可愛い後輩
ヤマとヒトミが横浜の街に消えていった後、僕は一人、秋の風が吹く道を歩いていた。ヤマとヒトミとの会話が頭の中で何度も反芻される。
ヤマは『カッコよく生きる』ことを軸にしていると言っていた。ヒトミは『一番輝いている私でいる』こと。それぞれが自分なりの「軸」を持ち、迷うことなく生きているように見えた。
一方で僕の軸は、「まっすぐ生きる」こと。それを形にするために必要な三つの強さも、ヤマのおかげで見えてきた。
—流されない強さ
—正直でいる強さ
—結果を怖がらない強さ
この三つの強さを身につけることで、僕は「まっすぐ生きる」ことができる。でもどうやってそれを手に入れるのか、まだ全くわからない。
ただ、一つ確信していることがある。
あのとき、この三つの強さがあれば、俺はカヅキを救えた。
その思いが頭を離れない。僕がもっと強ければ、もっと正直でいられたなら、もっと勇気を持って向き合えたなら、あのときカヅキに声をかけていたかもしれない。そうすれば、何かが変わっていたかもしれない。そんな後悔が胸に広がる。
「でも、今さら後悔しても仕方ないんだよな…」
自分に言い聞かせながら、僕は無意識に過去を思い返していた。野球をしていた頃の自分の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
試合中の自分は、今よりずっと強かった気がする。自分を信じ、勝利のために全力で挑む姿勢があった。結果がどうなろうと、それを怖がることもなかった。そして何より、仲間たちと一緒に努力しながら、常に正直な気持ちでいた。
あの頃の僕は、確かに「まっすぐ生きていた」。
でも、気づくと僕は野球から離れ、ナオといる時間の中で違う自分を作っていた。
ナオといるときの僕は、いつも「頼る自分」だった。ナオが支えてくれるから、自分を偽らずにいられた。彼女の存在が僕を救ってくれたけれど、それは「ナオがくれた強さ」だった。
でも、それは本当の意味で僕自身の強さではない。
ナオの優しさに甘えて、結果を恐れ、自分を正直にさらけ出せない自分。そんな僕が、このままナオと一緒にいていいのだろうか?
———『ナオが見ているのは、本当はもっと強い僕のはずだ』
このまま弱い自分のままでは、ナオの隣に立つ資格なんてない。彼女を支えるためには、まず自分の弱さを乗り越えなければならない。
ふと、ナオの言葉が頭に浮かぶ。
「どんな君でも君は君だよ」
その言葉がどれほど救いになったか、今でもはっきり覚えている。だけど、ナオに頼らないといられない僕のままでいてはいけない。僕が望むのは、ナオに頼らず、自分で自分を信じられる強さを持つことだ。
そう気づいた瞬間、僕の中に一つの決意が生まれた。
もう一度、あのときの強い自分を取り戻そう。
野球をしていた頃のように、自分を信じて結果を恐れず、まっすぐな気持ちで挑む強さを取り戻そう。それが僕の「まっすぐ生きる」という軸につながる。
そして、もう一つ分かったことがある。
僕にとって一番大切なものはナオなんだ。
彼女がいたから、僕はここまで生きてこれた。でも、今度は僕が彼女を支えられる強い自分になるんだ。そう決めた。
僕は家に帰り、久しぶりにクローゼットを開けた。そこには、野球をやっていた頃に使っていたトレーニングウェアがあった。手に取ると、少し色褪せたそれが懐かしい感覚を呼び起こしてくれる。
「よし…これだ」
トレーニングウェアに袖を通し、ランニングシューズを履く。鏡に映る自分の姿に、少しだけ決意の表情が浮かぶのを感じた。
外に出ると、初秋の風が肌を撫でる。冷たい空気が肺に入り、心を研ぎ澄ませてくれる。
走り出すと、身体が少しずつ軽くなっていくのを感じる。風が耳を通り過ぎる音、足がアスファルトを叩くリズム。それらがすべて、自分が前に進んでいることを実感させてくれる。
「ナオ、俺は絶対に強くなるよ。もう頼るだけじゃなくて、君を支えられる俺になる」
心の中でそう呟きながら、僕は初秋の街を走り続けた。過去を取り戻すために。そして、未来の自分のために。
あの頃の自分を超えるために、僕はもう一度挑戦を始める。
◇
次の日、テツは今までぐちゃぐちゃになっていた感情が、ヤマやクリのおかげで少しずつクリアになってきていることを実感していた。
