旦那様、お覚悟を! 〜愛されない妻は包丁を握り締める〜
「ねぇ、わたしの食事に野菜を入れないでって言ったわよね?」
異母妹のユミリアが皿を薙ぎ払い、床に料理が散乱した。
野菜嫌いの彼女のために細かく刻んだ野菜とひき肉入りのオムレツを作ったが、お気に召さなかったようだ。
「野菜も食べないと食事のバランスが……」
「口ごたえする気なの? 妾の子のくせに」
苛立った様子で私を睨みつけてくるユミリア。
私の両親は仲が良く、愛し合っていたが世間から見れば田舎の弱小貴族と平民なのに娶られた側室でしかなく、妹にとっては邪魔者でしかない。
「騒がしいわね」
食堂の扉が開かれて妹に顔立ちがそっくりな女性が入ってくる。
ウインダム男爵家の正妻であり、屋敷の女主人であるミカエラ奥様だ。
「お母様! メイリンがわたしにいじわるをしてくるのよ!」
「こんなにかわいい子に酷いことをするなんて異国生まれのあの女に似て卑しい娘ね。さっさと片付けなさい」
「かしこまりました奥様」
大事な愛娘を慰めながら掃除を始める私を冷たい目で見下ろす奥様。
「そうだ、メイリン。片付けを終わらせたらわたくしの部屋に来なさい。今後のお前の処遇について大事な話があります」
「承知致しました」
今後の処遇?
これ以上何か仕事をさせられるのだろうか。
「ばいばーい。混ざりものの役立たず」
意地の悪い笑みを浮かべて言葉を吐き捨てたユミリアは奥様に手を引いてそのまま食堂から出て行った。
母から遺伝した黒色に父と同じ銀色が一部混じっている頭髪。
私が間違いなく両親の血を受け継いでいるという証なのに、今は誇らしいと思えない。
一人だけ残された私は心を抑え込んで無にしながら割れた皿のカケラを拾い上げるのだった。
♦︎
「ここが、アギーラ辺境伯領……」
どんよりとした暗い空の下、私は馬車の窓から見える港町の景色を眺めてぼそりと呟いた。
あの日、奥様から嫁入りの話があった。
なんでも新しく家督を継いだアギーラ辺境伯が花嫁を募集しているという話を聞きつけてた奥様が高額な結納金と引き換えに私を花嫁に推薦した。
つまりはお金で売り飛ばされたのだ。
身寄りのない私は奥様からの命令を断れず、こうして大人しく運ばれている。
正直、かなり不安だ。
ウインダム男爵領とは距離があって、夫になる辺境伯について私が集められた情報は噂話程度のものだが、良い話は聞かなかった。
何故なら彼は先代が亡くなり、当主の座を継いですぐに自分の他の家族を処刑したのだという。
血も涙もない所業に付けられた異名は『冷血の辺境伯』だ。
「到着しました」
ピタリと馬車が止まり、御者から声をかけられた。
あぁ、ここまで来てしまったのなら今更逃げることは出来ないな。
覚悟を決めて馬車から降りると、眼鏡をかけた執事服の若い男性が立っていた。
「長旅お疲れ様でした。ようこそアギーラ辺境伯邸へ。旦那様がお待ちですのでご案内いたします」
「ど、どうも。ウインダム男爵家の長女、メイリンです。お世話になります」
執事に案内された屋敷の中はとても広くて、大きな港がある領地なだけはある。
しかし、その割には人の気配がなくて寂しい印象がした。
というかこの執事以外の姿が見えない。
不思議に思いながら歩いていると、とある部屋の前で立ち止まり彼が扉を開けた。
「旦那様。新しい奥様がご到着なされました」
目的地である辺境伯の執務室。
さて、どんな人物が待っているのかと不安で胸がドキドキする。
「そうか。ご苦労」
返ってきた声は低く、平坦なものだった。
書類にサインをしていた手を止め、顔を上げた男性。
整った顔立ちに炎のような真っ赤な髪、大きなエメラルドのよいな瞳の彼がイアン・アギーラ辺境伯だろう。
勝手に血も涙もない海賊船の船長のような大男を想像していたので、思ったより普通そうで安心した。
「僕が今日から君の夫になるイアンだ」
「メイリンです。よろしくお願いしますイアン様」
嫁入りするにあたって焼き刃で覚えた貴族令嬢らしい所作でお辞儀をしておく。
