新しい日常と中学の記憶
野球を辞めた後の新しい日々が僕の周りを彩り始めた。
野球部を辞めたことで生まれた時間は、自然とクラスメートとの関係を深めるきっかけとなり、横浜の街で過ごすことが日常になった。スケボーやサーフィン、最新のファッションに夢中な友人たちと過ごし、僕もその流れに身を任せていた。
気がつけば、自分もその一部になり、昔の自分とは少し違った新しい自分に溶け込んでいた。
休み時間には、クリやジュンと一緒に放課後の予定を立てるのが日常の一部で、「元町の古着屋に行こうぜ」とか「ナオたちも誘ってカラオケ行かないか」といった会話が当たり前になっていた。
中学の友人たちとも、少しずつ距離ができていくのを感じた。
地元の駅で偶然会うことがあっても、話しかけるのがどこかためらわれ、声をかけても昔のように笑い合える自信がなかった。そんな中、彼らからは「テツ、変わったよな」とか「なんで野球を辞めたんだ?」という言葉をかけられることが多く、それが煩わしく思えていた。
「過去はもう戻らない。今を生きればいいんだ」と、自分に言い聞かせるように日々を過ごしていたが、どこか胸の奥にくすぶる感情が消えることはなかった。
場の雰囲気に流されて人間関係も変化する。新たなな出会いは昔の関係を希薄化する。僕たちの間にかつてあった何かが、静かに消えつつあるのを感じる。
中学時代は、野球を通じて築いた絆があった。
部活に打ち込み、汗を流し、悔しさを分かち合った仲間たち。けれども、高校に進学し新しい環境に身を置く中で、その絆は少しずつ薄れていった。
互いに存在を意識しつつも、いつの間にか再び友人としての関係を築けなくなっていくのだ。
僕は、周囲の目が変わることを恐れていた。高校でも野球部の友達から徐々に離れて会話をする事も無くなっていった。そこからはクリとジュンとの付き合いに重きを置くようになった。そしてその友達と横浜へ行き、街での自由な生活を楽しんでいた。
野球部に残り続けて毎日練習している奴らの事を見て心の中でつまんない奴らだと言い聞かせた。
「今日はダーツでもやりに行くか!」
休み時間にジュンが提案する。最近ジュンはダーツとビリヤードにハマっているという事は聞いていた。
横浜へは電車で15分。
いつものように西口に降り立ち永遠に工事をしている横浜駅を左手にジョイナスを抜けてビブレの方へ向かう。
「あっテツ!」
遠くから声がした。
振り向くと美園菜穂だった。
入学してすぐ、クリやヤックン、他の中学出身の奴らと互いの卒業アルバムを持ち寄り、カワイイと思った子に連絡して遊ぶ事を繰り返したり、横浜で可愛い子を見つけてはダメ元でナンパをしたりしていた。その中の一人がナオだった。
ナオは元町の学校に中学から通っていて、横浜での遊び方や横浜の情報など様々なことを僕たちに教えてくれた。
僕たちはこのナオに横浜の住人として育てられたようなものだった。
ある日ナオが僕に言った。
「テツさあー髪の毛伸ばしてみたら。テツはカッコいいし、絶対横浜で有名になると思う。伸ばしてみたら。」
髪の毛を伸ばし始めたのはナオの影響だった。
野球を辞め、髪の毛を伸ばし、毎日のように横浜に遊びに行く。
僕が中学のころの自分と変わったのはこれだけだと思っていた。
「なにしてんの?もしかしてナンパ?この前ユリが見たんだって。テツとクリがナンパしてるの。
結構目立っちゃうみたいだねテツ達。悪いことできないよ。」
少しドギマギ。
僕はナオの明るさが好きだった。でも気持ちは伝えられないでいた。きっと振られるだろうし、今が楽しかった。関係を深める勇気は僕には持てなかった。
「違うよ、休憩しながらなにしよかなって考えていたんだよ。なにもしかしてナオ暇なの?」
ナオは自分の電話をスクールバックから取り出す。
「今日は夜から、遊ぶ約束があるんだ。それに誘われてて。あんまり行きたくないんだけど…。テツ達が暇だったら行くのやめようかなぁ。」
「ちょっと待って……もしもしあっマイ。今日って暇?……実は……そう私行けなくなっちゃって、変わりに行ってくれない?……本当!ありがとう。六時半西口ね。ユリがいるから!」
「暇になったよ。やったテツと遊べる!一緒に遊ぼ。」
「テツとりあえずオレ腹減った。なんかくわねぇ。マックでも行くか。」
高校生の僕らが行くのは、西口のスタバ、マック、ドトール、サイゼリヤあたりだった。
「でさぁ…そうそう。へぇ………
マジ~?………ははは~。
クリなんかさぁ………違っ!俺関係ない…………マジ!」
いつもと同じたわいない会話。
みんなといると、いつも笑顔でいられる。
野球やってた時はどうだったのか?
