そいつ大丈夫なのか?
テツが成長している。それが痛いほど分かるからこそ、私は心の中に強い焦燥感を抱いていた。彼が自分の「軸」を見つけ、それを支えるためにまっすぐ前に進もうとしている姿。そんな彼を見ていると、私も何か変わらなくちゃいけないと思うのに、私には「軸」が何なのかさえ分からない。
自分の部屋で机に向かい、教科書を広げてみても、まったく頭に入らない。気づけば、心の中はテツのことばかりだった。彼が話していた「まっすぐ生きる」という軸。そのために必要だと彼が言った三つの強さ――流されない強さ、正直でいる強さ、結果を怖がらない強さ。どれも、私に欠けているものに思えて仕方がない。
(私の軸って、何だろう?)
自分に問いかけても、何も浮かんでこない。ため息が出るばかりだ。私は自分がどう生きたいのかさえ、分かっていないんじゃないだろうか。
次の日、学校で友達と過ごしている間も、心の中ではずっと「私の軸って何だろう」と考え続けていた。友達は、私を「ナオって真面目だよね」「優しくて頼りになる」と言ってくれる。それが嘘じゃないことも分かる。でも、それが本当の私なのかと言われると、答えに詰まる。
(優しいって言われるのは悪いことじゃない。でも、それって私の軸なの?)
違う。そうじゃない。漠然とそんな気がした。
放課後も、気持ちは晴れないままだった。私だけが取り残されているみたいな感覚が抜けない。テツはあんなに前を向いているのに、私はどうしてこんなに足踏みしてるんだろう。
夜、自分の部屋でベッドに腰掛けながら、天井を見上げた。自分の軸を見つけなきゃ、でも見つからない。そんなことばかり考えているうちに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
(こういう時、どうしたらいいんだろう…)
私の中で、ふとヒトミの顔が浮かんだ。彼女なら、私に率直な意見をくれるはずだ。いつも言葉は少しきついけど、その分、彼女の言葉には真実味がある。ヒトミの言葉で背中を押されたことだって、これまで何度もあった。
スマホを手に取り、彼女に連絡しようかどうか一瞬迷う。でも、もう考えているだけではどうにもならない。私は意を決して、彼女の名前をタップした。
メッセージを送る。
「ヒトミ、ちょっと相談があるんだけど、話せる?」
すぐに返事が来た。
「何よ、またテツのこと?」
その言葉に苦笑いしつつも、私は次の言葉を打ち込む。
「ちょっと違うけど、会って話せるかな?」
ヒトミからは「いいよ、明日放課後時間ある?」と返事が来た。そのやり取りだけで少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
その日の放課後、私はヒトミとカフェのテーブルを挟んで座っていた。彼女の前にいると、いつも自分が少し情けなく見える。でも、今日はどうしても彼女に話を聞いてほしかった。
「で、ナオ。今日は何?テツとなんかあった?」
ヒトミはストレートな口調でそう聞いてくる。私が何も言わなくても、彼女には私の悩みが透けて見えているみたいだ。
「…ううん。そういうわけじゃないの。ただ、なんていうか……最近テツがどんどん変わってる気がして、私、何も変わってないなって思うの。」
言葉にするのが怖くて、少し曖昧に伝える。それでもヒトミはすぐに反応する。
「なるほどね。でも、それってテツのせいじゃないでしょ?ナオが変わりたいなら、自分で動かなきゃさ」
彼女の率直な言葉に、私は少しうつむいてしまう。
「…分かってる。でも、私にはどうしたらいいのか分からないの。自分の軸が何なのかも分からないし、自分がどうなりたいのかも全然見えなくて…」
そこまで言ったところで、ヒトミは軽くため息をつきながら私を見つめた。
「ナオさ、好きな自分ってどんな瞬間?」
「好きな自分…?」
突然の質問に戸惑う。好きな自分?そんなこと、考えたこともなかった。
「うん。例えばさ、『この瞬間の自分、好きだな』とか、『これをしている自分が好きだな』とか、そういうの」
ヒトミの問いに私は少し考え込む。思い浮かぶのは…やっぱり。
「テツといるときかな…」
そう答えた瞬間、ヒトミは呆れたように目を細めた。
「またテツ?じゃあそれって具体的にどういうとき?テツといるどんな瞬間が好きなの?」
彼女の質問に、私はさらに自分の気持ちを探ろうとする。テツと一緒にいるとき。どんなときだろう?
