第2話 雨の共犯
大鍋の蓋を開け、一混ぜしてから味を確認し、アリーシャは頷いた。
味は問題無し、疲労回復の効果が高い食材をふんだんに使ったスープは、食欲が無くとも食べやすいだろう。本当は肉に合わせて食べて欲しいところであったが、屋敷の主人はこのところ酷く疲れていることが多い。
「次はもっと、それこそ形が無くなるまで煮込んでみるか……骨の方からも栄養が取れると聞きますね。昨日仕入れた香草と合わせて……ああ、パンに練り込んでも良さそうです」
ぶつぶつと呟いていたところに、他の給仕が厨房に入って来る。もうそんな時間かと、アリーシャは大鍋の火を落とした。
アリーシャが屋敷に侍女として住まうようになってから、五年が経とうとしていた。
暦を眺めながら、早いものだと思いを馳せる。思えば、住み始めの頃は右も左も分からず、そもそも侍女の仕事が何であるのかも理解はしていなかった。
ノルヴィスの為に働けばいいのだとは分かっていたので、一度夜伽を申し出てしまったこともある。お前は兄と事に及ぶのかと呆れたように指摘され、建前上の立場ではあるがそういうものかと納得した。
「ノルヴィス様のご帰宅は日暮れ頃のご予定、それまでに書簡の仕分けと、掃除……は他の者に任せましたし、食材の仕入れに、午後には新入りの教育。空いた時間は短剣術の復習をしておきたいのですが、誰か捕まるでしょうか」
またぶつぶつと呟いてから、アリーシャは本棚の上の写真を見た。
そこに飾られている初老の女性は、この屋敷の侍女頭であり、とにかく様々なことを叩き込まれた。仕事の内容に加えて、基本的な教養、侍女として理想的な立ち居振る舞い、言葉遣い、主人の敵を撃退するための戦闘術まで。一体何者だったのだろうかと、今でも疑問が残る。
もっと教わりたいことはあったが、彼女は瘴気による病のせいで半年前に他界した。アリーシャは、すみません、と写真に向かって苦笑いを浮かべる。
「独り言を呟くのは、侍女としても淑女としても不適切なのでしたね。幸い殿下が約束をお守りくださるので、今後もあのドレスを着る予定はありませんが」
今度は短く切り上げて、裾を引いて一礼する。この五年で長く伸びた白銀の髪が、さらりと流れ落ちた。
この後の仕事の邪魔にならないよう、高く結い上げてから、アリーシャは窓を開けて日が昇り始めた空を見上げた。
◇
「また随分とお疲れのようですね。状況は芳しくありませんか?」
食器を片付けながらアリーシャが問い掛ける。
寝台に横たわったノルヴィスから、ああ、という返答があった。着の身着のまま、湯を浴びることもなく、しかしそれだけ多忙なのだということは理解していた。
アリーシャが集めた食器に視線を落とす。いつも食事をする部屋ではなく、自室まで運ぶように言われた食事は、量は最小限に指示された。きっと本当に食事を楽しむ気力も湧かないのだろう。それでも全て綺麗に平らげられていた。
ノルヴィスがまだ眠っていないことを確認して、アリーシャがそっと歩み寄る。
「そのままですと、眠りを阻害します。上着だけお預かりしても宜しいですか? それから、少し失礼致します」
そう言って、アリーシャの指がノルヴィスのシャツのボタンを数個外す。首周りだけでも解放されたノルヴィスは、疲れたような息を吐いた後で、目を閉じたまま薄く笑った。
「悪いな、だらしのないところを見せる」
「気にしませんよ。私がどこの出身か、よもやお忘れで?」
「……悪いな」
少しでも慰めてやろうと発した軽口は、この場では不適切だったらしい。余計に謝らせたことに詫びてから、アリーシャが寝台のそばに両膝をつく。
ごろりと横になったノルヴィスが目を開けて手を伸ばし、アリーシャの髪を撫でる。頬へとやってきた手に身を寄せて、アリーシャは真っ直ぐにノルヴィスの赤い瞳を見つめ返す。
「申し訳ありません。貴方を癒して差し上げる、もっと効果的な手段があれば良いのですが」
「十分だ。今日の食事も美味かった。香草の仕入れ先を変えたか?」
「いつもの卸屋ですが、採取先が変わったそうです。いつもの森が、瘴気に呑まれ、もはや立ち入れなくなったと」
