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哲学する檸檬

作者: 村崎羯諦

 うーたんはね、いつもママから棒で身体を叩かれてるし、学校のみんなから腕とかお顔をつねられたりしてるよ。でもねでもね、難しい哲学のお本とか読んでるとね、そんなこともあんまり気にならなくなるの。うーたんは哲学をしてるのです。学校のみんなが楽しそうにおしゃべりをしたり、放課後にカラオケでお歌を歌っている横で、うーたんは図書館で借りてきた難しい哲学のお本を読んで、いろんなことを考えるの。


 うーたんは難しい言葉も知ってるし、昔のヨーロッパにいたすごい人たちの名前も知ってるよ。でもね、学校のみんなはうーたんがそんなに頭が良いことは知らないのです。うーたんは数を数えるのが得意じゃないし、みんなに見られてるとうまく言葉が出てこないの。だから、いじわるな先生がうーたんに問題を当てたり、教科書を読むように言ったらね、うーたんはお洋服の袖をぎゅっと握って下を向くの。先生が怒りながらうーたんの名前を呼んでも、周りのみんながクスクスって笑ってても、うーたんは何も聞こえないふりをして、ずーっと下を向くのです。で、先生が呆れながらうーたんの後ろの子を代わりにあてたら、その子はうーたんにも聞こえる声で舌打ちをしてから、うーたんが座ってる椅子を後ろから思いっきり蹴るの。悪いのはうーたんだから、うーたんは黙ってごめんなさいって言います。それからうーたんは心の中で、うーたんが知ってる哲学者の名前を一人ずつ挙げていくの。でもね、うーたんがそんなに哲学者を知ってることを、周りにいる人は誰も知らないのです。


 うーたんのママはね、お酒が大好きなのです。ママはパパよりもお酒が好きだったからね、パパはうーたんが小さい頃にうーたんの幼稚園の先生だったまりちゃん先生と違うお家に住むようになったの。まりちゃん先生は優しい先生だったよ。うーたんがママから叩かれてお顔にあざができた時もね、一番最初に大丈夫って声をかけてくれて、うーたんの痛いところを何度も何度もさすってくれたの。パパがまりちゃん先生と暮らすようになった時ね、パパとまりちゃん先生がうーたんも一緒に暮らそうって言ってくれるかもって思ってたの。でもね、その時にはもうまりちゃん先生のお腹にはお赤ちゃんがいたから、うーたんがパパとまりちゃん先生と一緒に暮らすのは無理なんだってパパはうーたんにそう言ったんだ。


 この前パパと久しぶりにファミレスで会った時ね、パパとまりちゃん先生の二人目の子供も一緒に会いにきてくれたの。その子はよーたんって言うの。よーたんは五歳くらいで、きちんとアイロンがけされたかわいいポロシャツを着てた。うーたんはその日、襟元がよれよれになったTシャツを着て、三日間ずっと同じ下着を履いていたから、綺麗な格好をしたよーたんを前にしてすっごく恥ずかしかったのです。パパがうーたんの格好をみて眉を顰めて、ママからお洋服を買ってもらってないの?って聞くの。養育費は毎月渡してるってパパが言うから、それはママがお酒を買うお金に使ってるよって教えてあげたの。


「全く……困ったもんだね」


 パパはふぅってため息をついたタイミングで、よーたんが机の上のお水を倒しちゃった。パパはあーあーっていいながら店員さんを呼んで、よーたんと一緒にこぼれたお水を拭き始めたの。もしうーたんがママとファミレスに来ていて、同じことをうーたんがしたら、何度も何度も頭を引っ叩かれちゃうから、羨ましいなぁってうーたんは思ったよ。お水をこぼしても怒られないよーたんをずっとみてたらね、うーたんの胸の中でもやもやした気持ちがどんどん込み上げてきてね、気がついたら身を乗り出して、よーたんの髪の毛を右てでぐっと掴んでたの。でね、それから思いっきり髪の毛を引っ張ったら、ぶちぶちってすごい音がして、よーたんがすごい大声で泣き出したの。そしたらパパが見たことないくらいに顔を真っ赤にして、何してんだっ!!って怒鳴りながら、うーたんの頬を思いっきり引っ叩いたの。


