表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しすぎた選択  作者: 青空一夏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/4

4 冷たい現実

 病院の白い廊下。

 カーテンの向こう。

 低い声。


「……残念ですが……」


 それだけで、十分だった。医師の腕を掴む。


「……どういうことですか? さっきまで普通に……」

「落ち着いてください」

「原因は? 何が起きたんですか……彼女はさっきまで料理をして笑っていたんだ」


 医師は一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。


「ご家族の方は?」

「……いません。玲奈の両親は、大学の頃に亡くなっています。一人っ子で、天涯孤独の身でした。来年、僕たちは籍を入れるつもりでした」


 そう伝えると、医師は一瞬だけ言葉に詰まり、小さく息を吐いた。


「……申し訳ありません。現時点でお話しできるのは、限られています」

「お願いしますよ。教えてください」


 しばらく沈黙が落ちる。やがて医師は、静かに問いかけた。


「今日、転倒したり、頭を強く打った覚えはありませんか?」


 医師の問いに、僕は一瞬、言葉を失った。


「……コンサートに行く前に、自転車とぶつかって……転びました」

 

 そう答えると、医師は小さく頷いた。


「あぁ……多分、それですね」


 その声は淡々としていて、感情は読み取れない。


「その時は軽く見えても、頭部への衝撃は、あとから症状が出ることがあります。特に……」

 言葉を区切り、医師は続ける。

「時間が経ってから、急激に状態が悪化するケースも、珍しくありません」


 僕の喉が、ひくりと鳴った。

「……すぐに医者に診せていれば助かった可能性は、あったということですか?」

 自分の声が、ひどく遠く感じられた。


 医師は、すぐには答えなかった。ほんの数秒だったはずなのに、その沈黙はやけに長く感じられた。

「……確実に、とは言えません。ですが、可能性は……あったでしょうね」

 やがて、慎重な口調でそう言った。


 それ以上の言葉はなかった。慰めも、断定もない。ただ、事実だけが、静かに置かれた。



 ――ああ、そうか。


 そこまでの記憶を受け取った瞬間、点だった出来事が一本の線につながった。玲奈はもう、とっくにこの世からいなくなっていたのだ。僕が、もっと強く言っていれば。彼女の「大丈夫」を、そのまま受け取らず、病院へ連れて行っていれば。説き伏せてでも、後から恨まれようとも、連れて行ってさえいれば……


 費用のことなら、なにも問題はなかった。週末でも診てくれる病院を探すことも、検査や最善の治療を受けさせることもできたはずだった。それなのに、僕は彼女の願いを尊重したつもりで、最悪の選択肢を選んでしまった。


(コンサートなんて、命があれば、またいくらでも連れて行ってあげられたのに……)


「また一緒に行こう」と言った、その“また”が、こんなにも遠い言葉になるなんて、考えもしなかった。


 亡くならないで済んだかもしれない命。


 その可能性がほんのわずかでもあったということが、胸の奥に静かに、しかし確かに突き刺さる。取り返しのつかない選択だったのだと、あのとき受けた衝撃に、僕は耐えきれなかった。


 ――だから、記憶を預けた。


 すっかり忘れてしまえば、生きられると思ったのだ。あれから十年が経った。そして今、記憶を取り戻した僕は、奇妙な安堵を覚えていた。


 もう、玲奈が歯医者の予約を忘れていないかと気を揉むこともない。

 詐欺メールに騙されていやしないかと、心配することもない。

 自分が嫌われたのではないか、何か決定的なことをして振られたのではないか。

 そんなふうに、自分を責め続ける必要も、もうない。


 悲しみが消えたわけじゃない。

 後悔が薄れたわけでもない。


 だが、十年のあいだ、彼女を案じ続けることで擦り切れていた心が、ほんの少しだけ、息をつける場所を見つけた気がした。


 外に出ると、夕焼けが街をゆっくりと染めていた。

 低い雲の縁が、橙色に染まり、ビルの影が長く伸びる。

 一日の終わりを告げる光は、やけに静かで、やけに綺麗だった。


 玲奈の笑顔を思い浮かべ、マンションに帰る。

 胸の奥の痛みは、相変わらずそこにある。


 それでも今日は、なぜか――眠れない夜が、少しだけ短くなりそうな気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