異世界召喚であてがわれた旦那様は稀代の極悪犯罪者だった
「おい、聞いたか。あのダグラス・カーンに婚姻紋が現れたらしい」
街は今、常であればたいして珍しくもない婚姻紋の現れた男について盛り上がりに盛り上がっていた。
「なんであんな犯罪者なんかに……」
そもそも、この世界では女性が生まれない。
そのため結婚適齢期になると世界の神々が異世界より女性を召喚し、婚姻紋が現れた者と最も相性のいい女性をあてがうのだ。
それが異常なことという認識が異世界の者より伝え広められてからは、この世界の男たちは女性を女王様のごとくもてなし敬うようになったが、それでも上手くいかない夫婦は多い。
「神々の考えることがわからない。なら俺に嫁が来てもよくないか? もう今年で三十四だぞ」
「いや、お前はまず財力がないからだろう。召喚した嫁を養えないような男に、神々が婚姻紋をつけるわけがない」
そう言って笑う男たちの顔には、不満げな色が乗っている。
「でもなあ……国家転覆を狙ったダグラス・カーンに婚姻紋が現れるのは納得いかないのはわかる」
「刑期の途中でも嫁ってもらえるんだな。それこそ財力ないだろうに。どうなるんだ?」
「聞いた話では一緒に牢屋で過ごすことになるらしい」
一瞬にして同情めいた空気になる。
「召喚される側からしたら、ただでさえ人生の全てを捨てさせて有無を言わさず連れてこられるのになあ」
「住処が牢屋か。あの男、罪が重すぎるせいでフローズ監獄にいるんだろう? カビ臭くてネズミや虫が這う場所だ」
「生活費は俺らの税金から出るのか? それはそれで嫌だな」
「どうにかしておじゃんにならねぇかなあ~」
わかってはいるのだ。
ここで男たちが何を話そうとも、婚姻紋が現れてしまえばどんな犯罪者であれ神殿に呼び立てられると――……
+ + + + +
「なぜダグラス・カーンに婚姻紋が……神々は何をお考えなのか……」
神殿長は今朝方もたらされた凶報に頭を抱えながら、いつもそうするように婚姻紋が現れた男を招くための準備を進めていた。
今まで犯罪者に婚姻紋が現れたことはなかった。
だから法律も初期に設定されたとおり“犯罪者であれど、神々が選んだ男であれば嫁を娶っても良い”としていたのだ。
その裏で「まあでも犯罪者などを神々が選ぶことはないだろう」という自信があったのが運の尽き。
とはいえ法を変えて“たとえ婚姻紋が現れたとしても、犯罪者はそれに該当しない”としてしまえば、それはそれで神々の意に反したことになり信仰心の面で問題になってくる。
「なんとも悩ましい問題ですね」
大きなため息とともにそう言えば、同じく準備に追われていた側仕えに同情めいた眼差しを向けられた。
「しかも婚姻紋が現れたのが早朝で、召喚は今日の夜ですよね? 随分と急なのですね」
「……神々のお考えはわかりませんが、私達はただ“はい”と言えばよいのです」
「……なるほど」
納得いかなそうな表情で頷いた側仕えは、止めていた手を動かす。
「神殿長様、とは言え既に街ではデモが起こっているとか。この物々しい警備の多さや外出禁止は、そのためなのでしょう?」
「あなた方に怪我をされては困りますからね。王が特別に手配してくださったようです」
それに――と続く神殿長の声はかたい。
「何十人といた王の近衛をたった一人で壊滅させたダグラス・カーンです。脱走される可能性を考えれば、やりすぎなんてことはないのですよ」
「ですが、お嫁様の気配を感じた男は、どんな粗暴な者でもお嫁様だけには惚れに惚れて全てを差し置いて最優先してしまうと聞きます。神々が私達に与えてくださったその特質を、果たして脱走をするということのために殺すことなどできるのでしょうか?」
