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第1話 泉の夜影

 王国領土に張り巡らされた地下水道。昼夜を問わず光の差さないこの場所は、常に湿って冷たく、肺を侵す瘴気すら流れ込んでくる。


 また酷く咳き込んだ小さな背中を、少女の手が撫でる。骨と皮ばかりの衰弱し切った身体。他の孤児たちと同様に、命の灯火が消えるのもそう遠くはない。


「アリーシャ、ねえちゃ……あり、がとう……ゲホッ……!」


「喋らなくていいわ。また空気が澱んできている」


「でも……姉ちゃんに、くっ付いてると……少しだけ、息が、楽になる気がする……」


「そう。ならもう少しこっちに寄るといいわ」


 そう言って、アリーシャと呼ばれた少女が幼子の身体を抱き寄せた。


 ここに住む孤児たちの間に、血の繋がりなどは存在しない。しかし、必死に身を寄せ合って生きているうちに、家族の絆とでも呼べるものが確かに生まれていた。


 アリーシャの腕の中で、子供の呼吸が次第に弱々しくなっていく。病に侵された身体を、医者に見せるような金はない。たとえ幾らかをかき集めたところで、地上に住む医者の中に、地下水道暮らしで汚れ切った子供を診てくれるような者はいるはずもなかった。


「ご、めんね……ねえ、ちゃ……おれ、が……死んだら……ねえちゃ、ん……ひとり、に……」


 深い咳の合間で少年が最後にそれだけを絞り出す。アリーシャは彼を抱き締める腕の力を増すと、泥のついた額に口付けを落とした。


「私は大丈夫よ。……優しい子ね、ありがとう。愛しているわ」


 夜通し苦しんでいた子供は、朝になる前に事切れた。アリーシャは、冷たくなり始めた軽い身体を抱き上げると、ひたひたと水道の方へと歩く。


 早朝のこの時間は、水の流れは比較的穏やかだ。決して美しいとは言えない流水に、亡骸をそっと横たえる。


 この水道の先は、海へと繋がっているという。痩せこけた身体であれば、きっと出口まで辿り着くことだろう。


 子供が流されていき、一人きりになった地下水道で、アリーシャは静かに目を閉じる。身体の前で両手を合わせて、あの子供が他の兄弟たちと同じく、明るい日の下へ出られることを祈った。


 ◇

 

 流れる水の音に、アリーシャはハッと意識を今に戻す。狭い浴室はいつもの通り、湿った嫌な空気が篭っている。


 頭上から降り注ぐ冷たい流水で、自らの身を清める。指先が真新しい傷跡をなぞると、微かな痛みに顔を顰めた。

 汚れで曇り切った鏡に、白銀の髪と、そこから生える二本の黒い角が映っている。質の悪い石鹸のついた指で片方の角に触れた。ゴツゴツとした手触りの中に、少し欠けているのが感じられる。


 はあ、とアリーシャがため息を吐く。今日の客は随分と乱暴だと思ったが、机に叩きつけられた時に聞こえた何かが割れるような音は、やはり幻聴ではなかったらしい。

 水を止めて、浴室を出る。どうせ入念に清めたところで、またすぐに汚れるのだ。そもそもこの館を訪れるような客は、まともな女など求めてはいない。つまり、適当に洗っておけば十分だと、アリーシャは硬い布で濡れた身体を拭いた。


 ふと、女の悲鳴のような声が耳に届く。鼻をつく血の匂いが一層強くなったので、きっと階上の姉さんが手酷くやられているのだろう。人間より発達した五感は、不快なものまでよく拾う。


 アリーシャはもう一つため息を吐いて、狭い部屋の壁を睨むように見た。この館には窓がない。空でも見えれば少しはマシなのにと、埃っぽい床に布を放り投げた時、部屋の外から次の客の来館が告げられた。


 