彼らと話すことで、自分が目指すべき姿が明確になり、未来に向けた道筋がぼんやりと見え始めていたのだ。その分、今まで以上に勉強にも集中できるようになっていた。
だが、そんな日々が続く中、ふと学校が終わると、これまで気に留めていなかった校庭が気になった。
野球部を辞めてから意識的に避けていた場所だったが、放課後の校庭にはかつての自分と同じように部活動に打ち込む生徒たちがいた。
サッカー部の元気な掛け声、陸上部の軽やかな足音、そしてバスケットボールが地面に弾むリズミカルな音――それらの音が一つになり、にぎやかな放課後の雰囲気を作り上げていた。
その感覚を思い出したくて、テツはひとりベンチに腰掛け、懐かしさを噛みしめていた。
「テツ先輩、何してるんですか?こんなところでボーッとしてるなんて珍しいですね。」突然、明るい声が頭上から響く。
顔を上げると、肩までのショートボブが風に揺れる、目を輝かせた小柄な女の子が立っていた。彼女は秦野葵という一年生の女の子だった。その子はバスケットボールを片手に抱え、テツを見下ろしながらニコニコと笑っていた。
「ん…ちょっと、勉強続きで疲れててな。」テツは少し曖昧な返事をしながら視線を逸らす。
「えー!勉強ばっかりしてたら、余計に頭がぼんやりしちゃいますよ!こういう時こそ、体を動かしてリフレッシュしなきゃ!」と、アオイは遠慮なくテツの手を引っ張り、そのまま引きずるようにして立ち上がらせた。
「いや、俺、バスケはあんまり得意じゃないんだよ。」テツは少し困惑した表情を浮かべながら抵抗を試みたが、アオイはそんな言い訳をまったく聞く耳を持たないようだった。彼女はにっこりと笑いながら、持っていたバスケットボールをテツに押し付ける。
「そんなこと関係ないですって!先輩、やってみたらきっと楽しいですから!さあ、ほら、一回シュートしてみてください!」
テツは仕方なくボールを手に取り、コートの端に立つと、軽く構えを取った。
その瞬間、頭の中に静かな集中が戻ってきた。勉強や将来のこと、悩みごとで曇っていた心が、ふと一瞬だけ澄み渡るような気がした。
テツは自然と膝を曲げ、ボールを放る。その動作はとても滑らかで、一切の無駄がないものだった。
「うわっ!」アオイの驚いた声とともに、ボールはまっすぐにゴールへと吸い込まれ、軽やかな音を立ててネットが揺れた。
「すごい!先輩、めっちゃ上手いじゃないですか!」アオイは目を丸くし、興奮したように手を叩く。
「いや、ただの偶然だよ。」と言いかけたテツは
『流されない強さを身につける』
と心に言い聞かせて「俺は実はスポーツは昔からなんでもできたんだ」とテツは少しぎこちない自信をのぞかしてそう伝えた。
それを聞いたアオイは
「テツ先輩って怖い人だと思ってたんですけど、実はなんかかわいいですね」
「か、かわいい??」
でも、テツの顔は先ほどまでの疲れや曇りが薄れ、心からの喜びが滲んでいた。ボールを再び手にすると、彼は久しぶりに体を動かす楽しさを思い出し、自然と次のシュートを試してみたくなっていた。「やっぱり、体を動かすのって楽しいな…」
アオイはそんなテツの様子をじっと見つめ、にこりと微笑んだ。「でしょ!だから、もう一回やりましょう!」彼女は軽く飛び跳ねながら、テツに新しいボールを渡した。
その楽しそうな笑顔につられて、テツも自然と次のシュートに挑戦する気持ちになった。
何本かシュートを打つうちに、テツはどんどんリズムを取り戻していった。
テツは久しぶりに体を動かす楽しさを思い出していた。ボールを手に取り、次のシュートを試してみる。手から離れる感覚、ネットを揺らす音、体が自由に動く喜び――それらが心の曇りを吹き飛ばしていくようだった。
「やば、うまくない?」
いつの間にか見学する生徒が増えてきている。
テツは知らず知らずのうちに笑顔を浮かべ、何度もボールをゴールに向かって放っていた。
アオイはその様子を少し離れたところから眺めていた。アオイはそんなテツの姿をじっと見つめ、微笑みながらそっとつぶやいた。
「…テツ先輩やっぱりかっこいいな」
その言葉の裏には、彼女なりの決意が宿っていた。