毎日一つの事に集中して、集中し過ぎて、その時間、その空間の自分の表情、感情…思い出せない。
でも今の方が1日を長く有意義に過ごせる。笑顔で過ごせる。それは間違いと思う…。
◇
中学一年の頃、僕の身長はクラスで前から数えたほうが早いくらいだった。三年生はまるで大人のように見えたし、二年後に自分がそうなるなんて想像もできなかった。
体も心も、まだ成長途中。僕は小学生の延長線上にいるような感覚で、制服を着ているだけで「中学生」らしいところなんて足の速さと野球くらいしかなかった。
それに比べて、周りの同級生たちは早くも異性を意識し始めていた。
でも僕は、それを避けるように「子供」を装っていた。自信がなかったんだ。
女の子と話すときも、無邪気さを演じて「かわいい」と言われることでしか、関わりを持てなかった。
自分で子供を演じておきながら、「子供」としてしか見られないことが我慢できない。そんな矛盾に気づいても、どうすることもできなかった。
野球部では、僕のようにリトルリーグ経験者が多かったが、中には中学から野球を始めたメンバーもいた。
30人もの同級生がいる中で自然とグループができる。リトルリーグ出身のエリート集団、馴染めない者たち、そして初心者の集団。
その中に、背が高くて目立つ存在なのに、人見知りでいつも小さなグループでいるカヅキがいた。
彼はすでに173センチもあったけれど、自分の居場所を探しているように見えた。
僕は自然とエリート集団に馴染んだ。
野球が得意だったし、そこでならリーダーシップも発揮できた。でも、学校生活では騒ぎ回る「子供」を演じる僕がいた。
どちらが本当の自分なのか、僕にはわからなかった。ただ一つわかっていたのは、どちらの自分にも違和感があったということだ。
日曜日の午後、僕ら一年生だけの紅白戦があった。三年生が引退し、新しいチーム作りのための試合だ。リトルリーグ出身の僕らは、エースのヒカルと別のチームに分けられ、僕はカヅキと同じチームになった。
ヒカルは小学校の頃からのライバルで、彼の存在はいつも僕にプレッシャーを与えてきた。
ヒカルはどんな場所でも変わらない強さを持っていた。チームでも学校でも、彼は常に同じでいられる。僕が本当になりたかった姿だった。
試合はヒカルの圧倒的なピッチングで進み、3回を終えて0-3で負けていた。僕が放ったポテンヒット一本だけが唯一のヒットだった。
7回、試合終盤。僕はヒカルの球をセンター前に弾き返し、一塁から二塁への盗塁も決めた。
ノーアウト二塁のチャンス。しかしその後、ヒカルは簡単に二つのアウトを取り、迎えたのはカヅキの打席。
「期待できないな…」
ベンチの空気がそんなムードだった。カヅキもこれまでほとんど凡退ばかりだったからだ。
でも、その時だった。2ストライクからの5球目、カヅキのバットが放った打球はライトの頭を大きく越えた。校庭のフェンスのないエリアで、ボールはどこまでも転がっていく。カヅキの一打で1点を返し、チームは湧き立った。
その後、僕らは逆転勝ちを収めたが、あの日の試合は僕にとっても、カヅキにとっても忘れられないものとなった。
カヅキは、あの一打で自らの居場所を作り上げたのだ。たった一度のヒットが彼の立場を、そして僕たちとの関係を変えた。カヅキが「仲間」として迎えられた瞬間だった。
試合が終わり、帰り道のコンビニで僕らは紅白戦の話で盛り上がった。話題の中心はもちろん、カヅキだった。
「カヅキ、本当にすごかったよな。あの打球、普通の球場ならフェンス直撃だっただろ!」
「いや、たまたまだよ。ヒカルの球の勢いで飛んだだけだよ。」
「それでもあんな打球、そうそう打てないよ!」
カヅキは控えめに笑っていたが、少し誇らしげにも見えた。そしてふと、こんなことを口にした。
「俺さ、小学校の時から本当は野球がやりたかったんだ。でも…いろいろあってできなくて。だから、中学では辞めたくないんだ。」
その言葉に、僕はカヅキの気持ちが少しわかるような気がした。やりたいけど、できない。自分を表現したいけど、できない。その葛藤は、僕も同じだった。
ただ一つ違うのは、カヅキは自分の気持ちを素直に表現できること。僕は彼のように「自分」を貫けない。僕は周囲に合わせて自分を変えることで、居場所を確保してきたからだ。
カヅキの打球があの瞬間、彼自身の環境を変えたように、僕にも何か「きっかけ」が必要だった。でも、それを見つける勇気が僕にはなかった。
コンビニで笑い合う仲間たちの中にいながらも、僕はどこかで孤独を感じていた。この場にいる自分が本当の自分ではない気がしてならなかった。