 外に出るのは随分と久しぶりだ。裸足で土を踏みながら、アリーシャはぼんやりとそんなことを思った。


 時刻は夕暮れ時。傾いた太陽はそれでも、暗闇で育ち続けた青白い肌を焼くようだった。


 空を見上げようと上を向きかけて、グッと首の詰まる感覚に咳き込む。首輪に繋がる鎖を持った男は、余計なことをするなと舌打ち混じりに告げた。

 この客が来館するのは、一月に一度か二度。物好きばかりが集まるあの館の中でも、そこそこの得意客だ。そのこともあってか、男が提示した裏森への外出は、袋に詰められた金と引き換えに二つ返事で聞き入れられた。


 アリーシャは、男に言われるがままに無言で足を進める。屋敷から遠ざかるほどに、木々は鬱蒼と生い茂り、足に絡みつく雑草が鬱陶しい。

 ぐい、と首輪を引かれて立ち止まる。振り返ると、男は何やら下卑た笑みを浮かべていた。


「なあ、アリーシャ。お前の相手をしてやってから、随分と長いよな。初めは、魔族との混血なんてどんなもんかと思ったが、なんてことはねぇ。ちょっと醜い角が生えただけの、ただの女だ。だがお前は頭が良い。どこまでやられりゃ死んじまうか、はっきり分かった上で、客に好きにやらせてる気にさせてるんだ。あの館で十年も生き残ってんのは、お前ぐらいなもんだぜ」


 したたかな女は嫌いじゃない、と男が笑う。

 アリーシャは無言で頭を下げて、次の言葉を待った。男が饒舌な時に口を挟むと、大体の場合は意味もなく殴られる。長年の経験から培ったその行動に、そういうところだ、とまた男が笑い声を上げた。


 やがて、ひとしきり笑い終わった男が、ふうと息を吐く。ごそりと鞄を漁る音がしてから、首の鎖が軽く引かれた。

 顔を上げたアリーシャの目の前に、尖った矢尻が突きつけられる。矢をこちらに向けている男は、反対の手に握っていた鎖を無造作に地面に放り、空いた手に弓を取った。


「……何のおつもりですか」


「馬鹿な女のふりはやめろ、アリーシャ。聞いたぜ、ここへ来る前は泥水啜って生きてきたんだろ? その野生根性を見せてみろよ」


 言い終わるより早く、矢がつがえられる。弦が完全に引き絞られる前に、アリーシャはその場を飛び退いた。首輪から繋がる鎖を素早く引き寄せると、周囲の木々に引っ掛からぬよう片腕に抱いて、そのまま森へと姿をくらませる。

 薄暗くなり始めた森に、男の笑い声が響いた。


「いいぜ、アリーシャ! やっぱりお前は最高だ! そうやって最期まで楽しませてくれよ!」


 上機嫌な大声に、アリーシャはうんざりと顔を顰める。碌な外出では無いだろうと思ったが、その中でも最悪の部類だった。

 人生の暇を持て余した男に、狩りの相手にされることは初めてでは無い。前回は無傷で館に帰ったが、客を落胆させるなと酷い折檻を受けた。


「行くも地獄、帰るも地獄。相変わらずこの世はどうしようもない」


 声を潜めて毒づくと、居場所を知らせるために鎖の端で木の幹を叩いてやった。枝を折る音がこちらに近づいてくる。

 すぐそばを矢が一本かすめ去ってから、アリーシャはわざとらしい悲鳴をあげて森の奥へと逃げ込んだ。



 アリーシャの足が湿った小枝を踏む。周囲の木々や草に血の痕を残しながら、森の中を駆けた。


 そろそろ息が苦しい。日はすっかり沈んで、頭上には月が昇り始めている。新月であれば、暗くて何もわからないふりをして館に戻ってやる手もあったが、この月明かりの中では下策だろう。

