侍女の憂鬱 1
2024年6月13日(木)、少し直しました。
エークレットの東の隣国ディルムンに十九番目の王子が誕生した。
第七側妃の四男なので、王位継承には影響のない王子だが、両国の国王が王太子時代からの友人同士ということもあり祝辞を贈るのが慣例化している。それに第七側妃はエークレット王家との縁もあった。
今回は王女が特使を務めることとなった。
先ごろ14歳になったばかりのヒルダ王女にとってはこれが人生初の外遊となる。
正確に言えば、外遊自体は初めてではない。まだほんの少女だった頃、父王─当時は王太子だった─の外遊に従って幾つもの国々を訪ねたことがある。
各国の王に謁見もしたし、深夜に及ぶ酒宴にも出席した。
だが今回は彼女が主賓となる。
次期国王となる父の傍らでただ可愛いらしく無邪気に振る舞っていればよかった当時とはかかる責任の大きさが違う。
その自覚があるからか、本人の鼻息も荒い。
完璧な青と称えられる瞳もひときわ煌めきを増している。まぁ室内照明の反射分は差し引く必要があるのだが。
「いよいよ私の外交官としての才能を開花させる初陣戦という訳ね。王女として、我が祖国と国王陛下の栄光と国益のために全身全霊を捧げるわ。この時のために語学に史学に法学音楽舞楽に地政学、お勉強もたくさん頑張ってきたんですもん。知略謀略の限りを尽くして戦うわ、必要とあらば色仕掛けも辞さない覚悟──おわぁっ?」
ベッドの上で腰に手を当て仁王立ち。
ぴょんぴょん跳ねながら、威勢良く右の拳を突き上げた拍子にバランスを崩したヒルダは波打つ絹の寝具に顔面からダイブした。
白絹とレースの寝間着の裾が巻くれ上がって腿まで露になる。王女にあるまじき醜態である。
「何してんですか、あんたわ」
侍女のアンナが駆け寄る。慌てたせいか言葉が雑になる。上司が知ったら評価を下げられるだろう。
「ふにゅ~う」
鼻を押さえてうめくヒルダを見てアンナはため息すら出ない。
けれども。
ため息は出なくても小言は出る。しかも無尽蔵に。
これはもしかして、老化の始まりだろうか。
官吏も侍女も、口煩いと評判のはだいたい年よ、年輩者だ。
(やだわ、わたしまだ二十歳くらいのはずなのに)
はず、というのはアンナは孤児で誰も正確な年齢を知らないからだ。
「色仕掛けなんて言葉、いったい何処で誰に教わったんです?意味わかって使っていますの?」
手足をばたつかせて一向起き上がろうとしない──アンナに起こしてもらう気満々だ。そんなヒルダの傍らに寄り添って上体を起こすのを手伝う。アンナが触れるとほとんど自力で起き上がった。要はアンナにかまってもらいたいだけなのだ。
思考がお子さまなんである。
「ヒルダ様が諜報部の真似事なんて、そんな覚悟なんて必要ありませんっ。同行する外交官達は皆プロなんです。ヒルダ様は我が国の特産品で目一杯着飾って、広告塔のお役目を果たすのが最大で唯一の任務でしょ。」
アンナは正論を説いたが、ヒルダの頬はぷうっと膨れた。
「さっさとおやすみください、寝不足は明日に差し支えますよ。」
「らいひょ~ふ、わらひまらわかひから。おはらひちひち。はんらとはちかう。」
「聞こえていますよ、ヒルダさま。さ、冷やしましょ。赤く腫れ上がったお鼻では折角新調したドレスもアクセサリーも台無しです。」
アンナは廊下に控えている部屋付きの下女達に綺麗な水と氷、洗面器を持って来るよう伝えると引き出しから白絹の手巾を取り出す。
やがてそれらが届けられると七宝飾りの洗面器に水と氷を注ぎ手巾を浸す。
アンナはヒルダを仰向けに寝かせて濡らした手巾で鼻を覆う。先ほどの意趣返しのためちょっぴり冷たく若干強めに。
「ひゃふぅ!ひべたひ!!」
「もう、いつまでもお子さまなんだから。そんなで特使なんて務まりますの?本当にアンナはついていかなくてよろしいんですか?」
「らひひょ~ふ、あらひひほりれへーひひゃはら。」
頑としてアンナの同行を拒む。頑なさは子供じみてるほどだ。
エークレット王国が属する旧アスガルド帝国圏内では古来成人と認められるのは16歳からだ。隣国ディルムンは別の文化圏に属するが、やはり14歳は未成年の扱いだと聞く。
隣国とはいえ、父王もアンナもいない外遊に緊張しているのかもしれない。
アンナはヒルダの両目を掌で覆ってやる。
「ふにゅ」
冷たかったですか、とアンナは苦笑した。
よろしいですか、と続ける。
「外交官達が同行しているんですから。心配する事ないんですよ。ヒルダさまは王女として我が国の特産品で着飾って堂々と胸を張っていてください。」
