反乱のあしおと
(逃げろって。クーデターって。さようならって)
さようならって――。
リアネはよろよろした足取りで、やっとの思いで西棟の最上階までたどりついた。使用人棟にもまたたく間に「反乱軍が宮殿に向かっている」という知らせが広がったようで、大荷物を抱えたメイドや下男や各種職人たちが、廊下をばたばた行き交っている。
リアネはアトリエのドアを開ける気力も起きず、廊下の床板にぺたんと膝をついた。
「ちょっとリアネ! なにこんなとこで座りこんでるのよ! あんたもきいたでしょ? 逃げなきゃまずいわよ。巻き添えくらって死ぬわよ!」
向かいの部屋のドアから、メイドをやっている友人のゾエが、巨大な風呂敷包みを引っ張り出していた。
「急いで。持てるもん持って。ほら立ってってば!」
ゾエはリアネに駆け寄って、両手を引いて立たせようとした。
「……ちょっとリアネ、熱いわよ。こんなときに発熱?」
「熱……? どおりでなんかよく転ぶと思った」
「ストーブの薪をケチるから風邪ひくのよ! しょうがないわね、あたしが荷物まとめてあげるわ。最小限いるものは何か、教えてちょうだい」
リアネはゾエに引きずられて、アトリエに入った。
「持っていきたいものは何?」
「画帳……表紙が若草色の」
「ほかは? 服とかは?」
「いやべつに」
「うっそ! ありえないでしょ! かばんか袋かなんかないかしら……きゃっ! 痛っっ!」
がらがっしゃーん!と大きな音を立てて、ゾエはなにかに蹴躓いた。
金色の鳥籠が、絵の具の染みついた床に転がる。中のオウムも籠と一緒に、モノのように転がった。暴れもせずに。
「やだ。死んでる」
気味悪そうに、ゾエが言った。
火事場から逃げ出すねずみのように、下働きの使用人たちがぞろぞろと宮殿を出ていく。彼らに踏みしだかれて、庭園の草花は見るも無残につぶれていた。死んで横たわる蝶のように、地面にはりついたパンジーの花びら。ゾエと並んで逃亡者の流れにいたリアネは、霞む目で薬草園のほうを見た。隅にある薬草園は通路にはならず、無事らしかった。
(よかった……。でも……)
ゼルダス将軍の反乱軍は、王家や取り巻きの高位貴族を根絶やしにする気なのだろうか。
周囲の会話では、反乱軍は四方八方から宮殿を取り囲むように接近してきているという。貴族たちは逃げるべきか正規軍が来るまで籠城したほうがましか決断できずに、右往左往している。
リアネは立ち止った。
「ゾエ、ごめん。わたし、もどる」
「はあ? なに言ってんのよ!」
「心配な人がまだお城にいるの」
「あんたの姉弟子たちなら、さっき逃げてるの見たよ。お師匠さんは恋人がいるでしょ。大丈夫だったら!」
「そうじゃなくって……」
「じゃあ誰よ。まさかその画帳の……きゃっ! 押さないでってば」
ゾエはうしろから来る男たちに、さっさと行け邪魔だとどやされ、巨大な風呂敷包みごと人波に押し流されていった。
「リアネーっ!」
「ゾエーっ! ありがとう! 故郷に遊びに行くよ! また会おうね!」
「また会うどころかあんたの一生、ここで終わっちゃうわよ!」
「平民だから大丈夫!」
「にぶいあんたが大丈夫なわけないでしょ! ばかあぁぁぁぁ」
ばかあぁぁぁぁという声を最後に残して、ゾエの声は喧騒にかき消えた。
リアネは若草色の画帳を抱きしめて、広大な宮殿中心部にそそり立つ、塔をいくつも連ねた城館を見上げた。この豪奢な「王宮」というひとつの街を支えるのに、きっと多くの犠牲が払われてきたのだろう。こんなことが起こるまで、血税を絞りとられてきた民のことなど真剣に考えたことがなかった。リボンやレースで飾られたドレスは着ていなくとも、リアネはリボンやレースで飾られた世界の参加者だった。両親が死んで、絵を描くしか取り柄のなかったリアネが生計を立てる道はこれだけだったとはいえ、宮廷が犯した贅沢という罪に、自分は確実に加担していた。