 いい加減飽きてくれればいいものを、あの男の興が乗ると長いということは、身をもってよく知っていた。


「っ、はあっ……ぐっ……」


 片足を引き摺って走るアリーシャの肩を矢が貫いた。逃げるために不便な矢を折り、地面に叩きつけるように捨てる。手のひらがぬるりと濡れて、痛みに生理的な涙が浮かんだ。


 男を満足させるために、たまに手足を掠めさせてやっていたが、そろそろ躱すことも難しくなってきた。

 これ以上の遊戯は、本当に命に関わる。ぐっと奥歯を噛み締めて、アリーシャは目一杯駆けて男から距離を取った。


「いった……本当に、悪趣味で嫌な男……」


 充分に離れたところで、少し休憩だと木にもたれかかる。酷く痛む肩を抑えてそう悪態をついた。


 ふと、水の跳ねる音が耳に届く。目を凝らすと、遠く木々の隙間に煌めく水面が見えた。

 どうやら王都近くの泉の方まで駆けてきてしまったらしい。長く逃げ過ぎた。あの男の足では、血の痕があるとはいえ、ここまで追ってくることは難しいだろう。

 これは折檻だなとため息を漏らす。どうせ危害を加えられるのであれば同じことだと、アリーシャは蹌踉めきながら泉へと向かった。


 水辺に近づくにつれて、空気が澄んでくるような気配がある。この辺りには瘴気が少ないらしい。深く息を吸うと、矢がどこかを傷付けていたのか、胸に鋭い痛みが走った。


「う……ぐ……ゲホッ……」


 胸と口を押さえてアリーシャが咳き込む。片腕に抱いていた鎖が地面に落ちて脚を打った。鈍い痛みを感じながら、何とか泉の方へと歩を進める。

 今夜は本当に失敗した。折檻の前に灯火が燃え尽きそうだ。しかし、どうせ死ぬのであれば、あの子たちと同じ水場がいいと思った。


(なんて……そもそも泉は、海には繋がっていない……)


 頭に浮かんだ馬鹿な考えに、思わず笑いが漏れた。笑うと余計に胸と喉が痛む。


 酷く疲れた。水面までもう少しだったが、これ以上は進めそうにない。地面に膝をつくと、視線の先に足先が現れた。


「お前は、何者だ」


 聞き覚えのない声だった。伏せていた顔を何とか持ち上げると、月を背負って青年が立っている。


 齢は十八か二十か、自分と同じぐらいに見えた。艶やかな黒い短髪、通った鼻筋、少し神経質そうな表情。長めの前髪の間から覗く赤い瞳は、こちらを値踏みしているのか、とにかく威圧的で冷たい。館に訪れる貴族のものより一層質の良さそうな衣服と、腰に携えた立派な剣からして、王城に勤める者だろうか。


 どうやらこちらに警戒して剣を抜こうとしていた男は、首輪と鎖に気がつくと顔色を変えて駆け寄って来た。


「……お前、その首輪に刻まれた紋……この先の娼館の者か? その傷はどうした? 追われているのか?」


 男が矢継ぎ早に問う。何やら強い怒りを滲ませたような声だった。

 話せる状況でないことは見れば分かるだろうと、そう思ったが黙っておく。男が饒舌な時に口を挟むと碌なことはない。


 口を噤んでいるうちにやがて視界が霞み始め、そうしてアリーシャは意識を失った。


 ◇


 薄い瞼が震え、やがて金色の瞳が現れる。


 アリーシャは数度瞬きをしてからゆっくりと身を起こした。随分と柔らかく、館のものとはまるで同じものとは思えないが、どうやら寝台に寝かされていたらしい。

 人間二人が横になっても余裕がありそうな寝台。それを置いても尚ゆとりのある部屋は、決して華美ではないが、飾られてある剣一つ取っても自分には生涯縁のない価値のものだろう。大きな窓から差し込む光からして、夜が明けてからさほど経ってはいなさそうだ。


