五月の前に現れた青年が、忘れていた父の死を呼び覚ました夜
前回のお話はーー
誘拐事件の解析で、“攻撃が消えた瞬間”の空白データが判明する。
正体不明の異常に戸惑う中、SSSトップチームの素顔と歪な家族関係が、少しずつ明らかになっていく。
その夜、SSS東京支部の最上階。
夜景が一望できるその窓辺で、幸太はぼんやりと街を見下ろしていた。
ここから見える光の海は、昔の東京と何ひとつ変わらない――そう思いたかった。
「幸太、帰らないの?」
振り向くと、峰子がコーヒーを二つ手にして立っていた。
「ありがと」
受け取ったカップから立ちのぼる香りが、疲れた頭を少しだけ軽くする。
隣に並んだ峰子も、同じように夜景を見つめている。
彼女の横顔が、ふっと柔らかく光った。
その瞬間、胸の奥がトクンと鳴る。
――何かが始まりそうな、そんな予感とともに。
「トンネル事故の時に由真が会ったっていう青年。ミツキの誘拐事件……!」
「……読まなくてもお見通し、か。敵わないな、峰子には」
お手上げのポーズをとる幸太に、峰子は小さく笑う。
何年一緒にいると思ってるのよ。
そんな言葉を、彼女は心の中でそっと呟いた。
「――A’s」
その一言が空気を変えた。
幸太の笑顔が、一瞬で止まる。
言ってから、峰子はしまったと後悔した。
あの名前。
プロフェッショナル・ジョーカーとして共に過ごした仲間。
けれど、ある日を境に、誰も口にしなくなった。
まるで封印されたように。
「……久しぶりに早い時間だし、何か食べに行こうか?」
幸太が沈黙を破る。
これ以上その話をすれば、峰子がまた悲しい顔をする。
それは、テレパシストじゃなくても分かる。
「ホント!? 最近忙しいって、全然付き合ってくれなかったもんね」
ぱっと表情を明るくして、峰子は幸太の腕に腕を絡める。
「じゃあ決まり。奢りね? 美味しいものがいいなぁ」
「はいはい。どこ行きたい?」
柔らかく笑う幸太の声に、峰子も安心したように微笑んだ。
――何かが、動き出している。
それだけは確かだ。
けれど、その時が来たら。
ちゃんと、守れる自分でいよう。
幸太は静かにそう決意した。
数日後、夕暮れの東京スカイツリー。
スカイ東京の建設以降、地上350メートルにあった展望デッキは、いまや『入り口』に格下げされた。
最先端の電波塔として世界を見下ろしていた時代は終わり、いまは高度280メートルの観光パンフレットにも載らない『過去の遺物』だ。
ガラス張りの展望デッキでは、かつての東京を映し出すモニターが延々と再生されている。
「昔はここまで人が住んでいたんですよ」と、音声ガイドが明るく説明する。
だがその裏には――『スカイ東京がどれほど素晴らしいか』を刷り込む、したたかな宣伝が潜んでいた。
さらに100メートル上にある展望回廊からは、スカイ東京の全景を一望できる。
それも今では、懐古趣味の老人や修学旅行の定番スポットとして、かろうじて息をしている程度。
――地上の象徴は、空の宣伝塔に落ちぶれた。
そんな時代を、誰が想像しただろう。
五月は、ひとり沈む夕日を眺めていた。
空は赤く燃え、海面は鏡のように世界を映す。
――それでも、どこか寂しい。
足音はなかった。
それなのに、確かに声だけが響いた。
「君が視ているのは、思い出――かな?」
背筋が凍る。
誰もいないはずの展望回廊に、『彼』は立っていた。
その姿は、光から切り取られた幻のようだった。
銀糸のような髪が、夕陽を受けて淡く輝く。
縁なしの眼鏡が静かな知性を装いながらも、その奥には底の見えない闇を潜ませている。
細く整った輪郭。
穏やかな微笑。
――それなのに、五月の中の本能が叫んでいた。
この人は、危ない。
「先日、三月サマに助けてもらったんだよ。姫川五月サマ」
……なぜ、三月を知っている?
その存在を知る者は、ごくわずかなはずなのに。
青年は、まるで日常の挨拶のように、静かに名乗った。
「僕の名前は――A’s」
その発音には、人の名とは違う『冷たさ』があった。
まるで、人工的な、記号としての存在。
『生まれた』というより、『造られた』という印象。
五月は、理由もなく背筋を冷たいものが這うのを感じた。
「君たちのお父様は、僕の君主。国家と、その飼い犬どもに――殺された」
空気が震えた。
世界が、ひび割れるように音を立てる。
「と、父さんは、事故で死んだんだ!」
「あるべきものを、あるべき場所へ――」
A’sはゆっくりと跪いた。
まるで王に仕える騎士のように。
五月の手を取り、その指先に触れる。
熱い――。
体の奥から、焼けつくような感覚が広がる。
視界が、溶けた。
レインボーブリッジ。
夜明け前の灰色の光。
一台のマイクロバスが停まっている。
後ろにはお台場。
これからお台場を出ようとするバスを停めるのは、バリケードと武装した集団。
サブマシンガンを手にし、鼠一匹通さないと威嚇している。
怯える子供たち。
銃を向ける大人たち。
その中に、『自分』と『三月』がいた。
これは……過去だ。
間違いない。
三月は過去を視る。
自分は未来を視る。
五月に疑うなんて存在しない。
バスから降りてきた武装した大人の手に、小さなクマのぬいぐるみがある。
それを見た五月が駆け出す。
そのぬいぐるみは三月の宝物で……大切な母の形見。
『来るなっ、化け物!』
放り投げられるぬいぐるみ。
五月に向けられる銃口。
パァーンと乾いた銃声。
父が、倒れた。
「――父さんッ!」
世界が弾けるように光を失い、
五月は展望回廊で息を呑んだ。
夢じゃない。幻でもない。
今、確かに『過去』が、目を覚ました。
――チチハ、事故デシンダ。
――チチハ、殺サレタ。
なぜ、忘れていた?
どうして、思い出せなかった?
八年前。
病院で目を覚ましたとき、父は『事故死』とだけ告げられた。
隣のベッドには、眠り続ける三月。
どれほど呼んでも、返事はなかった。
一ヶ月、二ヶ月――
医者が匙を投げ、研究者たちが出入りを始めた頃。
……五月の中で、三月が目を覚ました。
その後、二人は『能力者の孤児』として、特区の研究施設に送られる。
リミッターとブースター。
――あの忌まわしい研究の始まり。
一つの体に、二つの精神。
それは『神に選ばれた試験体』と呼ばれた。
記憶は削られ、
夢と現実の境が曖昧になっていく。
研究者たちは言った。
これは人類の進化のためだ、と。
……善悪なんて、とうに無意味だった。
彼らの『知的好奇心』だけが、すべてを壊していった。
しばらくして、五月のもとに一人の男性が現れた。
父の友人だと名乗るその男は、ずっと捜していたと、泣きそうな声で五月を抱きしめた。
『僕と一緒に行こう。五月、そして三月』
お読みいただきありがとうございました。
次回は三月の決断です。