「まず君にいくつか伝えておくことがある」
特に指摘を受けなかったので最初の難関は突破したかと思われる。
とりあえず、すました顔でイアン様の話を聞くことにした。
「屋敷の敷地内では好きに過ごして貰ってかまわないが、外出は認可制でその都度申請をしてくれ。僕の手伝いや家のことは何もしなくていいが、代わりに一切の口出しを禁ずる。服やアクセサリー、娯楽への予算については目にあまるような額でなければ自由にしてもらって構わない。夫婦の営みについても何もしなくていい。後継者は優れた者を養子として迎え入れるつもりだ。結婚式についても予算と時間の無駄なので省略する。書類さえ提出すれば法的には問題はないからだ。それから……」
次から次へと飛び出すルールを目を丸くさせながらなんとか覚えようとする私へイアン様は少し間を置いて宣言するように口を開いた。
「僕は君を愛することはない。君も無理に僕を愛そうとしなくていい。この結婚はうるさい周囲を黙らせるためのものだ。それを理解しておいてくれ」
光のない淀んだ目でそう言い切ると、イアン様はペンを握って仕事を再開した。
あんまりな言い方と、もうお前に用はないという無視のされっぷりで私は混乱してしまいその場で立ち尽くしていた。
ようやく我に帰ったのはそれから少し経って、執事に自室へと案内された後のことだった。
「……私は何のために生きていればいいんだろう」
雨が降る外の景色を見ながら私はベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
そしていつの間にか眠ってしまっていた私は嫌なことから逃れるように両親と家族一緒に過ごしていたもう戻らない幸せを夢に見ていた。
♦︎
アギーラ辺境伯夫人となってからあっという間に一ヶ月が経った。
この期間中はとても新鮮な気持ちと居心地の悪さの板挟みで落ち着かない日々だった。
まず、新鮮な気持ちというのは使用人扱いされていた実家暮らしと違ってここでは何もしなくていいのだ。
毎日をだらだらと過ごして、思い立ったら領地の港町に出てぶらぶらと買い物をする。
実家なら間違いなく折檻されていた振る舞いに誰も怒らない。
最低限の服や時間を潰すための本でも買えればいいと思っていたのに宝石商達に捕まって上手に丸め込まれてお金を払ってしまったけれど、それでも何も言われなかった時は驚いた。
無駄遣いしたことを責められるかと思っていたのに、執事から「お似合いですよ奥様」と言われただけだった。
辺境伯というのは金銭感覚が私とは違うようで、ただただ圧倒されてしまった。
たっぷりの食事とゆったりとした時間を与えられたおかげで奴隷扱いされて疲弊していた体もすっかり回復した。
とはいえ、流石に何もしないままでは居心地も悪いので勇気を出して聞いてみたのだが、
「あの、何か私に出来ることがあればなんでもやります……」
「必要ない」
イアン様にキッパリと拒否されてしまった。
多忙な彼にしつこくするのも悪いと思い、大人しく引き下がることにした。
これではアギーラ辺境伯夫人というお飾り妻というよりお荷物妻や置き物妻だ。
そうそう。働かない無職暮らしの中で特に一番気になっていることがある。
「あの、イアン様は普段の食事はどうなされているのでしょうか?」
それがイアン様の食事についてだ。
屋敷内には使用人が執事一人だけで食事を作る料理人がいない。
なので食事を外に食べに行くか出前を注文するしかなく、暮らし始めて一ヶ月の間に執事がオススメしてくれた大体の店を回った。
でも、それも私一人だけでイアン様と同じ食卓を一度も囲んだことが無かった。
見かけだけの夫婦とはいえ、同じ屋敷で暮らす以上は食事の機会くらいあると思っていたのに私は彼が食事をしているところすら見たことがない。
「旦那様は自室で食事を取られていますよ。当主になられてからはずっと一人で」
「それは屋敷に人がいないのと関係があるんでしょうか?」
「気になられますか?」
困ったような曖昧な笑みを浮かべた執事に対して私はこくり、と頷いた。
