侍女の憂鬱 3
2024年6月14日(金)、少し直しました。
この早朝、ヒルダは外遊専用に設えた豪奢な馬車にひとり乗り込み王都を出立した。
扉の閉まりきる前、見送るアンナに向けた微笑みは緊張してぎこちない。
ヒルダを乗せた馬車は警護の騎士団に囲まれ動き始めた。前後に外交官をはじめとした随行員らの馬車が続く。
これから約2か月に及ぶ旅程の始まりだった。
アンナが王宮に来てから、こんなに長い期間ヒルダと離れたことはない。せめて笑顔で見送ろう、と思っていたアンナだが、ヒルダにつられたせいか頬がひきつってしまった。笑顔に見えただろうか?いや、笑顔に見えなかったからこそのヒルダのあの表情では?
後悔を覚えつつ、まあ過ぎてしまったことは仕方ない、とアンナは頭を切り替える。帰って来たらう~んと甘やかしてあげよう。その時にはこの、恐らくはひきつれた変顔も笑いのネタになっているはず。
そう。
アンナもヒルダも、これが今生の別れになるなんて思ってもみなかったのだ──まだこの時は。
☆☆
「アンナ、宿下がりはしないんだってねェ──あァ親はいないと言ってたねェ。」
でも少しくらいの気分転換も必要なんじゃないかい、もう子供でもないんだし。
そうベルタは煙草をふかした。
ヒルダが旅立ったその日の午後、アンナはベルタに呼び出されていた。
ベルタは王宮の侍女全てを統括管理する官吏である。分かりやすく言うと後宮のドン。
宿下がり、というのは侍女達が休みを取り実家へ戻ること。
王女付きの侍女であるアンナは、ヒルダの外遊中は当然仕事が激減する。
今回は2か月という長期間だ。
後宮はそれぞれの仕事が細分化されており担当者が決まっている。
他部署を手伝うという慣習はない。
「殿下の居ない部屋の掃除で2か月もの時間を無為に過ごすことはないサ、お前若いといったって二十歳だろ、そろそろ今後の身の振り方を考えなくてはならん時機だェ。」
ベルタは煙草を燻らせる。
煙の行方を目だけで追いながら、推定二十歳なんですけれど、と心の中で呟く。
エークレットにおいて、後宮は王家の子女の居城であるのと同時に、王の夜の相手を務める女達を集め住まわせる場でもある。
しかし今、後宮で暮らすのはヒルダだけ。
国王は命懸けで娘を産んだ最愛の王妃を喪って以降、一人の女性も近付けなかった。
必然的に侍女も少ない。それでも千人近くが後宮で働いている。
そのうちの幾人かは、主に侍女の宿舎の四階に暮らす貴族階級の出身者達だ。
彼女達は、それが本人の望みかどうかに関わらず──王の側妃となって男子を産み国母となるという野心を抱いている。
ステファン王にはヒルダしか子供がいない。他に子供を持つ《《意志》》がないのは王妃を亡くして以来、後宮を顧みない点でも明らかだ。でもそれがこの先も永遠に続くかはわからない。
彼女達は今、王との子を成せば、その子が男子ならば──と一族を上げて機会を伺っていることだろう。
アンナには関係ない、と言いたいところだか、彼女達がヒルダを軽く扱っているような気がしてやるせない。
孤児だから後ろ楯もないし、教育も教養も無い身だか、自分一人でもヒルダの味方で居てあげたいと思う。
「アンナも充分承知だろうが、後宮の侍女は独身でなくてはならない決まりがあるからねェ。王に召された時に夫子がいては差し障るというのもあるが、実際家族が出来ちゃ仕事に支障が出るんだヨ。公私の区別なく生活全て王室に捧げなきゃならんからネ。特に身辺回りのお世話をする者は。」
後宮で半世紀暮らしているという噂のあるベルタは喫煙者でもある。彼女の執務室はそれ自体が煙草盆のようだ。
アンナは髪や衣服に臭いが移らないか気が気ではなかった。
ヒルダは煙草の臭いを殊更に嫌い、ついで喫煙者であるベルタも嫌い。アンナは苦笑する。ヒルダは外遊で留守にして二ヶ月先でなければ戻らないのだ。
「わたしには家族もおりませんし、天職かと。」
「私ゃアンナが家族を持つにはそろそろ限界の年頃になっただろ、と言いたいんだヨ。」
アンナは肩を竦めた。
エークレットでは男女共に二十歳前後が適齢期と言われている。成人年齢は16歳だが、仕事が波に乗って暮らしの基盤ができる──要するに稼げるようになるのにどんな職種でも最低数年は必要だからだ。
最も王族貴族の間では幼い頃から婚約者が居たり、成人前に婚姻したりも珍しくはない。彼等は生活費を自分で稼ぐ必要がないのだから。
「侍女は配偶者を見つけて後宮を去る。赤の他人様の為だった人生から自分の、自分の家族の為の人生を生きるようになるんだ、大抵の娘はね。」
「わたしは天職だと……」
「いないのかい、誰も。」
「うぐっ、」
繰り返したアンナはベルタにはっきり聞かれて言葉に詰まる。
ベルタは口元だけで笑った。
「ま、仕方ないわネ、後宮は殿方との出逢いには恵まれてないからねェ。」
……王以外の男性が彷徨いてる後宮なんてあったら怖いわ、とアンナは胸のうちで突っ込む。そういうことのない場所が後宮じゃないか。
(でもまぁ、全く無いこともないんだっけ?)