姿勢が悪いと懸念のお胸もいっそう貧弱に見えますよ、と言うアンナにヒルダは更に頬を膨らませる。
「お、おろなにらっららひょひゅーに……」
この言い訳は王女も侍女も身分差なく後宮で濫用されているのをアンナは知っている。
はいはい、と軽く受け流すのまでがワンセットだ。
幸い、アンナ自身はこの言い訳を利用せずにいられるが。
「それと言葉遣いにはくれぐれもお気をつけくださいませ。ディルムンの王宮だけではありません。道中でも。」
ディルムンまでは主要街道を行くことになる。沿道の町村の住人に、街道を行き交う人々──皆にこの国唯一の王女をお披露目する意味があるのだとも聞いた。なら移動中は馬車の中でも気を抜くことは出来ないのではないか。
ヒルダの表情は見えない。掌に瞬きが伝わるので眠ってはいない。ちゃんと話を聞いてくれているだろうか。
「今回ヒルダ様に同行するのは外務省が選んだ侍女達ですからね、彼女達は普段のヒルダ様を知らないのですから、さっきのような言動は慎んでくださいましね。」
まったく、とアンナは内心毒づく。
一体何処の誰が色仕掛けなんて下衆な言葉を一国の王女に吹き込んだのだろう。
ヒルダは生活の全てを後宮で過ごす。
関わる人々は限られている。
後宮で働く侍女に下女と去勢された下男。
王の許可を得て後宮を訪ねて来る者と言えば──男性王族か侍女の身内、貴族か上級官吏に限られるが。
あとはヒルダの教師達とその付き人、衣装や靴、装飾品を納める商人達、彼らは職人を伴っていることもある。
後宮の守備に就く兵士達──
だが後宮の奥深く、幾つもの堀と門扉とに護られた王女と言葉を交わす機会なんて誰にあるだろう?
下女や下男は王女と直接の会話はない。侍女を訪ねて来る者は後宮でももっと表の貴賓室で面会する。教師や商人は必ず複数の侍女が立ち会うし、守備隊はそもそも後宮を取り巻くように配置されているので王女の導線と接点がない。
(まさかわたしってコトはないわよね?)
アンナは物心ついた頃には貧民窟の孤児院に居た。泣いてさ迷っていたところを院長に拾われたらしい。その院長が亡くなった後は王都の下町の妓楼で下働きをしていた。あのままなら娼妓以外の未来はなかったろう。
そういう生い立ちだから後宮に来て言葉遣いには苦しめられた。上司に叱られ同僚には厭がられ馬鹿にされて──思い出したくもない。
九年も経つから大丈夫、と思うが貴族出の侍女の中にはアンナの言葉尻を捕らえて眉をひそめつつ言い直す、ということもある。
(大丈夫、そもそも王女と侍女の会話に色仕掛けなんて出てきっこないわ)
ヒルダに王女に相応しからぬ言葉を教えた犯人は直ぐに特定できないが、それは今後の課題としよう。上司に相談する手もある。
(近頃の新参の侍女は高貴な生まれにも関わらず蓮っ葉な物言いをするって問題にもなっていたしな)
「はんひゃ?」
ヒルダの瞬きがくすぐったくてアンナは手を引いた。手巾も外す。
青水晶のように煌めく瞳がアンナを見上げている。
「大丈夫、赤っ鼻にはなってませんよ。新調したドレスも映えるでしょう。」
アンナが太鼓判を押すとヒルダは満面の笑みを浮かべた。
「ディルムン国の後宮はウチとは比較にならないくらい規模が大きいそうですね。絹にレースに貴石に飾り細工の宝飾品。ヒルダ様が売り込みに成功すればそれだけ生産者や職人が潤います。責任は重大ですよ。」
国民の生活水準向上に心を寄せるのは王家の務めだ。
エークレット王家に女性は少ない。国王の妻も母もすでに亡くなっているし、三人の姉妹も皆嫁ぎ先は国外だ。
外交の場では男性王族も豪奢に装うが、華やかさでは女性の非ではない。
正直な話、今回の外遊でヒルダに求められている役割は広告塔しかない。本人には不本意だろうが。
「ではおやすみなさいませ。きちんと眠って旅程中笑顔を絶やさず健やかで過ごす、ヒルダ様の一番重要なお仕事ですよ。」
「!ふぁんな、ろこひふろ」
「アンナはまだ仕事がございますの、忙しいのですよ侍女は。」
「ひふぁらいれ、ひほいりゃへへふぁひ」
「……何言ってるんですか、明日からはアンナはいないんですよ。」
と言ってはみたものの、しっかりスカートを握って離さないヒルダの手を振り払うなんてできない過保護なアンナだ。
「しようがないですね。」
潤んだ瞳で見上げるヒルダの頭を撫でてやる。
「眠るまでここにおりますよ。早く寝てください。」
「……」
ヒルダはまだ何か言いたそうにしていたが無言で目を閉じた。
アンナはじっと寝顔を見つめていた。
しばらく見つめていたが寝息が規則正しくなったところで廊下へ出る。
夜は更けた。が、王女様付き侍女にはまだ仕事が残っている。