それは抗えない本能。
嫁が得られるというのに脱走などするはずがない。
そう疑いもしない側仕えに、神殿長は苦笑する。
「あの男は親兄弟を殺し、旧知の友である国王の暗殺を企てた者です。念には念をということですよ」
「なるほど……」
未だに納得の行かない顔をする側仕えの頭をなで、神殿長は小さくため息をつく。
「どうかお嫁様の心にやすらぎがあるように」
呟いた言葉はかすれており、誰の耳にも届かなかった。
+ + + + +
「…………」
コーヒーが煮詰まったような色をしたボサボサの髪は、男の目をすっかり覆い隠していた。
垢の浮いた体に脂ぎった髪、それから無精髭となんとも言えない据えた臭い。
軽くウェーブがかかった髪には、チラホラと白髪が見える。
この男こそが、いま巷で話題になっているダグラス・カーンであった。
「ほら、早く手を出せ」
目の前の男の存在を忘れていたかのような反応をしながら、ダグラスはゆっくりと両手を差し出す。
その腕は太く、筋肉質だ。
木枠で作られた手枷と足枷。それには動きを鈍くする魔法印が刻まれている。大の男でも逃げ出すことは難しいとわかっていながら、枷をはめる牢屋番の手は震えた。
「こんな汚ぇ格好で嫁を迎えるなんてぇのは、まったくもってダセぇなあ」
怖いのだ。目の前の男が。
平然と人を殺し、女子供にも容赦なく、国を潰そうとした男が。
今は何事か考えているような素振りで心ここにあらずといった風だが、ダグラス・カーンは素手とナイフ一本で大量殺戮を行い、国家転覆に失敗して投獄されている。
「なあ、そうは思わねぇか? 嫌われちまうんじゃねぇのか俺ぁ」
一体なぜこれほど力のある男が失敗したのかは永遠の謎となっているものの、巷では“急に飽きがきた”というのが有力である。
そんなふざけた説が当たり前に流れるほど、ダグラスは異常なことで有名だった。
「…………」
「無視かよ」
ビクリと牢屋番の手が震える。
圧倒されて動けず、呼吸が荒くなる。
ただ見られているだけで、視線は合っていない。それなのにどんどん呼吸ができなくなる。
「……枷をはめ終わったならどけ」
見かねたもうひとりの牢屋番が肩を叩けば、腰を抜かしたように座り込んで、ようやく呼吸をする方法を思い出したかのように激しく息をし始めた。
「出ろ」
そう声をかけながら、枷に太い鎖をつなげる。
まるで犬だな――そう呟きながら、ダグラスは頭を下げて扉をくぐった。
「ああ、眩しい」
ダグラスが道を歩けば、誰しもがギョッとした様子で距離を置く。
しかし気にしたふうでもなく、ダグラスは空を見上げて楽しげに口を歪めた。
誰も話すことなく神殿まで到着した一行は、敵意を隠そうともしない神殿職員たちに導かれて召喚の間へとわたった。
「……では、現れたという婚姻紋を見せなさい」
部屋の中で焚かれた香は、ダグラスの悪臭を消すためかいつもより香りがきつい。シャンデリアの光がぼんやりと乱反射するほどの煙に、警備員たちは皆顔をしかめている。
それでも司祭が思わず鼻を覆うほどの誤魔化しきれない悪臭を漂わせながら、ダグラスはボロボロの布切れを脱ぐ。
五年も投獄されているとは思えないほどの筋骨隆々とした肉体が現れ、ひ弱な者ばかりの神殿職員たちはダグラスが急に暴れだしたことを想像して身震いした。
「……ああ……確かに、これは婚姻紋ですな」
その胸に現れたのは複数の淡桃色の花。
花弁が五枚ついており、花弁の先は豚の蹄のように割れている。
「花の形から察するに、チキュウというところのニホン国でしょう」
「ははっ、ツイてねぇなその女も。俺なんかの嫁にされちまうんだからよ」
自嘲するではなく、ただ単純に他人の不幸を笑う。
その姿に顔を歪めながら、司祭は無視をして教典を開いた。