(わたしは、罰されなきゃいけない側かもしれない)
でも、彼は。
テオドール様は。
王の血を引いている身だとしても、生き残らなければいけない人なのだ。
熱で朦朧とする頭で、リアネは懸命に考えた。反乱軍に対して彼の命乞いをできる一般人は、自分だけかもしれない。自分が描きためてきたこの画帳の絵は、きっと彼の業績を証明し、訴えかけることができる。
「やんなきゃ。風邪に負けてる場合じゃないね」
リアネはふらつく身体を気力で支え、人波に逆らって城館へ向かった。
優雅。ほほえみ。機知に混ざったすこしの辛辣。
それが、カランジェラ宮で最も尊ばれていたもの。王族と高位貴族の人たちは、武力ではなく優雅さですべての上に立っていた。けれど「優雅」はもうじき、「武力」に踏みにじられる。優雅の象徴であった城館は、召使いの集団逃亡でガランとしていた。
人気のない城館に、ときおり動転した貴婦人のヒステリックな叫び声が響く。優雅さなど微塵もない声が、高い天井に吸いこまれてゆく。天井画の天使だけがほほえんでいる。
(夢を見てるみたい)
熱で頭もぼうっとするし、足も鉛みたいに重い。こんな夢を見たことがある気がする。
けれど夢ではない証拠に、テオドールの研究室の前には彼の従者であるセロがいて……
(いや、やっぱり夢? 夢でしょこの彼にそぐわない道具)
主人よりずっと優雅さで勝るセロが、きこりが持つような無骨な大斧を構えて、今まさにドアを破ろうとしている。
「セロさん! どうしたんですか」
「リアネ。いいところに」
「テオドール様は……」
「テオドール様! リアネが来ましたよ。まだ彼女逃げてないんですねぇ、あなたが心配してやまないリアネはまだここにいるんですねぇ、どうします反乱軍はあらくれの傭兵も混じってるってうわさですよ、なのにこんなかよわい乙女が残ったまま! どさくさまぎれに彼らは美術工芸品の掠奪もするでしょうけど、乙女だって彼らにとっては素敵な御馳走かも」
ドアがいきなり開く。セロは猫のように器用に、外開きのドアをよけた。
「リアネだめだ、はやく城を出て――」
テオドールが言いきらないうちに、セロは主人の背後に回りこみ、背中から彼を羽交い締めにした。
「あっ、くそっ」
「セロさん、どういうこと……」
「自害しようとしてたんですよ、この馬鹿王子は。勘弁してください、主人に死なれたら私の名折れです」
セロは研究室の中をひょいとのぞきこんだ。
「……首つりですか。私はてっきり毒杯をあおぐかと」
「薬を命を奪う道具にしたくない」
「縄だって自害の道具になりたくないと思います。さあ逃げますよ」
「僕はだめだ! 僕が生きてたら国の混乱がますます大きくなる!」
「反乱がどう転ぶかなんてまだわかりませんよ」
「僕は九歳のときに死んでおくべきだったんだ、あの病で」
「でも死ななかったんだからここも是非生きといてください。ぐだぐだ言ってないで逃げますよ。あなたの愛しのリアネと一緒に」
「愛しって……わっ、ぎゃっ、リアネちがっ……。あれ、リアネ? リアネ!」
リアネはぐったりとその場に横たわっていた。早い呼吸に、尋常でない高熱。
意識はない。
リアネの顔や手にうっすらと浮き上がる赤黒い斑点を目にしたテオドールは、セロの手をふりほどいて彼女に駆け寄った。追って近寄ろうとするセロを、いつものテオドールとはまるでちがう厳しい身ぶりで止める。
「セロ」
「なんでしょう」
「自害も逃走も中止。リアネを隔離する」