「うーん、テツと話しているときに、なんか素直になれるというか、自然に笑える自分が好きかな…」
そう答えながら、自分がどれだけテツに依存しているかが少しずつ見えてきた。
「はぁ…またそれか」ヒトミはあきれたようにため息をついた。「じゃあさ、テツといないときは好きな自分でいることはできないの?」
その言葉が、胸にズキンと刺さる。
「それは……」
私はすぐに答えられなかった。でも、確かに昔は違ったような気がする。テツといるとき以外にも、自分が好きだった瞬間はあったはずだ。
「昔はそうだったかもしれない…」
小さな声でそう呟くと、ヒトミは少し意外そうな顔をして私を見た。
「ならさ、その好きだった自分をもう一回思い出してみたら?ナオがどんな自分でいたいのかを考えるためにも、過去とちゃんと向き合ってみたらどう?」
ヒトミの言葉に私はハッとする。過去と向き合う。そんなこと、考えたこともなかった。
「過去か…」
私は小さく呟きながら、ふと小学校の頃のことを思い出した。あの頃の私はもっと社交的で、無邪気で、みんなに愛されていた。けれど、それがきっかけで女子から反感を買い、無視されたり嫌がらせを受けたりしていたことも…。
その記憶が、今の自信のなさに繋がっているのかもしれない。
「過去の自分か…」私は小さく繰り返す。
「そう。それでさ、ナオ。過去の自分をもう一度掘り起こしてみて、それでもう一度『好きな自分』を見つけなよ。そしたら、今のナオも少し変われるかもしれないじゃん?」
ヒトミは軽く笑いながらそう言った。その言葉はどこか軽やかだけど、私の胸には深く響いた。
私は自分がどうしようもなく立ち止まっているように感じていた。テツは自分の「軸」を見つけ、それに向かってまっすぐ進もうとしている。一方の私は、自分の軸が何なのかさえ分からず、漠然と焦燥感だけが募っている。
ある晩、私は自室で卒業アルバムを引っ張り出してきた。過去の自分と向き合う必要がある――ヒトミに言われたその言葉が、ずっと頭に引っかかっていたからだ。ページをめくると、小学校の頃の写真が現れる。無邪気に笑っている私の顔がそこにあった。
寄せ書きのページを見ていると、懐かしい言葉が目に飛び込んでくる。
「ナオがいてくれたから、クラスが明るくなったよ」
「いつもナオに頼っちゃってたけど、本当に感謝してる」
私はその文字をじっと見つめた。思い返せば、小学校の頃の私はみんなと仲良くしていたし、人を支えるのが好きだった気がする。でも、次の瞬間、嫌な記憶もよみがえってくる。女子たちから無視されたり、陰口を叩かれたり――それでも私は、表面上は笑顔を保っていた。
そのときの自分を思い出し、ノートに書き留める。
「私は昔、誰かを支えることで自分の価値を感じていた。でも、それが自分を苦しめることもあった」
ノートにそう記すと、胸が少し軽くなる気がした。
次の日、私は夕食の時間に意を決して両親に聞いてみることにした。
夕食の時間、意を決して「昔の私ってどんなだった?」と両親に尋ねた私に、母と父は少し驚いたような顔をした。でも、母はすぐににっこりと笑い、答えてくれた。
「ナオはね、昔はすごく明るくて社交的で、みんなの輪の中心にいたわね。どこに行っても友達ができて、よく笑ってた。それでいて、困っている子を見たら放っておけない優しい子だったわ」
その言葉を聞いて、私は少し嬉しかった。でも同時に、今の自分と比べて違いを感じてしまう。小学校の頃の私は、そんなふうに輝いて見えたのかな…。
「でもね、あの頃は無理してた部分もあったかもしれないな」と父がぽつりと口を挟んだ。「クラスのリーダーみたいな立場だったけど、時々疲れてるように見えたよ。家ではぐったりしてたこともあったしな」
「…確かに」と母も頷く。「ナオは一生懸命で優しいから、つい自分を後回しにしちゃうところがあるのよね。でも、最近はそれが少し変わってきた気がするのよ」
母が意味ありげな笑みを浮かべながら私を見つめる。
「えっ、そうかな?」と私は思わず聞き返した。