「旦那様は……他人の作った料理を食べるのがトラウマになっているのです」
執事は憂いた表情でこの屋敷で過去に何が起きたのかを語ってくれた。
イアン様は先代の辺境伯と外国からやってきた旅芸人一座の女性の間に生まれた子だった。
母親は生まれたばかりの息子を辺境伯家へ預けると一座と共に別の国へ行ったのだという。
母親から捨てられる形で引き取られたイアン様は似たような境遇の子供達と一緒にこの屋敷で過ごした。
彼にとって救いだったのは父が子供好きで腹違いの兄弟達は貧しい生活を送らずに済んだことだろう。
しかし、子供達が大きくなって次期当主を誰にするかを話し合っている場で問題が起きた。
なんと先代の辺境伯は後継者に妾の子であるイアン様を決めたのだ。
当然、屋敷の中は大荒れになった。
一番怒りを露わにしたのは長男を出産した正室の女性だった。
貴族として、女としてのプライドを酷く傷つけられた正室は、はかりごとをめぐらせる。
そしてある日、食事に毒を盛られたイアン様は生死の境を彷徨い、病床に伏している間に先代は突然亡くなった。
何が起こったのかなんとなく想像はつく。
「体調が戻った後、旦那様は隠されていた遺言状を見つけだして当主になり、毒を盛った証拠を突きつけて他の兄弟とその母親達を処刑しました」
「それが『冷血の辺境伯』の真実……」
全てを聞き終えた後に私は言葉を失った。
イアン様の悪評は他領まで広まっていたが、とんだ誤解だ。
彼は親のせいで後継者争いに巻き込まれたかわいそうな被害者だったのだ。
「以降、旦那様は乳母だった私の母と私以外の人間を遠ざけるようになられました。食事については我々にでさえ任せることはなくなったのです」
私はお母さんが作ってくれる料理が大好きだった。
お父さんも仕事の合間を縫っては離れで暮らしていた私達の所にやって来て家族で食卓を囲んだ。
みんなで食べるご飯は元気の源なんだってお父さんは言ってたし、お母さんも大切な人を笑顔にできるならどんな手間や苦労も平気だって胸を張っていた。
誰かと囲む食卓は私にとっての幸せな時間の証。
でも、イアン様にとっては封じ込めておきたい苦い記憶なのだろう。
「メイリン様は何もご心配なさらにずにお過ごしください。これは辺境伯家の問題ですからお気になさらないよう」
執事は私を安心させるように作り笑い浮かべてレストランの出前用のメニュー表を差し出してきた。
きっと彼も主人の境遇に心を痛めているけれど、既に諦めてしまったのかもしれない。
もやもやとした思いが胸の中いっぱいに広がってしまい、この晩の食事は普段よりも喉を通らなかった。
♦︎
「腹が減ったな」
イライラした気持ちを八つ当たりするように書類仕事にぶつけていたせいですっかり日が沈んでしまった。
人間なのだから腹が減るのは仕方がないが、僕はこの瞬間が嫌いだ。
腹が減ったからには食事をして満たさなければ生きていられない。
だが、生きるために必要な食事が人を殺すことだってある。
笑みを浮かべながら人を気遣うような言葉を口に出しながらその裏で毒を盛って人の死にほくそ笑む女がいた。
「くそっ……忌々しい」
あれから時が経って貴族の当主としてもかなり信頼され期待されるようになり、一人前の辺境伯になれたつもりだ。
なのに、いまだにあの事件が頭をよぎって足を引っ張る。
「確か庭で採れた果実がまだ残っていたはずだ」
人が作るものが食べられない。
誰かがまた自分を毒殺を試みてはいやしないか。
そんな考えが頭をよぎる。
何かと理由をつけて断っているが、人との付き合いをする上で致命的な欠点だ。
いっそ毒味役を用意するかと検討したことがあるが、それで他人が目の前で死ねば僕は罪悪感と疑心暗鬼のまま死ぬだろう。
「はぁ……。また気が滅入ってきた」
当主になってから痩せ我慢を続けてきたが限界に近い。
無愛想な男の仮面でも体調不良を隠しきれなくなっている。
その結果が売り飛ばされてきたも同然の妻へのキツい言葉になった。