常人には聞こえない声で、異世界からの嫁を迎える唄をうたう。
「…………」
その瞬間、ダグラスの様子が明らかに変わった。
今までにない焦ったような、それでいて今にも逃げ出しそうな身じろぎに、警備員たちが警戒を強める。
「……こりゃ早まったか」
ダグラスがそう呟くのと、部屋が光で満たされるのはほぼ同時だった。
「いやぁぁあ!! だーから眩しいっつの!! なに!! 目が潰れる!」
甲高い声に神殿職員たちが肩をすくめて目を細める。
「……どうやら今回のお方は活きの――お元気な方らしい」
うたい終えた司祭がため息交じりに呟けば、その目を刺すような光もおさまっていく。
そうして部屋の中央に立っていたのは、ひとりの若い女だった。
肩口で切りそろえられた艷やかな黒髪。前髪は横に流されている。今は閉じられているが、少しだけつり上がった目と眉は意志の強さを感じさせた。
小柄で痩せ型。ダグラスと比べると三十センチほどは違うだろうか。モコモコとした部屋着を着ているところを見るに、家でくつろいでいたのだろうと思われる。神殿職員たちは時間も場所も選べない召喚のシステムを思い出し、女に同情した。
「ぐうう……私の目、壊れた? 大丈夫? 痛いんだけ――」
まぶたが赤くなるほど拳でこするのを止めたのは、ダグラスだった。
「やめておけ。腫れる」
恐らく、女は誰かが近くにいるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。
ハッとしたようにダグラスを見上げ、眼球が零れそうなほど目を見開き、それからダグラスにつけられた手枷、足枷、鎖を舐めるように見て、その後に周囲を見渡したっぷり固まった後、部屋にいる全員が思わず耳をふさぐほどの悲鳴を上げた。
それだけならまだ“うるさい女”で済んだのだ。
「あっ!!」
誰が叫んだのだろうか。
次の瞬間には軽快な破裂音――つまり、錯乱した女はダグラスの頬を力いっぱい平手で叩いていた。
男はその場から一歩も動かなかった。文字通り少しも動かなかった。どういうことかと言えば、叩く勢いを殺すために顔を背けることすらしなかったので、叩かれた衝撃で星が見えるほどには痛い思いをしていた。
「…………」
決して避けられなかったわけではない。
単純に避けようと思わなかっただけだ。
目の前に現れた女に、どうしても触れられたくて。
それに気づいた瞬間、ダグラスは十数年ぶりに体を折るほど笑い転げた。
「……えっ、ごめんなさい叩いちゃった……頭……え、私のせい……?」
周りの人が何か援護してくれるかもしれないと思った女の期待は見事に外れ、全員が他所を向いている。
「やあ、俺はダグラス・カーンだ。こんな格好で申し訳ない」
かかげた手には重そうな手枷。
「……あ、はい。どうも」
「名前は教えてくれないのか?」
「え……」
女はサッと鎖に目をやると、その先がいかつい警備員の手に握られているのを見て五歩後ろに下がった。
「だってあなた犯罪者的な人なのでは? 別に私名前聞いてないし。そっちが勝手に名乗ったんでしょう」
そう言いながら、さらに三歩下がる。
「残念ながら助けはないぞ。俺の嫁に手を出したやつは五秒以内に死ぬからな」
「……嫁?」
「ようこそ、男しか生まれない世界へ」
両手が自由であれば大きく広げていたのだろうと思われるほど尊大な動き。
むしろ拘束されていてよくここまで表現できたなと思うほどである。
「あ!! 知ってる! これ異世界トリップってやつだ。しかも強制的に嫁にされちゃうやつでしょ。私オタクだから詳しいんだ」
冷静に言っているようで、実のところ女は非常に混乱していた。
当たり前である。