「……そうか」
ノルヴィスの瞼が再び降ろされる。また気分を害したことに謝罪すると、ノルヴィスからはお前のせいではないという返答があった。
王国を蝕む瘴気は、年々増え続けている。モヤのようなそれは、吸ってすぐに死ぬようなものではないが、じわじわと病のように身体を蝕んでいく。農地や鉱山を侵し、土地を死なせ、人の住めない大地へと変えてしまう。
「王は、失った領土を埋め合わせるため、辺境の他部族に攻め入るつもりだ。王都に無理な動員をかけ、ただでさえ苦しい民たちは働き手を奪われている。困窮した民は、自らより一層弱い者へと鬱憤をぶつける。孤児や奴隷の数は右肩上がりだ」
当然記録などされていない者も多いだろうが、それを合わせれば一体どれだけになることか。そうノルヴィスは声に苛立ちを滲ませた。
アリーシャは無言でそっとノルヴィスの額に手を触れさせる。ほんの少しだけ、いつもよりも温度が高いように感じる。あれだけ重要視していた寝食を削ってまで、この男が四方を奔走している理由を、よく理解していた。
「……またご気分を害することをお許しください。件の、第一王子については?」
出来るだけ静かに問うと、ノルヴィスは嘆息した。
「アルバートは相変わらずだ。何をおいても玉座が欲しくてたまらないのだろうよ。領地からせっせと兵や奴隷をお父上殿に献上している」
「そうですか……王国の一人の民として、私はノルヴィス様のような方にこそ、治世を敷いて頂きたいと思います」
「お前までもがそのような機嫌取りを言うな。いつも言っているだろう。俺は王座など欲しくはない。ニコラのような人格者が上に立てば、この悪夢のような国も、少しは良くなるだろうに」
「第三王子様は、先日十二となられたばかりでしたね。式典にてお見かけしましたが、上の兄君たちとは十以上離れ、それを微塵も感じさせないあのご立派なご振舞い。きっと聡明なお方なのでしょうね」
「……機嫌取りをするなとは言ったが、俺の目の前で弟ばかりを持ち上げろと言った覚えはない」
いつの間にかノルヴィスの目は開かれ、少し不満げな視線がこちらを向いている。
アリーシャはくすくすと笑い、彼の額に置いた手を頬まで滑らせた。
「ご心配なされずとも、私は貴方の従順な侍女ですよ。いえ、妹でしたか? 最近はとんと、王城からの登城命令がありませんね。相当手を回してくださっているのでしょう」
「あのようなところに上がったところで、何もつまらん。お前はこの屋敷を回し、俺のためにパンでも焼いているのが似合いだ」
「明朝の分はさらに工夫を重ねます。今朝より一つでも多く食べて頂けると何よりですね」
アリーシャの手に、ノルヴィスの手のひらが重ねられる。
しばらくそのままにした後で、アリーシャはくるりと手のひらを返し、ノルヴィスの手を軽く握った。
「ノルヴィス様。私が磨いているのはパン焼きの技術だけではありません。貴方の改革のために障害があると言うのであれば――」
「アリーシャ」
冷たい声が、アリーシャの申し出を遮る。
腕一つ分もない近い距離で、じっと二人の視線が合う。
数秒の沈黙が流れ、アリーシャはふう、と小さなため息を吐いた。
「分かりました。それであれば、貴方に一秒でも長く休んで頂くのが、今の私の仕事ですね」
そう言ってアリーシャが、ノルヴィスの身体から器用に上着を取り去る。
幾分薄着になった男の表情を見て、アリーシャはくすりと笑った。
「子守唄が必要ですか? それとも額に口付けましょうか」
「俺が幼子なら願い出ただろうよ」
そう答えて、ノルヴィスが片手を差し出す。
その手を握ると、アリーシャは再び寝台横に膝をついた。
「今のお前であれば、王国中どこの屋敷であろうと、侍女として喜んで迎え入れられるだろうな……」
瞼を下ろしたノルヴィスが、半分眠りかけた声でそう評した。
アリーシャは小さく肩を竦める。
「それは光栄です。ですが、存外、ここが気に入っているのですよ」
追い出さないでいてくれると嬉しいがと、そう続けたが、ノルヴィスの口からは既に寝息しか返らなかった。
◇