「服が……」


 さらりとした質感に視線を落とす。館を出た時に纏っていたものとは全く異なる衣服は、実に上質で落ち着かない。


「ああ、起きていたのか」


 前触れもなく開いた扉から姿を現したのは、泉で見た男だった。

 アリーシャが無言で視線を返すと、男は寝台のそばまで歩み寄ってくる。


「すまない。治療の必要があった故に、無断で身を清めさせてもらった」


「開口一番がそれとは、存外礼儀に厚い方のようですね。私はアリーシャと申します。名をお聞きしても?」


 淀みなくアリーシャが答えると、男は少し驚いたような顔をした。

 娼館の女がものを喋れることが意外か、と聞くと、男はすまない、と再度の非礼を詫びた。


「俺はノルヴィス。突然で悪いが、お前にはこの先のことを選んでもらいたい」


「選択肢をお聞きしても?」


「話が早いな。助かる。お前に与えられる道は二つだ。ここで俺の役に立つか、ここを出て自由に生きるか」


 ノルヴィスの瞳が真っ直ぐに見下ろしてくる。真紅の双眸は、昨夜ほどではないもののやはり威圧感を滲ませる。


 アリーシャは無言で寝台から降りた。床についた足には思ったほど力が入らず、ぐらついた身体をノルヴィスの手が支える。

 礼を言ってから身を離し、アリーシャはその場で頭を下げた。


「私には戻るべき場所もありません。大して使い道のない命で良ければ、どうぞ貴方のご自由に。それに、助けられたというのであれば、恩は返すべきだとそう思いますが、どうでしょう」


 最後の一言で顔を上げたアリーシャを見て、ノルヴィスが面白そうに口角を上げた。


「俺の正体も聞かずの即断か、面白い奴だな」


「その評価の結果が、昨晩の()()()です。さほど嬉しい裁定ではないですね」


「あの男には腐るほどの余罪があった。屋敷には骸がごろごろと、恐らくは生涯太陽を拝むことはないだろうな」


 何でもないことのように言われた内容に、アリーシャは怪訝そうに眉を顰める。

 その表情を見てから、ノルヴィスは人差し指を立てた。


「加えて一つ修正しよう。件の蛮行は四日前だ。つまりお前は、丸三日以上眠りこけていた」


「……道理で傷が治っていると。足に力が入らないのは、空腹のせいですね」


 一本から四本、三本と立てられる数が変わる指を見ながら、アリーシャは納得したように言った。

 それで、と、一段声を低くする。


「貴方は、何者でしょうか」


「俺はノルヴィス。ノルヴィス・イザキエル・ヴァストレリア。この国の第二王子だ」


 アリーシャは何も答えない。

 少しも驚きがない訳ではなかったが、こちらの顔を見てノルヴィスは、やはり面白いと薄く笑った。


「あの晩は、件の館を調べてやろうと思い、泉まで行ったところでお前が現れた。助かったぞ、お陰で踏み込む口実ができた」


 ちなみに館は既に解体され、主人たちは皆投獄した、とノルヴィスは続けた。


 アリーシャは寝台へと腰掛けて息を吐き出す。高貴な身分であろうとは思ったが、王子だというのは少しばかり想定外だった。

 どうやら腐敗や奴隷制に刃を差し入れたがっているようであるが、それであれば先程の『役に立て』という指示もきっと碌なものではなさそうだ。


「選び直したくなったか?」


 思考を読んだかのようにそう問われ、アリーシャは男の顔を見上げた。威圧感のある瞳がほんの少し挑発的に細められている。

 いいえ、とそう答えてアリーシャは再び立ち上がると、胸に手を当て一礼した。


「一度決めたことを撤回するのは私の性に合いません」


 それで何をすればいいのかと問うアリーシャに、ノルヴィスは満足げに口角を上げて、まずは食事だと手を差し伸べた。



「本当に、何も聞かぬままで良いのですか」


「いい。お前は何も知らぬと、そういうことになっている。前情報を仕入れさせた方がやりにくい」


 揺れる馬車の中で、ノルヴィスが少し面倒そうに答えた。


 アリーシャは彼の向かいに座ったまま、改めて自らの全身を確認する。四日ぶりの食事が終わり、あれよという間に整えられた身は、髪を結い上げられ、化粧をされ、美しいドレスを纏わされ、まるで何処ぞの貴族令嬢のようだった。