現実に起こり得ない異世界トリップが我が身に起こり、無理やり押し付けらた夫となる者は明らかに拘束されているのだから。
「こんな体験ができて楽しかったです。じゃあ、私はこれで。そこのあなた、私を元の世界に帰していただけますか」
冷や汗をかきながら引きつった笑みで司祭を見れば、司祭の可哀想なものを見る目に女の顔がこわばる。
「……知ってる。その顔。私は絶対に帰れないし、絶対にこの人を夫にしなきゃいけない流れなんだ」
「……その通りです」
乾いた笑いが女の口から漏れ出て、その直後に建物を揺らさんばかりの泣き声があがった。
+ + + + +
「なんで私まで!?」
抗議虚しく牢屋の扉に錠が落ちる。
「悪いな、俺が犯罪者であるばかりに」
「本当だよバカ! だいたいそれって必要最低限の財力もないってことでしょう? そんなのでよく嫁を迎えようと思ったわね」
「それを言われると胸が痛む」
「嘘つけ」
まるで悪いなどと思っていないニヤニヤとした笑みに、女は目を細めた。
「この国の法律で夫婦が離れて住むのはダメなんだ。夫が犯罪を犯せば妻も道連れ。その逆もしかりってな」
「クソ法律」
「まったくだ」
「クソ旦那」
「胸が痛い」
「嘘つけ」
大きなため息をついて、すぐさまハッとしたように顔を上げる。
そして部屋着のズボンから紐を引き抜くと、それを牢屋の中央に置いた。
「それは?」
「境界線。ここを超えてこちらには来ないで」
「命令か?」
「命令? いやそんな偉くないし。お願い……いや、お願いという名の強制だわ。一緒に住む以上、最低限のルールは必要でしょう?」
なるほど、と男は視線を天井へ向ける。
あまりにもそれが長いので何かあるのかと女が天井を見上げるが、特に何も見当たらず目を細めた。
「で、聞くの聞かないの?」
「よろしい。聞こう。その線からそちらには無断で出ないようにする」
その言葉に頷くが、すぐさま男の顔が意地悪そうに歪むのを見つけて顔を引きつらせる。
「ただし、ベッドもトイレも俺の部屋の側にあるけどな」
「……あんた嫌い」
ダグラスの笑い声が石壁に反響し、女は鼻を鳴らして座り込んだのだった。
+ + + + +
「わ~嬉しい!」
人の良さそうな笑みを浮かべるのは若い牢屋番だ。
それを面白くなさそうな顔で睨みつけるダグラスをものともせず、極めて温厚な口調で「いいえ、いいんですよ」と言う。
「まさか言えばベッドを貸していただけるなんて思っていなかったから、とても助かります。仕事が速いですね」
「恐縮です。洋服と下着の替えも定期的にお持ちしますので。あと衝立はこの後すぐにでも」
「まあ、ご丁寧に! ありがとうございます! でもお金とか……大丈夫なんですか? その、どこから……」
自分の夫を名乗る男をゴミを見るような目で見れば、拗ねているのかいつの間にかそっぽを向いてこちらを見ようともしない。
「ああ……あの男、貯金だけはあるようなので、そこから使っています。ご心配なさらず好きなだけお使いください」
「なら安心ですね」
「夕方頃にお食事をお持ちします。ああ、それから床や壁はまだ掃除が終わっていないので、あまり触れないほうがよろしいですね。何分急なことで、掃除夫の手配が明日になりそうで……」
申し訳無さそうな顔をする若い牢屋番に、女は笑顔でこたえた。
「全然! 気にしないでください。こうして靴も貸していただけましたし」
「あ、そうだ。お風呂とお手洗いに関しては、兵舎のものを使っていただくことになります。女性軍人に迎えに来させますから」
「あら、お気遣いありがとうございます。本当に助かります」
それでは、と爽やかな笑みを浮かべて去っていく男を笑顔で見送りながら、その姿が見えなくなるとスッと表情を消した。