アンナは宿舎の上の階の住人達を思った。
四階は側妃の座を伺い、三階は──そう、人脈を欲している。いずれ後宮を辞した後も貴族や王族と、彼らに近しい者と繋がりを持とうとして。
彼女達は侍女でありながら掃除洗濯などの雑事には携わらない。そういうのはアンナ達二階組の仕事だから。
彼女達は室内に毎日花を飾って、香を焚いて、お茶を淹れる。
毎日のように、ひどい時には午前と午後に同じ商人を呼びつけて、御茶っ葉だの香料だの石鹸だのを届けさせている。偶々居合わせた事があった。アンナが在庫なら掃いて捨てるほどある、というと、本日により相応しい品を、とかなんとか意味不明にほざいていた。商人の方は涼しげに微笑んで居たが腹の内はわからない。
あと後宮の守備に当たる近衛隊の詰所、朝夕と真夜中零時に報告書を受け取りに行くのも、やたら着飾って五、六人多い時には十人でつるんでいく。たった数枚の報告書の受け取りにどんだけ人手をかけるのだと、不審に思っていたら男漁りが目的と知って笑った。
成る程、出逢いは待っていては訪れない。力業で出逢うもの、なのか。
(確かに。後宮出入りの商家なら筋も金回りも良いだろうし。近衛隊は名家の次男坊以下が揃っているからお手軽に御婿様探しができる、か)
案外、後宮という場所は男女の出逢いがあふれているものかもしれない。気づくか、気づかないか、というだけで。
「私の手抜かりでもあるンだよ、殿下の成人するより前にアンナを送り出しときたかったンだ。殿下は他国へお嫁入りなんてこたァなかろうが、いづれ婿様を迎えるだろうからね。その後に必要なのは婿様のあしらい方を手解きできる侍女と乳母なんだヨ、どっちもお前さんにゃ荷が勝ちすぎだろ」
それともこの二ヶ月で経験を積むかね、とベルタはゆっくり煙を吐く。
「殿下もいつまでも子供ぢゃいない。今のアンナは殿下にとってお姉さんかも知れんだが、夫婦の間にお姉さんの居場所はないンだよ」
ま、私みたく生涯後宮に埋まるって選択肢もあるがねェ、と煙草盆にキセルの灰を落とす。ふと思いついたように言う。
「お前さんの同期、残っているのはお前さんの他には三人だけ。でも内二人はひとつき以内に後宮を出てくンだよ。ひとりは家庭の事情とゆってたが、もうひとりはコレだね。」
ベルタは腹の上で弧を描いて見せた。キセルを持つ手で。床に灰が落ちる、とアンナは気が気じゃない。職業病だ。
ベルタの執務室はアンナ達侍女とは違い落ち着いた濃赤系統の絨毯が敷かれていた。
靴の踵が埋もれるくらいに毛足が長い。それだけでも掃除は大変だと思うのに、よく見ると絨毯のあちこちに焦げがあった。
この部屋の掃除担当者に同情する。
「まあ独身組最年長はあんたって訳でもないが、この期に今後の身の振り方をよォく考えて見るんだネ。」
たっぷり時間はあるんだからネ、とベルタは煙草の煙を吐いた。独特の甘い香りがゆっくりと部屋を満たしていく。
鼻腔から脳が擽ったくなるような香りが浸入してくる。何故か喉の奥に甘味まで感じた瞬間。
ああ、そうか。
甘い香りに噎せそうになりながら、アンナは理解した。
これはベルタからの解雇通告なのだ、と。
ヒルダが王位を継ぐにせよ、他国や臣下に嫁ぐにせよ。
アンナが傍らに侍ることはもうない。アンナは王宮務めで王女付きの侍女だが平民でしかも孤児なのだ。
アンナが王宮に来たばかりの当時は戦後の混乱の中。長く戦争をしていて負けて、幾つかの有力な貴族家も独立をもぎ取って王家を見限った。嘘か本当か知らないが、高位貴族は三分の一に減ったとも聞いた。市井と同様王宮も人手不足だったのだ。要はどさくさ紛れに本来なら足を踏み入れることも出来ない場所に居場所と仕事を手に入れた。手に入れてしまった。
けれども、ここは本来、公爵令嬢とか侯爵令嬢だとかの定位置。現在それなりに貴族の頭数が揃った今や、アンナなんかお呼びでないというわけだ。
しかし。
物心付いた時には孤児院に居て、そこで育ち、既にその孤児院も院長も無い。王宮を出て帰るところなんてないし、王宮の外で暮らした経験もない。
それに。
(もし出てくにしてもヒルダ様にお別れの挨拶をしてからでなくっちゃ)
ベルタは、王女不在のこの二ヶ月は王宮を出る準備に当てろ、と暗に告げていたのだ。物理的な準備にも心理面の準備にも短すぎる期間ではあるが。
(まあ即刻叩き出されなかっただけマシか)
アンナは天を仰いで大きく息を吐いた。
色々考えなくてはならないこと、知らなくてはならないこと、やっておかなくてはならないことが恐らくはてんこ盛りのはず。考えるだけで吐きそう。だが。
(なんもしたくない。何も考えたくない)
今日一日くらいは現実逃避しよう、頭を空っぽにして。ベルタの言ったように自分のこれからを考える前に。ぼんやり、ぐだぐだ過ごすのだ。