家庭の大雑把な事情は調べたし、それだからこそ利用できると考えて迎え入れた。
幸せにするたつもりはないが不自由をさせるつもりはなかった。
詫びの印として今度彼女へ似合うプレゼントを用意させよう。
そんなことを考えながら屋敷の中にある厨房という名の食糧置き場へ立ち入った直後に僕の体は固まった。
「うひひっ、やっぱりこの切れ味はたまりませんね。いつぶりでしょうか……」
すっかり日が暮れた薄暗い厨房。
月光が差し込む管理するものがいなくなった場所に真っ白な服を着た長い黒髪の女が恍惚とした笑みを浮かべながら包丁を研いでいる。
シュ、シュ、シュと包丁が砥石と触れ合う度に呟くような笑い声がその女の口から漏れ出している。
「これならばきっとイアン様を……」
自分の名前が出た瞬間、僕は大きな音を立てながらその場に尻もちをついた。
♦︎
「それで、何をしているんだ君は」
厨房の隅、休憩用の簡素な椅子に座ってイアン様がこちらを睨み付けている。
つい先程まで生まれたての子鹿のような足取りで頑張って椅子にたどり着いたとは思えないほど様になっている。
「えっと、包丁の手入れをしていました」
「何のためにだ。やはり、僕を刺殺するためか?」
「そんなことしませんよ!包丁をなんだと思っていらっしゃるんですか!?」
真面目な顔をしてなんてことを言うのだ。
「凶器ではないのか?」
「料理をするための道具ですよ!」
意外そうな顔をするイアン様に私はつい大きな声で反論してしまう。
「母の形見の包丁なのですが、使う前に念を入れて研いでいたんです」
「立派なものだな。かなりの業物と思われる。よく突き刺さりそうだ」
「突き刺しませんよ?食材を切るだけですからね?」
どうやら彼はまだ私がこの包丁で自分を殺そうとしていたと思っているようだ。
「勘違いなさらないでください。私は料理をするためにここにいたんです」
「あんな表情で奇声を上げながらか?」
「……それはちょっと気分が乗っただけといいますか……」
ここへ嫁いできて久しぶりに愛用の包丁を握ったので気分が良くなってしまった。
「そうか。気分がいいとああなるのか……」
わかりやすく引いた顔をするイアン様。
まずい。ただでさえ悪い私の印象が余計に良くない方へ行ってしまう。
「まぁ、個人の趣味というのなら僕は干渉しない。これからは人目につかない場所でこっそりやってくれ」
なんだか勘違いをされたまま勝手に納得をしているようだけどイアン様がやってきたのはある意味で都合が良かった。
「ところでイアン様。何かお嫌いな食材はありすか? 特に食べると痒くなったり鼻水が止まらなくなるようなものとか」
「自分が食べたいものを好きに入れればいいじゃないか」
どうして自分に聞くのかがわからないという様子のイアン様は「食事は好きにさせるよう言いつけていたが……」と小さな声で呟いた。
今の生活でも満足できない食欲が底なしの食いしん坊と勘違いされてはお世話してくれている執事にも迷惑がかかるのでここははっきりと否定しよう。
「いいえ。これは私の分ではなくイアン様に食べていただくための料理です」
「僕に……だと? どういうつもりだ」
「そのままの意味です。これから作る料理はイアン様に召し上がっていただきたいんです」
直後に彼の顔が強張る。
眉間に皺が寄り、睨みつけるような視線が私へと向けられた。
「イアン様の過去に何があったのかは存じています」
「そうか……。では、知っていながらこんなことをする? 嫌がらせのつもりか?」
彼は苛立った様子で椅子から立ち上がると、私へと詰め寄った。
「違います。私はただ、イアン様にキチンとした食事をとって欲しいだけです」
「必要ない」
「必要です!」
「しつこいぞ! 体が最低限動きさえすれば質や形なんて関係ない。食事なんか適当に腹に詰めさえすればどうでもいいだろう!!」
激しく怒鳴りつけられ、あまりの迫力に気圧された私はうっかり足をもつれさせて厨房の床に倒れ込んでしまった。
「っ、すまない……ついカッとなってしまった。怪我はしていないか?」