 それがとっても痛かったからうーたんもわって泣き出しちゃったの。ファミレスの隅っこの席でうーたんとよーたんがわんわん泣いて、だけど、もちろんパパはよーたんだけよしよしって頭を撫でてる。うーたんもすっごく痛かったけど、誰もうーたんに大丈夫って声をかけてくれなかったよ。パパは財布から一万円札を取り出してそれをバンって机の上に置いて、そのままよーたんと一緒にお店を出ていったの。うーたんはその後もずっと泣いてたけど、引っこ抜いたよーたんの髪の毛だけはぎゅーっと握りしめてた。


 うーたんは哲学をします。哲学をしている時は、嫌なことを忘れられるからです。でね、いつも行ってる図書館でね、最近すごい賞を取ったっていう若い大学の先生の講演会があったの。うーたんはね、みんなよりも哲学について詳しいから、わくわくしながらそれを聴きに行ったの。会場にいたのはうーたんよりもずっと年上の人ばかりで、うーたんと同い年のことたちがいなかったのが、うーたんはどこか誇らしかったです。うーたんは隅っこの席に座ってね、大学の先生のお話をじっと聴いたの。


 うーたんはね、みんなよりもたくさん難しいお本を読んでるから、きっとその人の話がわかるって思ってたの。でもね、その人の話はすっごく難しくて、うーたんにはちんぷんかんぷんだったの。先生はうーたんが読んでるよりもたくさんお本を読んでてね、うーたんの知らない言葉をたくさん知っててね、うーたんよりもずっと難しいことを考えてた。講演会の途中でね、その人へのインタビューがあったの。どうして哲学を学び始めたのかって質問にね、その人は大学で働いている両親の影響だって話してたの。うーたんと同い年くらいで哲学の本を読み始めて、有名な論文の大会で最年少で優秀賞をもらった時に両親からすごく褒められて嬉しかったこととか、大学で知り合った友人と議論を交わした時間がとても貴重だったって、目をきらきらさせながらお話ししてたよ。


 うーたんはそれを聞きながらね、すっごく悲しい気持ちになったのです。その人はうーたんよりもずっと頭が良くて、うーたんの知らないことをたくさん知ってて、だけど、うーたんよりもずっと幸せそうだったから。うーたんとは違って優しいパパとママがいて、友達だってたくさんいて、いじわるされたりしない。講演会が終わったら、うーたんの色んな人がその先生に話しかけてたんだけど、先生はうーたんみたいにビクビクしないでたくさんの人と楽しそうにお話ししてるの。そんな先生を端っこの席でずっと見てたらね、うーたんはすっごく気持ち悪くなって、走ってトイレに駆け込んで吐いちゃった。お昼に食べた食パンの耳が黄色い胃液でドロドロになっていて、水に流しても流してもずっとそこにあるような気持ちがしたよ。うーたんはそれがまた気持ち悪くてね、自分の喉に手を突っ込んで、もう一度吐くことにしたの。


 図書館から帰ったらママはいつものようにキッチンでお酒を飲んでてね、講演会は楽しかった?って聞くの。そしたら、うーたんはママを怒らせないように、頑張って笑顔を作って、大丈夫だよって言うの。だけど、ママはヘラヘラしてんじゃないよって怒鳴って、中身が入ったままのビール缶をうーたんの頭に投げつけるよ。悪いのはヘラヘラしてるうーたんだから、うーたんはママにごめんなさいして、それからお部屋に戻るのです。


 自分の人生を果物に例えると何ですか?


 偶然開いた本の一ページにね、そんな言葉が書かれてたの。一生懸命考えてみたんだけど、うーたんはうーたんの人生が檸檬みたいだなって思ったよ。辛いこととか楽しいことをたくさん経験することを酸いも甘いも噛み分けるっていうんだけどね、うーたんのこれまでの人生はずーっと酸っぱいことしかなかったから。


 うーたんは難しいお本を読んで哲学をします。多分これからもうーたんの人生は酸っぱいことだらけだと思うけど、哲学をしているとそんなことも気にならないのです。隣の部屋から、お酒を切らしたママが赤ちゃんみたいに泣いてるのが聞こえます。ママが悲しそうにしているとうーたんの胸がすごくざわざわして、うーたんも泣いてしまいそうになります。そんな時、うーたんは心の中で、うーたんが知ってる哲学者の名前を一人ずつ挙げていくよ。


 でもね、ママも学校の先生もみんなも、誰も知らないのです。うーたんがそんなに哲学者を知ってることも。うーたんが毎日哲学しているということも。

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