今日も帰りが遅くなると、ノルヴィスから屋敷に連絡があった。
真夜中、アリーシャは屋敷の使用人たちに後を任せて、自室へと戻った。
ここのところ、日増しにノルヴィスの調子は悪化しているように感じる。屋敷に戻ってもほとんど言葉を発さない日すら多く、どこか思い詰めたような主人を、使用人たちは皆それぞれ心配していた。
アリーシャが無言で自室の机の引き出しを開ける。中から出てきたのは、城で行われる予定の舞踏会への招待状だった。
半年前にノルヴィスから聞いた他部族への侵攻は、結局取りやめとなった。兵が十分に集まらず、万が一の敗戦と、それによる権威の失墜を恐れたのではないかということだった。此度の舞踏会も、周辺貴族の溜飲を下げさせることが目的の一つなのだろう。
招待状を机の上へと放り投げ、アリーシャが窓の方へと歩み寄る。遠く、街の明かりが見える。
近頃、街で見かける奴隷の数が減っていると感じる。道端の孤児をいたぶる風景もめっきり見なくなり、彼らが残飯を漁っていても見て見ぬふりをする者が多くなったようだ。
「あの地下水道は、今はすっかり瘴気に覆われているでしょうか」
アリーシャが窓を見ながら呟く。あれ以来一度も足を踏み入れてはいないが、足元から漂ってくる匂いからして、きっともはや人間が住める環境ではないのだろうと思う。
ため息を吐いて、窓を開く。入り込んだ夜風が机の上の招待状を床へと飛ばした。
屋敷の者に気づかれていないことを確認して、アリーシャは夜の闇へと身を滑り出させた。
王都の路地裏は、夜ともなれば真っ暗だ。
アリーシャは家や通りから差し込む微かな明かりと嗅覚を頼りに、細い通路を進んでいく。
やがて、少しだけ開けたところに出た。地下水道の出口のあるこの場所には、昔何度か訪れたことがある。そういえば自分が商人に捕まったのもこの付近だったなと、そんなつまらないことを思い出した。
薄暗い路地裏で、一人の男が倒れていた。顔などはっきり見えはしないが、大きな身体と漂ってくる脂の匂いからして、きっと貧困している類の者ではないだろう。
数歩近づいて、衣服が判別できた。背格好からして、この辺りで最も大きな奴隷館の主人だ。喉辺りから流れ出る血が靴先を濡らす前に、アリーシャは嫌な顔をして足を引いた。折角主人に贈られたばかりの靴を、薄汚れた血で染めたくはない。
「最近、不審死が頻発していると街で噂になっていました。悪行をした者ばかりが殺されるので、義賊ではないかと。やはり貴方だったのですね」
近くの物陰に向かって静かに問う。闇から溶け出すように、黒い髪が現れた。
「そのようなものか。人殺しは人殺しだ」
ノルヴィスはどこか自嘲的な声でそう答えた。少し伏せられた顔が上がり、赤い瞳がこちらを見据える。
「何故、俺だと? ここにいることがどうして分かった?」
「貴方の行動を把握することが、私の仕事です。ここのところ食事の前に手を洗われる時間が長くなりました。匂いが落ちないのでしょう?」
ふい、とノルヴィスが視線を逸らせる。
側に行ってもいいか、とアリーシャが問うたが、ノルヴィスは首を横に振った。
「主人の蛮行をまさに目の当たりにしておきながら、もはや気味が悪い程の冷静さだな。理由も何も問わないのか」
「分かりきっていますよ。逆に、聞かねば理解しないと? 私が何年、貴方のお側にあったとお思いですか?」
アリーシャが、心外だ、という顔でノルヴィスを見る。
地面の方へと視線を逸らせたまま、やがてノルヴィスが吐き捨てるように蛮行の理由を告げた。
瘴気の増加、国家中枢の腐敗。改革を待つばかりでは、もはやこの国が死んでしまう。何かに追い詰められたかのようなその告白に、アリーシャは、そうですか、とだけ答えた。
生臭い空気に混じり、路地裏に沈黙が流れる。はあ、とノルヴィスがため息を吐いた。
「アリーシャ、お前を屋敷から解雇する。今見たことは忘れ、何処ぞの屋敷へと仕え直せ。お前が俺の妹ということは、王宮のほんの限られた者にしか知らされていない。公的な文書も全て処分した。お前の今後の人生において、この虚言が足を引くことはない」