やり過ぎたと思ったのか、イアン様はすぐに謝罪をしてこちらを心配してくれる。
あれだけ怒っていたのに気まずそうにしながらもこうして気遣ってくれる姿こそが彼の本来の姿なのだろうに、トラウマのせいで歪んでしまったのだ。
噂や初対面の印象とは違い、イアン様が悪い人じゃないことは執事や町の住人達を見ていればよくわかる。
あちこちから珍しい食材が集まるのは彼が何度も交渉を重ねて交易相手を増やしたからだし、辺境伯夫人が気軽に外食をして回れるくらい治安が良いのは公共事業に力を入れて職を失っている人を積極的に雇用し、衛兵による見回りを強化しているからだ。
執事が領民から寄せられた感謝の手紙を自慢げに見せてくれたこともあった。
「とにかく、僕のことは放っておいてくれ」
苦い顔をしながらも私を立ち上がらせるために手を差し伸べてくれるイアン様。
もちろん、私はその手を勢いよく振り払った。
「えっ?」
呆気に取られ驚きの声をあげたのはイアン様だ。
「なんか……なんかって言いましたね……」
「おい、どうした? 大丈夫か?」
地面に座り込んだままの体勢でぷるぷると震える私に困惑するイアン様。
「食事なんか適当に腹に詰めさえすればどうでもいいって言いましたね!!」
私は大きな声を出しながら勢いよく立ち上がった。
「あ、あぁ。確かに言ったが……」
「それは世の中のあらゆる料理する人に対して一番言っちゃいけない言葉ですよ!」
さっきまで自分が怒鳴られていたことなんて忘れて私はイアン様に詰め寄る。
「いいですか? 食べることとは生きる力を育むことなんです! バランスや量、栄養に気を遣って健康的な体を作り、維持することがどれだけ大切なことかわかりますか? 貴族という立場ならなおさら健康で長生きをしなくては領民に迷惑がかかります」
「うっ。それはそうだが……」
ぐいぐいと捲し立てるように近づく私にたじろぐイアン様に私は言ってやる。
「ちょっと待っていてください。すぐにそんなこと言えないくらいの美味しい食事を食べさせてあげますよ!」
♦︎
「完成しました。野菜たっぷりのスープです」
湯気の立つ温かい器にスプーンを添えて手渡す。
「本当は気合いを入れて佛跳牆でも作ろうかと思いましたが、毒が入っていないことを証明するには目の前で一から作った方がいいと思ったので簡単な魚と昆布出汁の野菜スープにしました」
当初は魅力的な乾物が市場にあったので数日かけて最高の食事を振る舞おうとしていたが、直に言葉を交わしてまずは食事への苦手意識を変えなくてはと気づいた。
「さぁ、召し上がれ」
「あぁ……」
ぐいぐいっと押し付けられるような形で器を受け取ったイアン様は様々な角度からスープを眺め、次に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「おかしなところはないようだな」
「はい。お話しした通りです」
このスープを作るにあたって私は材料とレシピを一から全て説明した。
調理器具を洗うところからスタートしたので完璧清潔で安心安全な一品になる。
途中で質疑応答を挟みながらだったので時間はかかってしまったが毒入りの疑いようのないスープ。
「…………いただきます」
かなり間があったが、覚悟を決めたイアン様は恐る恐るスプーンで少量の野菜とスープを掬い上げた。
そして目を瞑り唇を震えさせながらゆっくり口へと運ぶ。
「…………」
咀嚼音とごくりと鳴る喉。
見ているこちらまで緊張するような食事の取り方だけど最初の一口を食べてくれた。
「いかがでしょうか?」
食事の必要性を否定された勢いでここまで押し通してしまったがよく考えたら私はとんでもないことをしてしまったのではないかと急に不安になる。
イアン様は私に興味がなくとも不自由のない暮らしをさせてくれている恩人でもあるのにそんな人にトラウマを思い出させるような仕打ちをしたのだ。
どんな罰が待っているのか少し怖くなる。
「あたたかいな」