「気分は悪くないか?」


「問題ありません。気を遣って粗食にして頂きましたので」


 それでも今までに食べたことのない豪華な馳走だった、とアリーシャは続けた。


 ノルヴィスの屋敷で出された料理は、スープやパンといった素朴なものが主だったが、それが自分の身体を気遣ってのことなのだということはさすがに理解していた。まさか分厚い肉でも出された日には、生まれてこの方粗末なもので育ったこの身体は耐えられなかったろう。


「これまではどのようなものを食べていたのか、聞いてもいいか?」


「殿下の喜ぶようなお話はできませんよ」


「いい。俺が聞きたいと言うんだ」


 目的地まではまだ少し距離がある。暇潰しということならと、アリーシャはこれまでの生活を掻い摘んで話した。


 地下水道で生きていた頃は、基本的には地上からくすねてきた残飯が主で、たまに誰かがパンを盗むとそれが一番のご馳走だった。警備が厳しく、廃棄物すら漁れない時には、地下に生えている苔を食べたこともある。

 他の子供たちが誰もいなくなり、地上を出てさほど間もなく奴隷商人に捕まった。売られた先は幸運にも娼館であり、他の奴隷のように鉱山で生き埋めにされたり、余興で獣に喰われたりせずに済んだ。

 館では、さすがに商品にばたばた死なれると困ると思われたのだろう。比較的マシなものが出た。


「――野菜の皮だけが浮いた水のようなスープ、水に漬けないと硬過ぎて齧れないパン。ああ、たまに主人に呼ばれると幸運です。あの変わり者は、床に落とした食事を這いつくばって食べるのを見るのが好きなのです。ふふ、悔しそうな涙目で見上げてやれば一層喜んで、食事の量が増えるというのだから、他の姉さん方が嫌がった時には代わって差し上げましたよ」


 確かに屈辱的ではあるが、普段よりずっと栄養価の高い食事には違いない。おかげで十年も生き延びたと、アリーシャは笑った。


「……笑うな」


「えっ?」


 アリーシャが聞き返した時、がたんと馬車が大きく揺れた。前によろめきかけた身体が、硬い胸に受け止められる。


 礼を言って離れようとすると、背に回された手に力が増したのを感じた。


「ノルヴィス殿下?」


「それが、お前なりの処世術だったんだろう。お前は賢い。人よりずっと多くのものが見えている。それ故にここまでを生き延びたことは、素直に賞賛したい。だが他でもないお前までもが、お前の尊厳を傷付けるな」


 耳元で静かに囁かれた声は、これまでに聞いてきたものよりずっと低い。

 意図を聞き返そうとした時、不意に身体が解放された。


「あの……」


「俺の屋敷の飯は美味いぞ。身体は資本だからな、ただ贅を尽くせば良いというものではない。その時、その人間に必要なものを、最適な味と見た目で出すことを給仕には命じている」


「栄養の話は理解しますが、味と見た目が必要ですか?」


「必須に決まっているだろう。食事は糧だ。楽しまずしてどうする」


 何やら楽しそうに告げるノルヴィスに、アリーシャが眉を寄せる。

 傲慢だと思うか? とノルヴィスが問い、アリーシャは無言で視線を逸らせた。

 それでいい、そう言ってノルヴィスは窓の外へと視線を向けた。王都の中心地へと近付き、活気ある街を人々が往来している。


「俺は第二王子であり、この国に対して責任がある。いついかなる時であろうと、それが戦の直後であろうと、世話になった師が死んだ夜であっても、己が身を変わりなく動かし続けねばならない。俺が倒れれば、幾万の民が路頭に迷うからだ」