「情報を漏らしたり、不利益になろうとした者は、貴方が消してしまうからですか?」
「……」
ノルヴィスは答えず、視線を合わせようともしない。
アリーシャが一歩を踏み出す。来るな、という主人の制止を無視して、ノルヴィスの方へと歩み寄った。
「解雇の件はお断りします。それよりも、死臭が染み付く前に、早くこの場を立ち去られることを提案致します。宜しければ、この場の処理はお任せ頂いても?」
そっと伸ばされた白い手を、ノルヴィスが払い除けるような動きで取った。
強く掴まれた腕から音が鳴る。怒りの込められた冷たい視線がアリーシャの目を見下ろした。
「アリーシャ、やめろ。お前の腕は、このようなことのために磨かせたのではない」
「あまり見くびらないで頂きたいものです、ノルヴィス様。私は、私の意思で、自らの能力を磨いてきたのです。あの泉に辿り着いたことは、私の碌でもない人生における、最大の幸運でした。願わくば貴方にとってもまた幸運な拾い物だったと、いつの日かそう思って頂ければと――」
言葉の途中で、アリーシャの身体が強く引き寄せられた。背中に回された腕は力強く、ほんの少しだけ震えている。
慣れ親しんだ男の匂いに混じって、血と脂の臭いがする。このようなものは、一度染み付けば完全に消し去ることは難しい。地下水道と館での痕跡は、何年が経っても、今でもたまに鼻腔の奥を擽った。
「すまない、アリーシャ。お前の純白を、汚してしまう」
絞り出すような、口惜しげな声がした。すっかり長くなった白銀の髪に男の指先が絡む。
アリーシャは目の前の胸に手を添えて、少し呆れたような表情を浮かべた。
「私の碌でもない過去を知り尽くしておいて、そのようなことを仰るのは、王国広しといえども貴方ぐらいなものですよ」
そう言ってアリーシャは上を向き、ほんの少しだけ背伸びをすると、乾いた唇に自らの唇を掠めさせた。
驚きに目を見開いた男に向けて、少し妖艶に、そして挑発的に微笑んでみせる。
「どのような道であろうとも、お供いたします、ノルヴィス様。私に命を与えてくださったのは、貴方でしょう」
赤い瞳は一層大きく見開かれ、すぐに強く閉じられた。長い睫毛がほんの微かに震えている。
「……ああ、分かった。この国の悪夢を晴らすため、俺はもう立ち止まりはしない。この身が地獄に落ちるその日まで……俺のそばを離れるな、アリーシャ」
まるで自分自身に向かって宣言するかのように、ノルヴィスは低くそう告げた。
冷える路地裏に漂う死臭。細い身体を抱き締める腕へと力を込めて、ノルヴィスは深くアリーシャへと口付けた。
◇
ざあざあと雨音がする。夕暮れ時から降り出したこの雨は、真夜中を過ぎた今、一層激しさを増していた。
濡れた顔を手の甲で拭い、アリーシャが地面に倒れ伏す男の顔を見る。その視線に気が付いたのか、どうした、とノルヴィスが問うた。
「ああいえ、大したことでは。知っている顔だと思っただけです」
「何?」
眉を寄せるノルヴィスをアリーシャが呼び寄せる。薄暗い路地裏はこの天気でいつもよりさらに見通しが悪い。小さな屋根の下へとノルヴィスを押し込めると、アリーシャは男の濡れた肩を軽く払った。この後どうせ帰路で濡れはするのだが、新調した外套が返り血で悪くなっていなければいいがと、そんなことを考えた。
「それで、この男をどこで? 用心深く自領からなかなか出ようとしない男だ。ここに呼びつけるのも苦労した」
ノルヴィスが後ろ手に男を指差す。既に物言わぬ死体となったこの男は、次に王国が仕掛けようとしている他部族との戦に兵を出す予定の貴族だった。
――真夜中の蛮行は、もう一年以上続いている。
この頃王国領の情勢はますます悪化している。広がり続ける瘴気によって駄目になった土地が増え、城下町だけでなく、広大な農地を抱えているはずの郊外の領地ですら飢え死にする者が増え始めた。
そこに転がっている男が治める地も同様の状況であり、そんな中で少なくなった働き手を戦に奪われることになれば、確かに残された女子供は路頭に迷うことだろう。しかし領主を失った土地の混乱もまた推して知るべしだ。さらに兵が出せないことで戦自体が無くなれば、新たに手に入るかもしれなかった領土も失うことになる。