しかし、彼の口から出たのは文句や罵倒ではなくシンプルな感想だった。
「野菜の甘さとさっぱりとしたスープの味。体に染み渡るような優しい味だ」
再びスプーンが器に伸びる。
今度は山盛りの野菜が口の中へと運ばれた。
それからは黙々と食事を続けるイアン様を私はじっと眺めていた。
「あっ、」
イアン様の口から声が出たのは器の中身が空になった時だった。
顔を上げた彼の揺れる瞳と目が合う。
「おかわりいかがですか?」
「……いただこう」
気まずそうに器を差し出した彼の顔が赤くなった。
「美味しい。こんなに美味しい食事は初めてだ」
「大げさですよ。これくれくらい毎日いくらでも作りますから」
それから私は鍋の中が空っぽになるまで食事を続けるイアン様を眺め続けた。
誰かが美味しいと言って皿を綺麗にしてくれる。
たったそれだけのことが何よりも嬉しくなって、私は嫁入りしてから初めて心の底から笑うことができたのだった。
♦︎
「奥様。下ごしらえが済んだ食材をこちらに置いておきます」
「ありがとうございます!」
あの夜から半年が経った辺境伯邸の広大な庭。
そこで私はエプロン姿で執事と共に忙しなく動き回っていた。
「いや〜、この料理は絶品ですな」
「こちらの菓子も味だけじゃなく、見た目も芸術品のようですわ」
庭に集まって立食パーティーをしているのは各地から集められた貴族達。
イアン様から招待された彼らはこの港町で手に入れた食材を使った料理に満足そうだ。
「それはそうでしょう。何せ僕の妻が作ったので」
招待客に自慢げな表情を見せるのは少しふっくらして健康的な顔になったイアン様だ。
「えっ? 貴族の奥様が自ら料理を?」
「ええ。僕の妻は料理上手でして、今日のメニューは全て彼女の考案です。貴族の皆さんに美味しいと言っていただける料理を作れる妻がいて僕は幸せものですよ」
誰が作ったかを知らずに先に料理を手放しに褒めたものだから招待客達はそれ以上の口を噤んだ。
ここで貴族のくせに料理なんて〜と口にすれば自分達の舌と意見を曲げることになるからだ。
「まぁ、宮廷の料理長も爵位を授けられた貴族ですし、おかしくありませんな」
「毎日こんな美味しい食事ができるなんて辺境伯様が羨ましいですわね〜」
会場の雰囲気がいい方向へと流れていく。
この場に集められた誰もが、イアン様の機嫌を損ねたくないと料理を持ち上げることを選んだようだ。
「そう言っていただけて僕も安心しました。こうして皆さんと親交を深めることができるのも全て妻のメイリンのおかげですから」
近くいた私の肩に手を置き、ニコニコと笑みを浮かべるイアン様。
これまでの彼からは信じられないような眩しい笑顔に婦人達が黄色い声をあげた。
元から社交界で人気があったそうだが、今後は爆発的にファンが増えそうだ。
「えー、でもの混ざりものな妾の子が正妻っていうのはどうなんでしょう?」
和やかな雰囲気でパーティーが進行しようとした矢先に大きな声が響いた。
「優秀でカッコいいイアン様に相応しくないと思うんですけど〜」
嫌味ったらしい言い方で人混みの中から現れたのはユミリアだった。
フリル付きの動きにくそうな派手なドレスを着てこれでもかと厚化粧をしている。
多分、食事バランスが崩れて太ったことと肌荒れを隠すためだろうと思うけれど、あきらかに一人だけ浮いている。
親としてミカエラ奥様は指摘……するわけないか。溺愛している娘だものね。
「そんな卑しい身分の女よりわたしの方がイアン様にお似合いだと思います」
顔に手を添えてこてん、と首を傾げるユミリア。
「ウインダム男爵家の令嬢か。呼んだ覚えは無いが、どうしてここにいる?」
残念ながら精一杯の可愛いアピールはイアン様に届かず、逆に彼の声のトーンが下がった。
「親戚のおじ様の付き添いです。お母様の実家は歴史ある侯爵家ですもの」
そういえばそうだった。
奥様は侯爵家の末の娘で、将来が期待できるからと優秀と評判の良かった父の元に嫁いできた人だ。
貴族らしい政略結婚で、強制的なものだったと聞いている。