 アリーシャがノルヴィスを振り返る。

 街並みを眺める横顔は、これまで通り端正で冷たく、しかし赤い瞳がほんの少しだけ優しいような気がした。


「……貴方を少しだけ、誤解していたようです。非礼を詫びます」


「いい。これからお前が俺の身を支えるのだからな」


「それはどういう――」


 意味だ、と聞こうとした時、馬車が止まった。


 開かれた扉からノルヴィスは先に降りて、アリーシャに手を差し伸べる。

 礼儀作法など分かりはしないが、できるだけ恭しくその手を取って、アリーシャは馬車の階段に足を乗せた。


 

 話が違う、と思わず口を挟みそうになるのを、アリーシャが堪える。


 周囲に気付かれぬよう、伏せた顔で微かに吐息を吐き出して、胸の内を何とか落ち着かせた。

 隣に同じく片膝を付いた男は、王城の豪奢な謁見室に少しも怯むことなく、滔々と話を続けている。


「――これが、証明となる書簡です。本物かどうか、お確かめになられますか」


 ノルヴィスの差し出した紙を、衛兵が受け取る。

 すぐさま玉座まで届けられた書簡の内容を一瞥し、威圧感のある初老の男は苛立たしげな息を吐き出した。


「して……ノルヴィス。お前の言うことが仮に真実だとしよう。そこにある魔族の娘が、亡き王妃の落胤だとして、つまりは妹をお前が引き取ると? 何故にそのようなことをせねばならぬ。王城にて然るべき教育を受けさせるべきとは思わぬか」


「ご冗談を、父上。敵味方どころか血縁にすら容赦無く、轟嵐と呼ばれた貴方が、王族の疵瑕たる彼女を庇護されると? そのようなことを私が容認するとお思いで?」


 無礼な、と玉座の側から声が上がった。

 恐らくは宰相か側近か何かだろう。顔の横に流れた髪で周囲などほとんど見えはしないが、この謁見室中の視線が突き刺さるのをアリーシャは感じていた。


 何故このようなことになったのか。国王に謁見に行くと言うのでついて来たところ、一つも言葉を発することが許されぬまま、手の届かないところで話が進んでいく。


(私が、前王妃の隠し子? ノルヴィス殿下の、父親違いの妹? 魔族の血を引くことを隠しもせずに、殿下は何故そのような虚言を……?)


 聞きたいことは山のようにあったが、この状況で口を挟むのが望ましくないことなど、娼館の経験が無くとも分かる。

 ぐしゃり、と紙が潰れる音がした。ノルヴィスが用意したという証明書だろう。当然偽物な筈だが、自分を保護して四日足らずで、いつの間にそのような用意をしたのか。


「……王城住まいを捨て、余計なことばかりしておると思えば、この儂を脅すと申すか、ノルヴィス。勘違いをするな。お前が好き放題にやれておるのは、ひとえに温情に過ぎん。王族の死が続けば、兵の士気にも関わる故な」


「当然理解しております、父上。私は何も、貴方の治世に危害を加えようというのではない。ただ……他に拠り所のない身において、幼き頃に聞かされた寝物語だけで私を頼り、苦労の末に辿り着いてくれた妹を、みすみす死なせたくはない。それだけなのです」


 ノルヴィスが立ち上がり、力を込めてそう発言する。

 アリーシャは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。雑な芝居だと思ったが、兵の中には心打たれたものも居たらしい。向けられていた刺々しい視線に、いくつか憐憫のようなものが混じった。気持ち悪い、とアリーシャは気が付かれぬよう舌を出す。


「主の要望は」


「彼女を、私の屋敷で保護したい。立場を偽り、一人の侍女として。苦労しか知らぬ身で、更に身分を嘯かせることは本意ではありませんが……しかし正体が広まれば、またいつ消されてしまうともしれませぬ故」


