第10話『多々良さんの告白』
「どういうことだよ!? 告白止めたほうがいいって!?」
声が裏返るほど焦った俺に、蓮の声が、珍しく少しだけ曇っていた。
「今、練習の休憩中なんだけどさ……たまたま聞いちゃったんだよ。三年の先輩たちが話してて──桐生先輩、東高の彼女がいるっぽい。まだ確定じゃないけど、雰囲気的に……」
「……嘘、だろ……」
息が詰まる音が、自分でも聞こえた。
確かに、彼女がいる可能性は考えた。
でも、それなら普通はもっと分かりやすくなるもんじゃないのか?
特に、サッカー部みたいなキラキラリア充集団なら──情報はもっと前に出回ってるもんだと思ってた。
「蓮、お前それ……もっと早く知ってたら……!」
「いや、俺も初耳なんだよ! ほんとにごめん!……練習戻る! どうするかは冬真が伝えてやってくれ!」
通話がブツッと切れる。
静寂が、重たい。
「どうするも何も……とにかく、止めないと……」
すぐにスマホを握り直し、LINEを開こうと親指を動かしかけたその時──
「待って」
月島が俺の手を、そっと掴んだ。
いつもは冗談ばかりの彼女の顔が、今日はやけに静かで、柔らかく、どこか切ない。
「止めないほうが……いいと思う」
「……えっ?」
予想外の返答に、言葉が詰まる。
「おいおい、これ……ほぼ『負け戦』だぞ? 多々良は知らないんだぞ、相手に彼女がいるかもしれないって……!」
「……うん、それでも」
月島は俯いたまま、ぽつりぽつりと呟くように続けた。
「でもね……さくらちゃんは、中学生のときから、ずっと桐生先輩が好きで……。やっと、やっと近づけて……勇気を振り絞って、今日を決めたのに……。ここで止めちゃったら、何というか……告白したときよりも後悔しちゃうと思う……」
それは、いつもの月島じゃない声だった。
「そ、そう……か?」
俺は思わず聞き返した。自分の心に引っかかっていた何かを、月島が言葉にしてしまった気がした。
「『不戦敗』は『大敗』より……悔しいよ……」
月島は小さく笑った。だけどその笑顔は、どこか痛々しかった。
「勝てないかもしれない。傷つくかもしれない。けど……『言わなかった後悔』って、『フラれた後悔』よりずっと深いと思うんだよ」
「……」
俺は黙ったまま、スマホを見つめた。
すでにLINEを送るべきかどうか、指が止まったまま動かない。
「だから……迎えよう。何も言わず、全部終わって、戻ってきたさくらちゃんを。そのとき、話を聞いてあげればいい。西宮なら、きっと、うまく受け止められる」
月島がそう言ったとき、「隣にいる」ってこういうことなんだと理解した。
「……ああ、わかった。迎えるよ。何があっても、ちゃんと聞く」
「うん……それでいいと思う」
部室からは、先ほどまでの焦りも緊張も消えていく。
ただ、来るべき時間を、ふたりで静かに待っていた。
──だが、いくら経っても多々良は部室に現れなかった。
時計の針はとうに予定の時刻を過ぎている。
(おかしい……そろそろ練習も終わって、戻ってきてもいい頃なのに……)
「……さすがに、遅いよね」
月島も椅子に座ったまま、さっきよりずっと真剣な顔で呟いた。
「……やっぱ気になる! 月島はここで待ってて! 俺、多々良探しに行ってくる!」
「え、ちょっと──」
月島の制止を振り切って、俺は部室を飛び出した。
脚が自然と走り出す。教室でもない、昇降口でもない。
告白をする予定だった──体育館裏だ。
生徒の気配も少なくなった校舎を駆け抜けながら、頭の中で様々な可能性が渦を巻いていく。
(もしかして、振られて泣いてるとか……)
胸の奥がざわつく。
(先輩と話すことができたといってもまだ数日間……やっぱりまだ早いって止めたほうが……いや、でも先輩に彼女がいるなら早かれ遅かれ……)
あのとき止めるべきだったかどうかなんて、今更考えてもしょうがないことが脳内をめぐる。
雨音が響く渡り廊下を通り抜け、体育館裏に差し掛かったそのとき──
視界の端に、小さな人影が見えた。
体育館裏、屋根の下のベンチに、小柄なシルエット。
それは間違いなく、多々良さくらだった。
いつもより少しだけ小さく見える背中。
声をかけるべきか、迷った──でも、立ち止まっている場合じゃない。
「多々良!」
俺の声に、彼女の肩がピクリと揺れる。
ゆっくりと振り向いた顔は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「西宮くん……」
小さな声が、確かに俺を呼んだ。
「ごめんなさい……振られちゃいました……」
彼女の声は震えていたけど、それでも泣いてはいなかった。
「でも……話は、ちゃんと聞いてくれました。『ありがとう』って、言ってくれたんです。でも……もう、彼女がいるって……。届きませんでした……」
俺はなにも言えなかった。
言葉を選ぼうとしても、全部、軽すぎる気がした。
「そっか……」
ただ、それだけが絞り出すように出た。
しばしの沈黙のあと──
「──でもね、西宮くん」
多々良が顔を上げた。
瞳は濡れていて、それでもその目は、真っ直ぐだった。
「言えてよかったです……後悔は、してません……!」
灰色の空の隙間から、かすかな光が差し込み、彼女の頬を淡く照らしていた。
「でも……でもやっぱり……悲しいです……」
その瞬間、張り詰めていた何かがぷつんと切れたように、
多々良の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
声も上げず、ただ静かに、絶え間なく。
──その涙は、どこか凛としていて、美しいとすら思えた。
泣きじゃくるわけでも、崩れ落ちるわけでもない。
彼女は涙を拭こうとさえしなかった。
まるで、すでにこの事実にも、ちゃんと受け止めようとしているみたいだった。
止めるべきだったかもしれない。言うべきだったかもしれない──桐生先輩に彼女がいるという、あの情報を。
でも。
それでも。
「……よく、伝えられたと思う」
絞り出した声は、ただそれだけであった。
多々良は少しだけ、首を横に振った。
「……だって、背中を押してくれたの、西宮くんだから……」
その声は震えていたけど、芯の通ったものだった。
「私……伝えられないままだったら、ずっと後悔してた。だから……ありがとう……!」
彼女は、知っていたかもしれない。
何かを、察していたのかもしれない。
それでも自分の想いを、真っ直ぐにぶつけた。
きっと、正解なんてなかった。
多々良の言葉に、俺は黙って頷いた。
雨は、いつのまにか止んでいた。