(でも、瘴気の拡大傾向から言って、使えたとしても数年。戦による損害の方が余程大きい。だからこその今夜なのでしょうが)
そうアリーシャはどこか遠く考えた。瞳に映したままの男の死に顔には、想像したほどの苦悶の色はない。
この蛮行を始めた頃は、たまに反撃を受けることすらあったが、ここのところは平和なものだ。ただ喉をひと掻き。それだけで声も上げずに標的は地面に沈む。あの水路で死んでいった孤児たちのように苦しむこともなく。あの館で自分が漏らしたような悲鳴を発することもなく――
「――、アリーシャ!」
肩を揺さぶられ、押し殺した声でそう叫ばれて、アリーシャはようやく我に返った。自分としたことがついぼんやりとしていたようだった。酷く心配げな目の前の男に向かって、少し困ったように笑ってみせる。
「申し訳ありません、ノルヴィス様。お身体が冷えます。痕跡はこの雨が消してくれるでしょうから、早くお屋敷に――」
「あの館の客だな。何をされた」
ノルヴィスがアリーシャの言葉を遮る。低い声にははっきりとした怒りが宿っていた。
アリーシャは微笑みを浮かべたまま首を横に振る。
「お話しするようなことは何も」
「そうか、分かった」
そう言ってノルヴィスは振り返った。ばしゃりと靴が雨を踏む音がする。赤黒く濁った水が跳ねてノルヴィスの靴と外套の裾を汚した。
すぐに男の死体のもとへと辿り着いたノルヴィスは、その顔目掛けて足を振り上げた。
「ノルヴィス様!」
躊躇わず振り下ろされた足が死体の顔を踏み抜く寸前。アリーシャはノルヴィスの腕を強く引き、その行動を止めさせた。
ノルヴィスの足が地面へと降ろされる。靴と外套はすっかり汚れて駄目になってしまっていた。
男の腕を掴んだまま、アリーシャは眉を寄せ少し鋭い早口で囁く。
「ノルヴィス様、何をされているのですか。もう死んでいます。無駄な痕跡を残すおつもりですか」
「この男はお前の尊厳を深く傷付けた。違うか」
「概ね想像される通りですよ。正直思い出したくもありません。ですが……貴方の蛮行は、私憤の為ですか」
それであっても共にあるが。そうアリーシャが静かに続ける。
雨足は少しだけ弱くなっていた。頬にあたる粒がさっきまでより細かくなった頃、ようやくノルヴィスが深いため息を吐いた。
「……屋敷に仕えるものとして、それは止めるべきだろうがな」
「先代なら殴ってお止めしていたでしょうね。ですが私はしませんよ。ずっとお隣で愚かな蛮行を眺めて差し上げます」
「主人に似て性格が悪いな」
ノルヴィスはそう言ってアリーシャの身体を抱き寄せた。
自分の外套の裾も赤黒く汚れていくのを見ながら、アリーシャは勿体無い、と呟く。
「先日頂いたばかりでしたのに」
「仕立て直せばいい。俺の侍女は裁縫も上手い」
「この間駄目にした服をちょうど今朝、ようやく繕い終えたところでした」
「それは災難だったな。しまいにはこの雨だ」
ノルヴィスが少し鬱陶しそうに、前髪から落ちてきた水滴を首を振って払う。
アリーシャはくすりと笑い、彼と自分の身体の間から手を抜け出させると、雨に濡れた男の目元をそっとなぞった。
「ノルヴィス様、地獄に落ちるその日はお天気が良いといいですね」
「この身には過ぎた願いだな」
薄く笑ってそう答えてから、ノルヴィスはアリーシャの唇へと触れるだけの口付けを落とした。
やがて解放されたアリーシャは男の手を取ると、暗い路地裏の奥へ共に姿を消す。
生の気配が途絶えた空間には、雨が地を打つ音だけが静かに響いていた。
――これより一年も経たぬうちに、国王は急逝する。凶行に及んだとされる第二王子は「魔に取り憑かれた逆臣」として衛兵らの矢に射抜かれた。しかしその崖下に死体が見つかることは、ついぞなかった。
最後までお読み頂きありがとうございます。
本話と同設定にて、13万字程度の長編を現在執筆中です。
2025年以内に投稿予定ですので、もし気に入って頂けた方はそちらもご覧頂けると非常に嬉しく思います。