イエス、マイ・プリンセス――A’sが跪いた夜
前回のお話はーー
SSS東京支部で語られる、消せない名前「A’s」。その頃、五月の前に現れた謎の青年は、忘れ去られた過去と父の死を呼び覚ます。静かな夜、世界は確かに動き始めていた。
その男性に手を引かれて着いたのは、大きなマンション。
ドアを開けると、包み込むような微笑みを浮かべた女性が迎えてくれた。
部屋には、人のぬくもりと生活の匂いがあった。
「はじめまして。これから、よろしくね」
優しい声。
その横にいた少年は、女性とよく似た雰囲気。
五月の手を取ると、ダイニングテーブルに座らせる。
テーブルの上には色とりどりのご馳走、そして――真ん中に並ぶ二つの丸いケーキ。
白いケーキには苺。
チョコケーキにも苺。
それぞれにプレートが乗っていた。
『Happy Birthday! イツキ』
『Happy Birthday! ミツキ』
どうしていいか分からない。
ずっと、色のない世界で生きてきた。
こんな鮮やかな光景は、まぶしすぎて――胸が苦しい。
「生クリームかチョコ、どっちが好きか分かんなくてな! 二人の誕生日だし、両方作った。うまいぞー、俺の自信作だ!」
繊細なケーキとは無縁そうな男が、ライターでロウソクに火を点ける。
電気が消え、ロウソクの炎だけがゆらめいた。
「男なら、一息で消せないとな!」
「いや、一息で二個はムリだろ。片方は俺が――」
バシンッ!
横から飛んできたお盆が、見事その男の頭を直撃する。
振り向けば、悪戯っぽく笑う大人の女性が立っていた。
「一、二、三で、ふーって消そうね? いい?」
肩越しに、少年の顔。
こんなに近くで誰かを見るのは、いつぶりだろう。
イツキはこくんと頷く。
「一、二、三!」
ロウソクの火が消え、部屋の明かりが点く。
そこにあるのは、笑顔。
あたたかな空気。
「お誕生日おめでとう、五月、三月。そして――ようこそ。これからは、ここがあなた達の家よ」
その笑顔は、ママの笑顔に似ていた。
五月は戸惑い、三月に助けを求めた。
それから毎年、ケーキは二つ。
クリスマスには、サンタとトナカイがやってきた。
世界は色鮮やかに変わり、五月も三月も、いつしか笑うことを覚えた。
――けれど、大人たちは誰も教えてくれなかった。
父の真実を。
十年前の地震の日。
『いっちゃん、みっちゃん……大丈夫よ。すぐにパパが助けに来てくれるからね』
暗闇の中、母の腕の中で抱きしめられている。
隣には三月。
けれど、少しずつ――声が、遠ざかっていく。
母と三月と都心の大きなデパートに行った。
レストランでお揃いのお子様ランチを食べて、最後に食べようと楽しみにしていた唐揚げを三月に食べられ喧嘩になった。
『夜ご飯は唐揚げにしようね。ママが食べきらないくらい、いっぱい作ってあげるから』
……夕食を楽しみにしていたハズなのに。
突然、地面が大きく揺れていろんなモノが崩れてきた。
世界が崩れた。
『パパはSSSなの。たくさんの人を助けるお仕事なの。だから、すぐに助けに来てくれるから』
母の声が、確かにそう言っていた気がする。
すごく眠くて、その先は何を言ったのだろう……?
『七十二時間を理由に救助を止める政府に、何ができる! 地震じゃない、国に殺されたんだ! 助けを待つ人を助ける――それがSSSだ!』
時間が経ち、生活は落ち着いたはずだった。
けれど父は、日に日に遠くなっていった。
その背中が、少し怖かった。
『大切な者を守るために、国にならなければならない!』
怒りは歪み、刃となり――
やがて父自身を傷つけた。
それでも最後には、自分の大切なものを守った父。
――なぜ、今まで忘れていたのだろう。
家族としてのSSS。
仇としてのSSS。
「三月……」
夢中でバイクを走らせ、五月は病院にたどり着いた。
何が正しくて、何が間違いか。
夢か幻か。
グチャグチャになった記憶と感情が、イツキを締めつける。
「オレはッ――ッ!」
五月はベッドの横で泣き崩れた。
暗い病室。
眠る三月。
これが現実だ。
不の感情に呑まれそうになった、その瞬間。
意識が途切れる。
「イツキ……もう、苦しまないで。ごめんね」
その声は優しく、それでいて、決意を帯びていた。
三月は立ち上がる。
その瞳から、笑みが消えていた。
強い眼差しで眠る自分の体を見下ろすと――静かに、病室を後にした。
その足音が、廊下の奥に消えていく。
その数分後。
病院前から、一台の黒いセダン車が走り出した。
エンジンの音もなく、ただ闇の中に溶けていくように……。
様々な雑音の中で、三月はゆっくりと目を開けた。
夢から引き戻されるように。
頭の奥がぐらりと揺れる。夢の続きのような眩暈。
知らない天井。
冷たい空気。
──ああ、ここは……。
記憶が、ゆっくりと繋がっていく。
スカイツリー、病院、光、声、昨夜は……。
人工島『海ほたる』。
震災前には海の上に建てられたパーキングエリアとして観光地だったこの場所も、いまは閉ざされた世界。
夜の海に散る無数の灯りが、まるで星空を逆さに映したようだった。
デッキの先。
風に髪を揺らしながら、ひとりの青年──A’sは待っていた。
波の向こう、遠くに煌めく都市の光の粒が、まるで彼の翼のようにきらめく。
「……父の遺志は、私が継ぎます」
覚悟を含んだその声音は、海の闇を震わせる。
その瞬間、A’sの表情がわずかに揺れる。
確信があった。
──王は、必ず帰還すると。
A’sはゆっくりと三月の前に跪いた。
白い指が、三月の手をそっと包み込む。
そして、その甲に口づける。
「イエス。マイ・プリンセス」
――思い出すまでに少し時間がかかった。
柔らかな香りに包まれて、三月はベッドの上でゆっくりと起き上がる。
目に映るのは、白とピンクで統一された天蓋付きのベッド。
風に揺れるレースのカーテンが、淡い朝光を切り取っている。
「お目覚めかい? お姫様?」
お読みいただきありがとうございました。
次回は三月のノーザンクロスでの生活です。




