2 玲奈が消えた
玲奈はそれっきり僕の前から姿を消した。今も、部屋の様子は何一つ変わっていない。ソファの位置も棚に並んだ本も食器棚の中身も、当時のままだ。違うのは、そこにいたはずの玲奈だけがいないこと。
朝になると無意識に二人分のマグカップを出しそうになり、使われないままの歯ブラシが洗面台の隅に残っていることに気づく。習慣だけが、行き場を失って部屋に留まっていた。
あれ以来、頻繁にスマホを覗くことが増えた。もしかしたら、玲奈から連絡が来ているのではないか、と期待した。
夜、風呂上がり。何も通知が来ていないのに画面を開く。LINEを開いて最後の会話を確認する。コンサートの前日以来、更新されることのない会話。
LINEのアイコンはそのまま十年変わらない。今でもたまに、既読にならないのを知っていて送ってしまう。
(玲奈から嫌われてしまう決定的なことをしてしまったんだろうか?)
身に覚えは少しもなくて、玲奈のことを考えると、まるで出口のない迷路に迷い込んだように頭を抱えてしまう。
何の気なしに指で画面を滑らせていると、同級生たちの投稿が流れてくる。赤ちゃんを抱いた写真だった。
「家族が増えました」
短い言葉と、笑顔。画面を閉じても、その輝くような笑顔が残る。彼らは、ちゃんと先に進んでいる。玲奈ならこう言っただろうな。
「かわいいわね。このぷくぷくしたほっぺを触りたくなっちゃう」とか。
僕の記憶の中の玲奈は、明るくて子供好きで、物事を深く考えない。歯医者の予約をよく忘れてペロリと舌を出す。
「まあ、なんとかなるでしょ。電話して予約を取り直せば大丈夫よね」
僕がきっちりしすぎているところもあって、彼女のゆったりしたところが癒しだった。
(今はちゃんと予約を守っているんだろうか?)
同棲していた頃は、よくスマホを僕に見せて困った顔をした。
「ねえ、これ見て。なにか私、買ったっけ? 覚えがないんだけど……」
差し出された画面には《重要なお知らせ》《至急ご確認ください》――そんな言葉が並んでいた。
「なにか……怖いわね。支払いがどうとか書いてあるんだけど……あとね、アマゾンから買った覚えがない荷物が……」
玲奈は眉をひそめながらも、本気で心配している。
僕は画面を一目見て、ゆっくりと首を振った。
「それ、典型的な詐欺だよ。触らない方がいい」
「え、そうなの?」
「ほら、差出人のアドレス。公式じゃないし、文面も雑だろ? 日本語がおかしいじゃないか」
そう言って指で示すと、玲奈は画面をもう一度見直した。
「……あら、ほんとだわ。全然気づかなかった」
「こういうのは、焦らせて考えさせないのが手口なんだよ」
「なるほど……怖い世の中ね」
玲奈は感心したように頷いてから、少し照れたように笑った。
「やっぱり、こういうのは海斗に相談するに限るわね」
何事もなかったように、建築家がモダンデザインについて静かに語る動画を見始めた。僕は内心で、ほっと息をついた。どこか危ういところがある彼女だから、自分が守ってあげないと、と思う。
彼女はいつも僕を頼る。それが当たり前だと思っていたし、幸せだった。過去の何気ない日常の日々が僕の心を締め付ける。




