4 冷たい現実
病院の白い廊下。
カーテンの向こう。
低い声。
「……残念ですが……」
それだけで、十分だった。医師の腕を掴む。
「……どういうことですか? さっきまで普通に……」
「落ち着いてください」
「原因は? 何が起きたんですか……彼女はさっきまで料理をして笑っていたんだ」
医師は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。
「ご家族の方は?」
「……いません。玲奈の両親は、大学の頃に亡くなっています。一人っ子で、天涯孤独の身でした。来年、僕たちは籍を入れるつもりでした」
そう伝えると、医師は一瞬だけ言葉に詰まり、小さく息を吐いた。
「……申し訳ありません。現時点でお話しできるのは、限られています」
「お願いしますよ。教えてください」
しばらく沈黙が落ちる。やがて医師は、静かに問いかけた。
「今日、転倒したり、頭を強く打った覚えはありませんか?」
医師の問いに、僕は一瞬、言葉を失った。
「……コンサートに行く前に、自転車とぶつかって……転びました」
そう答えると、医師は小さく頷いた。
「あぁ……多分、それですね」
その声は淡々としていて、感情は読み取れない。
「その時は軽く見えても、頭部への衝撃は、あとから症状が出ることがあります。特に……」
言葉を区切り、医師は続ける。
「時間が経ってから、急激に状態が悪化するケースも、珍しくありません」
僕の喉が、ひくりと鳴った。
「……すぐに医者に診せていれば助かった可能性は、あったということですか?」
自分の声が、ひどく遠く感じられた。
医師は、すぐには答えなかった。ほんの数秒だったはずなのに、その沈黙はやけに長く感じられた。
「……確実に、とは言えません。ですが、可能性は……あったでしょうね」
やがて、慎重な口調でそう言った。
それ以上の言葉はなかった。慰めも、断定もない。ただ、事実だけが、静かに置かれた。
――ああ、そうか。
そこまでの記憶を受け取った瞬間、点だった出来事が一本の線につながった。玲奈はもう、とっくにこの世からいなくなっていたのだ。僕が、もっと強く言っていれば。彼女の「大丈夫」を、そのまま受け取らず、病院へ連れて行っていれば。説き伏せてでも、後から恨まれようとも、連れて行ってさえいれば……
費用のことなら、なにも問題はなかった。週末でも診てくれる病院を探すことも、検査や最善の治療を受けさせることもできたはずだった。それなのに、僕は彼女の願いを尊重したつもりで、最悪の選択肢を選んでしまった。
(コンサートなんて、命があれば、またいくらでも連れて行ってあげられたのに……)
「また一緒に行こう」と言った、その“また”が、こんなにも遠い言葉になるなんて、考えもしなかった。
亡くならないで済んだかもしれない命。
その可能性がほんのわずかでもあったということが、胸の奥に静かに、しかし確かに突き刺さる。取り返しのつかない選択だったのだと、あのとき受けた衝撃に、僕は耐えきれなかった。
――だから、記憶を預けた。
すっかり忘れてしまえば、生きられると思ったのだ。あれから十年が経った。そして今、記憶を取り戻した僕は、奇妙な安堵を覚えていた。
もう、玲奈が歯医者の予約を忘れていないかと気を揉むこともない。
詐欺メールに騙されていやしないかと、心配することもない。
自分が嫌われたのではないか、何か決定的なことをして振られたのではないか。
そんなふうに、自分を責め続ける必要も、もうない。
悲しみが消えたわけじゃない。
後悔が薄れたわけでもない。
だが、十年のあいだ、彼女を案じ続けることで擦り切れていた心が、ほんの少しだけ、息をつける場所を見つけた気がした。
外に出ると、夕焼けが街をゆっくりと染めていた。
低い雲の縁が、橙色に染まり、ビルの影が長く伸びる。
一日の終わりを告げる光は、やけに静かで、やけに綺麗だった。
玲奈の笑顔を思い浮かべ、マンションに帰る。
胸の奥の痛みは、相変わらずそこにある。
それでも今日は、なぜか――眠れない夜が、少しだけ短くなりそうな気がした。