それなのに父の心は私の母へ向いてプライドを傷つけられた奥様は私に強く当たっていたのだ。
「このパーティーに集まった皆さんも異国混じりの平民上がりよりわたしの方がイアン様の妻に相応しいって思いませんか? だって、この女はこんな見た目ですもの」
周囲へ賛同を求めながらユミリアは私の髪を掴もうとした。
あぁ、嫁いでも私はあの家から逃れられないのだと胸が苦しくなる。
しかし、その手は強く振り払われた。
「僕の妻に汚い手で触れるな」
耳元で力強い声がした。
反射的に閉じていた目を開くと、厳しい眼差しでユミリアを拒絶するイアン様の横顔があった。
「はぁ? わたしの手が汚いですって?」
「そうだ。ろくに働いたこともない自分を着飾るためだけの手だろう。見ればわかる」
イアン様はまだ少し恐怖で震えている私の手を優しく包み込んだ。
「お前と比べてメイリンの手は働き者の手だ。この手が僕の命と領民を支えてくれている。僕は妻の手の方が好きだ」
料理を続けてきた代わりに爪も短く皮がぶ厚い手。
そんな料理人の証を肯定して好きだと言ってくれる人がいる。
「イアン様……」
息苦しさが無くなり、胸のつかえが取れる。
「ふ、ふん。ちょっと顔がいいから声をかけてあげたのにわたしを侮辱するなんて許せないわ。お母様に言いつけてやる! そしたらこんな辺境なんて誰も助けてくれないわよ!」
イアン様に拒絶されたことでユミリアは顔を真っ赤にして怒り、脅しをかけてくる。
あぁ、なんてことを……。
「では、僕は陛下に相談をさせてもらうとしよう。国家の危機を招こうとした愚か者を罰してくださいと」
「なんでそこで陛下が出てくるのよ!」
この半年で辺境伯領で起きたことを何も知らないユミリアは納得いかないと地団駄を踏む。
「当たり前だ。メイリンを侮辱するのは海の向こうにあるシン皇国を貶めるのと同じだからだ」
「はぁ?」
ぽかーんと口を開くユミリア。
同じように招待客達も動きを止めている。
「あのねユミリア。実は……」
自分の出自について、握ったイアン様の手から勇気をもらいながら私は説明を始めた。
きっかけはイアン様の元へシン皇国の使者が挨拶をしにきたことだ。
海を渡った遠い場所にある大国のシン皇国は昔からアギーラ辺境伯領と細々と貿易をしてきた。
イアン様への代替わりと結婚祝いを目的に来訪した使者は私の顔を見て目の色を変えた。
なんでもシン皇国から家出した皇帝の妹に私がよく似ていたのだとか。
そこで私は旅する料理人だった母の話をして形見の包丁を見せた。
使者の人は包丁の柄の部分を分解すると隠されていた文字と紋章を発見したのだ。
包丁はシンの皇帝が妹への誕生日プレゼントに用意した特注で、世界に一丁しかないものだという。
「私のお母さんは皇女で、その血が私にも流れているの。あと、姪に会いたいってシン皇国からお誘いを受けてるの……」
「ふっざけんな! そんな都合のいい話があるわけないでしょ!!」
顔を真っ赤にして喚き散らすユミリア。
「都合のいい話か。ふっ……本当に都合がいいな」
そんな彼女を見てイアン様が微かに笑った。
「お前達親子がメイリンを手放したからこそ、僕は彼女と結ばれた。そして、シン皇国との繋がりもできて陛下からも信頼されるようになった。おまけにこうして邪魔者を排除する大義名分が手に入ったのだからな」
「な、なによ……」
背筋が凍るような低い声で物騒なことを言うイアン様の姿にユミリアが怖気づく。
「この女は陛下より命じられたシン皇国との文化交流のパーティーで騒ぎを起こして両国の信頼を傷つけようとした。これは陛下への反逆に等しい行為である。ただちにこの無礼な女を捕まえろ!」
周囲の注目が集まっているのを確認してイアン様は堂々と大きな声で発言した。
国王への反逆という大罪に貴族達が驚く中、ユミリアは真っ赤だった顔を真っ青にして逃げ出そうとする。
泣き喚きながら走り出す彼女だったが、この日の警護のために集められていたイアンが集めた優秀な兵士達によって素早く取り押さえられた。