 王の問いに、ノルヴィスは再び片膝をついてそう答えた。

 アリーシャが横目で彼の様子を伺う。白銀の髪の隙間からは、拳が強く握られているのが見えた。

 少しの沈黙の後で、王は申し出を了承する旨を告げた。ありがとうございます、とノルヴィスの頭が下がる。


 話が終わり、ノルヴィスは立ち上がってアリーシャへと手を差し出した。

 アリーシャは一瞬だけ悩んでから、拒むことも不自然だろうとその手を取って立ち上がる。一礼するように促され、玉座に向かって頭を下げた。


 ゆっくりと、再び顔を上げて王を見る。冷たい声が高いところから降ってきた。


「アリーシャ、と言ったな。その角、父親が魔族ということで間違いはないな」


「物心ついた時には他界しておりました故、はっきりと申し上げることはできません。ですが確かに私は魔族の血を引いている。そのことは間違いないかと存じます」


「……追って王城からの処遇を寄越す。それまで、ノルヴィスの下へ身を寄せるがいい」


「はい。寛大な御心に感謝致します、国王陛下。……本当に、私を慰める嘘とばかり思っていた義兄上に、本当にお会いできるとは、天の思し召しでございます。王国の障害となりませぬよう、出来る限り息を潜めて過ごして参りますので……どうか、ご慈悲を」


 そう言ってドレスを引きながら深く頭を下げると、壁の方から啜り泣くような声がした。

 娼館で鍛えた能力は意外なところで役に立ちそうだ、と伏せた顔の下で舌を出した。



 ようやく退出を許され、ノルヴィスと共に謁見室を後にする。

 用意された馬車に乗り込んでから、アリーシャは深く息を吐き出した。ノルヴィスが笑い声を漏らす。


「悪いな。それにしても最後の芝居は傑作だった」


「殿下のものには遠く及びませんが。それならそうと、最初から仰って頂ければよいものを」


「言えば着いてこなかっただろう? 恩を返すためとはいえ、王族の立場というものは余りにも重過ぎる」


 それをはっきりと白状するところが憎らしいとアリーシャは思った。

 ノルヴィスの言うように、こんな事態になると分かっていれば、のこのこと着いてくるようなことはなかっただろう。

 はあ、とため息を吐いて、アリーシャが向かいに座るノルヴィスの顔を見る。


「それで、狙いは。魔族との混血が、王籍にある必要がありましたか」


「お前は本当に鋭いな。その通りだ。国王は森に住むという魔族を滅ぼそうと、水面下で挙兵の準備をしている」


 ノルヴィスの返答に、アリーシャは眉を顰めた。


「彼らの里を人間が見つけることは不可能でしょう。魔族には魔力がある。捜索の目を眩ますことなど容易です」


「ああ、そうだ。故に見境が無くなる可能性があった。手当たり次第に森を焼き払うか、奴隷をかき集めて昼夜を問わず死ぬまで探させるか……これより酷いものは今この場で話すものでもないな」


「馬鹿なことを、と思いますが、貴方の言動を見る限り真実なのでしょうね。愚かなことです」


 そう言ってから、ノルヴィスにとっては父親なのだと思い出し、アリーシャが謝罪する。

 すぐに、構わない、という返答があった。


「あれを父とは思わん。年を重ねるにつれ、益々己のことしか考えぬ。民の悲鳴が、あの王城には届かんらしい」


 アリーシャがじっとノルヴィスの顔を見つめる。

 ふい、と逸らされた男の視線は、走る馬車の窓の外を向いた。


「貴方という人間のことが、また少しだけ分かったように思います」


 そう言ってアリーシャが手を差し出す。


「不束者の妹ではありますが、どうぞ宜しくお願い致します。ですが、侍女としての働きはご期待なされず。貴方に最適な食事をお出しできるようになるには、少しかかりそうです」


 ノルヴィスがアリーシャの手を取り、問題ない、と挑発的に口角を上げた。


「うちの使用人は精鋭揃いだ。お前も、今に立派な淑女に仕立て上げられるさ」


「侍女、でしょう。貴方には恩がありますが……出来ればこのようなドレスを着るのは、これきりにさせて頂きたいものです」


 肩が凝って仕方がない、と言うアリーシャに、勿体無いことだとノルヴィスは笑った。

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