枕元のコップ
私は毎晩、お守りと、水の入ったコップに塩を少々加えたものを、枕元に置くことにしている。
妻には「悪い夢を見ないための『おまじない』だよ」と言っているが、これには訳がある。
祖母との約束なのだ。
† † †
私の母方の祖母の実家は、○○県の山奥のお寺だった。
そのせいかどうかは分からないが、祖母は時々不思議なことを言うときがあった。
小学生高学年の頃、たまたま祖母が私の家に遊びに来ていたときのことだ。
お盆前の蒸し暑い夜だった。塾から家に帰った私が寝る準備を済ませて居間に入ると、座卓でお茶を飲んでいた祖母が私にこう言った。
「どげぇしたんな?」
「え?」
祖母は方言混じりの言葉遣いだった。私は分からないこともあったが、多分「何かあったのか?」という意味だったはずた。
特に思い当たることがなく、黙っている私に、祖母が重ねて尋ねた。
「何か、むげねぇち思うたことなかったか?」
「むげねぇ?」
「ああ、可哀想ちゅう意味じゃ」
私は今日1日の出来事を思い返した。ふと塾の帰り道のことを思い出した。
「あ、そういえば、塾から帰る途中で車に轢かれた子猫を見つけたんだ。もう死んでたんだけど、可哀想だなと思って……」
「そげんこつ、あったんな」
そう言うと、祖母は座卓から立ち上がり、私に手招きをして、台所へ向かった。何が何だか分からないまま、私は祖母の後について行った。
祖母は、台所に置かれていたガラスのコップを取り、水を入れると、塩をひとつまみ加えた。
「今晩は、これを枕元に置いち寝りゃあいいわ。あと、毎年送っちょる、あのお守りも」
「うん。分かった」
私は取りあえずそう答えると、祖母からコップを受け取った。
自室へ戻った私は、母親がすでに敷いてくれていた布団の枕元に水の入ったコップを置いた。そして、勉強机の棚に無造作に置いていたお守りを、コップの横に置いた。
このお守りは、祖母が毎年祖母の実家のお寺にお願いして送ってくれていた「身代観音」と書かれたものだった。
「こんな迷信、何の意味があるんだろ」
枕元に置いたコップとお守りを見ながら、私は苦笑した。
当時、背伸びして科学雑誌を読むなどしていた私は、こういった「非科学的」なものをバカにしていた。
とはいえ、小学生だ。照明を全て消して部屋を真っ暗にするのは何となく怖かったので、豆電球を点けて寝ることにした。
† † †
真夜中。豆電球の薄暗がりの中、ふと目を覚ました私は、仰向けで寝たまま、体が動かないことに気づいた。
体質なのか、金縛りは何度か経験していたが、今回のは違った。目だけはちゃんと動くのだ。
私は必死に目を動かして辺りを見回した。怖くて怖くて叫びたかったが、声を出すことは出来なかった。
目を動かして見られる範囲には、何もいなかった。
ホッとしたそのとき、何かの音が聞こえた。
ぱたん、ぱたん……
何か小さいものが畳の上に落ちる音。枕元、頭の上の方から聞こえる。
私は必死に目を頭の上に向けた。よく見えないが、薄暗がりの中、何かが動いているようだった。
すると、一瞬、何かの影が視界ギリギリに入った。私は頭の上の方を見続ける。
再び、何かの影が見えた。枕元の同じ場所で、何かがジャンプを繰り返しているようだった。
ぱたん、ぱたん……
畳に落ちる音が続く。そのとき、金縛りが解け始めたのか、首が少し動くようになってきた。
恐怖で涙目になった私は、必死に首を反らせて、頭の上の方に目を向けた。
枕元のコップが見える。コップの中の水が、ゆらゆらと揺れていた。
私はコップの隣に視線を移す。心臓の音がドクン、ドクンと身体中に響く。
視線の先では、ぱたん、ぱたんと、お守りが宙に浮いては落ちていた。
そして……
目を凝らすと、薄暗がりの中、逆さまになった血だらけの子猫の頭部が、こちらを見ながらお守りを口に咥え、飛び跳ねていた。
† † †
「わーっ!!」
私は大声で布団から飛び起きた。
窓の外が仄かに明るい。スズメの鳴き声が聞こえる。いつの間にか早朝になっていた。
「何だ、夢か……」
汗で濡れた額をパジャマの袖で拭きながら、私がホッとしていると、部屋のドアが開いた。祖母だった。
「大声上げて、どげぇした?」
私は、祖母に昨晩の「夢」のことを話した。
「そうか。ひっくりさまの猫の頭がのう……」
祖母がそう言うと、私の枕元で正座をした。
「この水とお守りが、お前を一晩中守っちくれちょったんやなあ」
よく見ると、コップの中の水は寝る前の半分になっていた。
祖母が枕元に置かれたお守りをそっと手に取った。
お守りの裏側には、まるで乾いた血のような、褐色のシミがついていた。
「お前は優しい子やけん、色々と憑いち来る……」
祖母はそう言うと、お守りを押し戴き、短いお経を唱えた。
「無理に引き離すと危ねえ……これからは、このコップの水とお守りを必ず用意しち寝らないけん。お前を守っちくれるけんな」
私は何度も頷いた。
† † †
あれから長い年月が経った。祖母はすでに他界し、私も年を取った。
今思えば、あれは単なる「夢」だったのかもしれない。コップの水は、単に蒸発しただけだったかもしれないし、お守りの褐色のシミは、以前に何か飲み物をこぼしたことがあったような気もする。
けれど、私は今でも毎晩、寝る際はコップとお守りを欠かさず枕元に用意している。
非科学的だと思いつつ、祖母との約束だから、祖母との大切な思い出を忘れないためだから、と自分自身に釈明しながら、ずっと続けている。
そんな私の気持ちが影響しているのか、時折、枕元で「ぱたん、ぱたん」というお守りが宙に浮いては落ちる音とともに、複数の何かが飛び跳ねる気配を感じることがある。
そういうときは、私は決して目を開けず、無理矢理眠ることにしている。きっと空耳、気のせいに違いない。
その音や気配のあった翌朝は、決まってコップの水が空になり、塩がコップにこびりついている。実害はない。ただそれだけだ。
今晩も、私はコップとお守りを持って寝室へ向かう。あの「ぱたん、ぱたん」という音が聞こえないよう、そして、これ以上何かが増えないよう祈りながら。