふーっと深く息を吐いた。


 アサギは出発の準備を始めた。

 ランドセルに入れていた教科書やノートを全て取り出して棚に押し込んだ。代わりに買い置きのお菓子とタオル、お茶を入れた水筒を詰め込んだ。

 初夏といえど朝方はまだ寒いので、学校指定のカーディガンをブラウスの上に羽織る。

 そしていつも履いているスニーカーの紐をしっかりと括りなおし、

「行ってきます」

 何食わぬ顔で家を出た。


 糸は学校とは正反対の方向に向かっていた。

 住宅地を抜け、商店街を通っていく。商店街はまだ開店時間ではなかったので、シャッターは下りたままだった。そのため、知り合いの八百屋や魚屋の店主に見咎められずにこそこそと隠れながら進まずに済んだ。

 学区を越えると、アサギの学校とは違う制服を纏った子供達と何度かすれ違うことになった。「どこの学校の子だろう?」という顔をされても、アサギは素知らぬ顔をしてすれ違った。


 自分の周囲に対する異物感よりも糸の続く先の方が気になっていた。


 一時間も歩いていると、隣接して建っていた家々はまばらになり、田んぼや畑の容積の方が目立つようになってきた。ハウス栽培が行われているビニールハウスの横を通り過ぎる。

 糸はまだ先の方まで伸びているようだった。


 二時間が経つ頃には、初夏の日差しにじわりと汗ばんできたので、羽織っていたカーディガンを脱いで腰に巻きつけた。少し疲れてきた。額に浮かんだ汗をタオルで拭いつつ休憩場所を探した。


 河原の土手に座ってお菓子をかじり、水筒から汲んだ茶を一杯飲む。

 河に架かった橋を渡り向こう岸に着くと、糸はその少し先の小高くなった土の盛り上がりに続いていた。足に力を込めて駆け上がる。

 そこには鉄道の線路が敷かれていた。そう頻繁に電車が通らないのか、軌道のレールは赤錆で覆われ、枕木の間からは緑の草がぼうぼうに生えていた。糸はそれに沿って西へ向かっていた。

 アサギは糸を追って西へと向かった。敷き詰められた小石の感触を足の裏に感じながら、時折レールの上に乗って歩いた。電車が来る気配がすると、脇に避けてそれをやり過ごす。東へ向かう電車が一度、西へ向かう電車が一度アサギの前をガタンゴトンと車体を揺らしながら通り過ぎた。


 そうして歩き始めて四十分が過ぎる頃、糸は小高い丘の線路を逸れてアパートや借家が立ち並ぶ住宅街へと入っていった。  

 住宅街の細い道をくねくねと進む。糸を追って何度も右へ左へ角を曲がりながら歩いていくと、拓けた場所に出た。それは使われていない工場だった。

 正面の金網の鍵は壊れているようで、巻かれたチェーンが緩んで人一人通れるほどの隙間ができている。

 アサギはその隙間をくぐり抜けて工場の敷地内へと侵入した。            

 人のいない工場はところどころ煤けていて、大きな窓ガラスが割れて地面に粉々になって落ちていた。

 ガラスを踏まないように注意して中を覗く。だだっ広い工場内に忘れ去られたようにいくつかのコンテナが放置されていた。そのうちの比較的きれいな一つに糸は繋がっていた。

 両親に安全のためにと持たされている携帯を取り出すと、誰でも知っている簡単な番号を三つプッシュする。拙いながらも必要な事項を口にすると、アサギは持っていた携帯を地面に生えていた草むらの陰に隠した。


 軋む工場の扉を開けて広い建物内に潜り込む。

 糸が繋がるコンテナの傍に近付くと、中からカリカリと爪で壁を引っ掻く音が聞こえてきた。可哀想に。中に入って出られなくなっているようだ。

 扉には真新しい頑丈そうな鍵。

 何度か引っ張ってみたけれど、鍵は開きそうになかった。

 なんとかして鍵を開けなければと後ろを振り返りかけたときだった。


 ガンッ


 体の奥まで響くような鈍い音がぐわんと脳を揺らして、視界が暗転した。


(暗い……)


 どれくらい昏倒していたのか、気が付くと真っ暗な部屋に転がっていた。頭がズキズキと痛む。さっきのコンテナの中にいるのだと思った。目蓋を開けても閉じてもほぼ変わりがない。この部屋の扉なのかわずかな線上の光が一筋壁沿いにあったが、真っ暗な室内を照らし出すほどの光源とはならず、やはり目を開けても閉じても変わらないような気がした。