「ええ、そうよ。昔のナオに戻ってきた感じがするの。きっと…テツ君と付き合ってからじゃないかしら?」
その一言で、父の動きがぴたりと止まった。
箸を持ったまま、口を半開きにして固まる父。その瞬間の静寂に、私は思わず吹き出しそうになる。
「お、おい、ナオ、テツ君って誰だ、あの…もしかして…その…彼氏とか…」と、ぎこちない声で父が確認してくる。
「ちょっとママやめてよ!パパの前で」と私は苦笑いしながら答える。
母はお構いなしに続ける。「だって、テツ君の事話す時のナオ、すごく自然でいい顔してるもの。ほら、最近はまた無邪気に笑ったり、前向きになったりしてるでしょ?それってきっと、テツ君のおかげよね」
「いやいやいやいや…!」と、父が突然大きな声を出して身を乗り出してきた。「それってつまりだな、ナオ、お前はそいつに全部影響されてるわけか!?そ、そいつ大丈夫なのか?」
「そいつって…」私は苦笑しながら首を振る。「テツはいい人だよ。パパ、そんなに心配しないで」
母はさらに追い打ちをかけるように笑いながら言った。「いいじゃない、ナオが幸せそうなんだから。お父さんも安心して、ね?」
「安心…ねぇ…」父はぶつぶつと呟きながら、どこか悶々とした様子で箸を置いた。
「でも、パパが固まった顔、なんか面白いよ?」と私は冗談めかして言った。
母はそれに大きく頷き、「ねえ、ナオ。やっぱりお父さんって昔からこういうとき不器用なのよね」と笑った。
そのやりとりに、私は久しぶりに家族の温かさを感じながら笑い、なんだか胸の中が少し軽くなった気がした。
「でもナオ、あなたは誰かを助けるのが得意だけど、自分もちゃんと大事にしないとね」
母のその言葉は、深く胸に響いた。
自室に戻り、私はノートを広げてペンを走らせる。
「私の軸は、人を支えること。でも、それだけじゃダメだ。自分を犠牲にしすぎると、本当に支えたい人を支えられなくなる」
これまで、人を支えることに喜びを感じていた自分。それは嘘ではないけれど、どこかで無理をしてきた部分があった。自分の心の声を無視しながらでは、きっといつか限界が来る。
私は自分の軸を明確にするために、さらに自分に問いかけてみた。
「本当に大切にしたい人は誰?」
「私はどんなときに一番自分らしいと感じる?」
「過去の自分と今の自分を繋ぐものは何?」
ノートに書き出した問いに、少しずつ答えが浮かんでくる。
「本当に大切にしたい人は、今はテツ。そして家族、そしてこれから出会う大切な人たち」
「一番自分らしいと感じるのは、素直な気持ちで人に向き合っているとき」
「過去の自分と今の自分を繋ぐものは、人を支えること。でも、それだけじゃなくて、自分の気持ちも大事にすること」
気づきが少しずつ形になり、私はその夜、自分の軸をノートにまとめた。
「私の軸は『支え合うこと』。誰かを支えながらも、自分の心を守り、正直に生きる」
次の日、私はノートを閉じて、軽く息をついた。そして、その決意を誰かに話してみたくなった。誰に話せばいいだろうか?やっぱり――テツだ。
放課後、私はテツにメッセージをする。
「テツ、これからちょっと時間ある?」
テツはすぐに「もちろんいいよ!」と答えてくれた。
二人で公園のベンチに座ると、私は少し緊張しながら、自分の考えを話した。
「私ね、最近ちょっと自分を変えたいなって思ってて…自分の軸を探してみたの」
テツは静かに頷きながら、私の話を聞いてくれる。
「まだ完全に見つけられたわけじゃないけど…『支え合うこと』が私の軸なんじゃないかなって思うの。でも、それには自分を大事にすることも含めたいなって」
話し終わると、テツは少し微笑んだ。
「ナオらしい軸だな。でも、それってすごくいいと思うよ。俺も見習わなきゃ」
その言葉に、胸が少し温かくなるのを感じた。テツに聞いてもらえたことで、私の決意は少しずつ固まっていく。
自分の軸を持つことで、テツと対等な立場で支え合える関係になれるかもしれない。そんな未来を思い描きながら、私は新しい一歩を踏み出す決意をした。