「姉さん! 助けてよ! 私たち家族でしょ!?」
「……私はメイリン・アギーラ。私の家族はイアン様だけよ」
私を初めて姉と呼んだユミリアに対して私は冷たい態度で突き放した。
半分だけしか血は繋がっていなくても、年上の姉として世話を焼いてきたつもりだった。
多少の我儘や好き嫌いにも目をつぶって対応してきてあげた。
でもね、気に入らないからって食べ物を粗末に扱ったことは許さない。
オムレツを床に捨てたこと忘れたとは言わせないわ。
「さて、仕切り直しといこうか」
急に目の前で始まった騒動に集まっていた貴族達の手が止まってしまっている。
できたての料理をせっかく用意したのに冷めてしまっては勿体無い。
「あー、見苦しいものを見せて申し訳なかった。気を取り直して乾杯すると共に、皆さんに僕ら夫婦からのパフォーマンスをご覧いただきたい」
イアン様が私へウインクして合図を出したので、急いで執事を呼んである物を運んでもらう。
「なんだアレは? 鉄板か?」
「パスタのような麺と野菜も運ばれてきたぞ」
「香ばしい香りもするぞ」
来客達が不思議そうに見てくる中でイアン様はシン皇国から取り寄せた祭り用の法被に袖を通して、白い手拭いを捻って頭に巻いた。
「「へいらっしゃい!」」
シン皇国の使者の人から話を聞いて、私が提案したのは屋台スタイルの焼きそばを振る舞うことだった。
しかも、このアイデアにイアン様がノリノリで自ら料理を学びたいと言ってきたのだ。
「なんという豪快なヘラ捌きだ!」
「器に盛るまで無駄がない共同作業だわ!!」
「儂の分を早くくれ! こんなに美味しそうな匂いがしたら我慢できん!!」
さっきまでの重苦しい雰囲気はどこへやら。
来客達は物珍しい料理と提供スタイルに童心に帰ったように盛り上がって列を形成するのだった。
こうしてパーティーは大盛況のうちに終わって、手伝ってくれたシン皇国の使者の人も焼きそばをパンに挟む食べ方を見つけてご満悦の様子でした。
♦︎
「シン皇国は新鮮な魚を使った料理が沢山あるらしいな」
「生の魚を醤油とわさびにつけて食べるんですよ。主食はお米で、刺身を酢を混ぜた飯に乗せて握ったお寿司が絶品だとか。ぜひ習得したいです!」
アギーラ辺境伯領の港を出発してから数日。
私とイアン様は大きな船の上にいた。
あの日のユミリアの起こした騒ぎによってウインダム男爵家は罰を与えられ、頼みの綱だった奥様の実家からも縁を切られたそうだ。
一方でイアン様の評判は上昇し、こうしてシン皇国へと向かっている。
前から誘われていた伯父であるシン皇国の皇帝に謁見し、国交を成功させて利益を手に入れてこいと国王陛下に背中を押されたのだ。
とはいえ、それは表向きの目的で裏では新婚旅行を満喫するつもりだ。
イアン様の仕事もひと息ついたし、この旅でゆっくり夫婦の時間を作りたい。
「メイリンは本当に料理が好きなんだな」
「お嫌い……ですか?」
はしゃいでいた私の姿を微笑ましそうに見つめるイアン様。
色気より食い気の女だと思われてしまっていないかと不安になり躊躇いがちにどう思っているのか聞いてみる。
夫婦として上手くやっているつもりだけど、料理をする人と食べる人っていう関係性の方が強いのかもしれない。
でも、イアン様は私の手を持ち上げると自分の頬へと運んだ。
「好きだよ。この働き者の手も、体温のぬくもりも、混ざり合った美しい髪も、優しい声も、メイリンの全部が愛おしい」
彼の大きなエメラルドの瞳に私だけが映っていた。
「私も、イアン様のことが大好きです!」
あぁ、この人となら新しい幸せな家庭を築ける。
かつての両親と同じように。
いいや、それ以上の幸せを私が彼と掴んでみせる。
海風が吹く船上で三色の髪が混じり合う中、私は未来への決意を誓うのでした。
《終わり》
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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