 自分の他にもひそめたような息遣いを幾つか感じる。みんな怯えているのだと思った。不自由を強いられた今の状況に先の展望が見えない不安に身を縮めているのだ。

 光がないだけでこんなにも不安になるものか。心臓が鼓動を速めていくのを感じた。ドクドクと煩く脈打つ心臓に落ち着けと念じる。知らず右手で左手を握りしめていた。


 淡い光の糸が流れていた。


 色あせた糸は、それでも暗闇に薄く赤く光り奥へと続いていた。予感に胸が震える。

 アサギは消えそうな光を辿って奥へと這って行った。糸は床に沿って続いていた。自分の手足の先も見えない中を動くのはひどく怖ろしかったけれど、薄く頼りない光の糸に繋がる先がここにあるのだということだけがアサギを奮い立たせていた。

(まだ先……)

 床をペタペタと触りながら進む。

(いた)

 どこまでも深遠に続いているように思えた糸が空中で揺れていた。アサギの糸に続く先、ふた括りに結び付けられた糸が小刻みに震えていた。

 やっぱり人は嬉しいときも涙が出るんだ、とアサギは思った。

「おいで」

 怯えさせないように、程良い力加減でその身体を引き寄せる。温かな体温が膝にすり寄ってきた。

 

 遠くパトカーのサイレン音がけたたましく重なり合って近付いてきていた。


 ※ ※ ※


 コンテナの中にはアサギを含め、小学生以下の子供達ばかり計六人が閉じ込められていた。

 警察はアサギの通報からそう時間をおかずに、草陰に隠していた携帯から位置情報を割り出して駆けつけてくれたようだった。

 発見時、どうして遠く離れたこの場所が分かったのかという問いに、アサギは助けられた安心感でぼんやりとする意識の中でこう答えた。

「糸を辿ったんです」

 問い掛けた警察官はその答えに不思議そうに首を傾げていた。

 

 頭を打ち付けられたことで病院に搬送されてから二日が経っていた。

 アサギは頭にグルグルと包帯を巻かれて、病院の四階の一室、個室のベッドに横になっていた。

 病室の窓に掛けられたライトグリーンのカーテンが風にそよぐ。

 外では報道のテレビカメラが押しかけ、アナウンサーがしきりに何かをカメラの向こうの視聴者に向かって話しかけていた。だが四階にある病室までそれが届くはずもなく、引かれたカーテンは容易に外の世界からアサギを隔離した。


 発見された当日に配られた号外には、『お手柄! 探検に出掛けた女子児童が誘拐された子供達を発見。外国人グループ一斉摘発か!?』といった内容の記事が書かれていたらしい。犯人はアジア系の外国人三人組で、背後には巨大な臓器売買グループが関与しているようだと報じられていたようだが、芋づる式に摘発できるかというとその見通しは甘く、捜査は困難を極めるだろうとテレビのコメンテイターが訳知り顔で話していた。

 自分のことが報道されていると言っても、アサギにはそれが実感を伴ったこととして耳に入ってくることはなかった。警察に話した様に、自分は赤い糸の先を探しに行っただけなのだ。探し物が見つかったというだけで、臓器売買だのなんだのという話題は自分にとっては遠い御伽噺の世界のような気がしていた。

 

 昼過ぎには退院だ。

 そよぐ風の気持ち良さに目を閉じる。

 優しい日差しにうとうととまどろんでいると、腰まで掛けていた布団に小さな重みを感じた。手首に包帯を巻いた男の子がアサギのベッドに頭をもたれかけさせてスースーと寝息をたてていた。

 枕元に一輪の花が置かれていた。

 肺炎を起こしかけていたらしいのに、動き回っていいのだろうか。

 それでも自分の傍に来てくれたことが嬉しくて、アサギは口元を笑みの形に変えて緩めた。

 明るい色を取り戻した赤い糸の先は、すこやかな寝息をたてる男の子の左指に繋がっていた。

 左手をその小さな左手に重ねる。

 二人を繋ぐ糸はこれまでで一番短く、色鮮やかに赤く美しい光を放っていた。


 ※ ※ ※


 今日も二つ折りにした座布団を枕に縁側で丸くなる。

 土を踏み近づく気配にアサギは閉じていた目蓋を持ち上げた。





モロバレだろうけど、誰か一人でも最後までユウが猫だと思ってくれていたら嬉しい・・・。


補足:ユウが最初の出会いでにゃあと鳴いたのは、アサギが起きそうになったので猫の鳴き声でごまかそうとしたから。(あえて作中では説明していません)


アサギ(9):老婆からの転生なので、この年代の子供としては落ち着いている。でも思い付いたら即実行に移す行動的な一面もある。


ユウ(5):花を贈ったり、頬チューしたりと結構なおませさん。赤い糸が彼に見えているかは作者にも不明。

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― 新着の感想 ―
[一言] 思いっきり騙されました!笑 ユウちゃんもアサギちゃんもかわいすぎてほっこりしました!
[良い点] 最後の描写まで猫だと思っていました…っ! なんとなく悔しい!笑 どことなく透明感のある素敵な作品だと思います。 とても楽しませてもらいました。 ありがとうございます。
[一言] まだ猫だと思ってた...
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