驚いたのはダグラスだ。
「お前、あの男に気があるんだと思ったが」
「はあ? 初めて会う人になんで」
「あんな笑顔を向ければ、誰だってそう思う」
「そんなまさか。優しくしてもらった人に無愛想にしろって言うの?」
「普通、女は旦那を通してしか異性と話さない」
まあ異世界から来た女はそんなこと知らないだろうが、と言うダグラスに、女は心底面倒くさそうな顔をする。
「男しか生まれない世界だっけ? 本当なのか疑わしいけど。だいたいさっき女性軍人がいるって言ったじゃない」
「あれは嫁が軍人として働いていると言う意味だ。旦那と同じ寮で過ごしている。恐らくは既婚者棟だろうな。既婚の男は他の女に手を出さない」
「不倫とか浮気が平気である国で生まれた私からしたら、あまり信用ならないけど」
「フリン、ウワキ。良い意味ではなさそうだな」
女は手を払いながらため息をつく。
「既婚者とか付き合っている男女が他の人に手を出すこと」
「……俺ぁなかなか悪いことをしたと思うが、それでもその話は信じられんな」
「あ、そうだ」
目を見開きながら、責めるような視線をよこす。
「あなたに聞いておかないといけないことがあったんだった」
「なんだ? まず名前を呼んでくれると嬉しいんだが」
「ねぇ、なんの犯罪を犯してここにいるわけ? それ次第では即出ていくんだけど」
「……なるほど。なら即出ていくことになりそうだ」
苦い顔を浮かべながら顎を擦るダグラス。
その姿を見れば、旧知のものや毎日顔を合わせる牢屋番はさぞかし驚いただろう。
「裁判で読み上げられた罪状によれば、十三人分……いや、十七か。十七人分の殺人と、それから国の転覆を企て実行した。あとは王宮への不法侵入に加えて王族の暗殺未遂。それから近衛兵らへの暴行、政府書類の偽造、あとは――」
「牢屋番のお兄さーん!!」
牢屋の檻を両手で掴んで少しでも顔を外に出そうとする。
想像通りの反応に思わず吹き出した。
しかしどうしたらこの女が自分を受け入れてくれるだろうかと考えていることに気づき、ダグラスは苦い顔になるのだった。
+ + + + +
「えっ、これだけ?」
手渡された食事は一人分として十分な量があった。
そう、一人分としては。
「足りませんか?」
「明らかに足りませんよね。あなたはこれが二人分だと言われてよこされたら足りるんですか?」
思わずキツイ言い方になってしまったとばかりに気まずそうな表情を浮かべるが、しかし発言を取り消すつもりはないと眉根を寄せる。
「ああ、いえ。これは全部あなたのぶんです。あの男のは――おい飯だ」
そう言いながら牢屋番がカートに乗せられた籠から出したのは、小さく、見るからにカビの生えたパンがひとつ。
それを地面に放り、ダグラスの方へと転がした。
「……何それ」
牢屋番は我儘を言っている子供を見るような目をする。
「この男は食事を与えられるだけいいのです」
そう言って牢屋に鍵をかけ、牢屋番は去って行く。
何も言えない自分に腹が立ち、お盆を持っている手が震えた。
温かいコーンスープ。焼きたての丸パンがみっつ。豚肉のソテーが二枚、付け合せの野菜と、何種類かの野菜を混ぜたサラダ。果汁のジュースに何かの果物がデザートとしてついている。
なのに、すぐ横にいる男にはカビた小さなパンがひとつ。
「おい、知っているか? この牢獄は国内で最も厳重に管理されているんだ」
カビたパンを拾い上げ、ダグラスが投げて遊ぶ。
「そしてこの牢獄には俺しかいない。それがどういう意味かわかるか?」
「そんなの知らない。ただ、今わかっているのは……」
お盆を持ったまま線を踏み越え、音を立ててお盆を地面に置く。
そしてカビたパンが宙を舞うのをつかまえて、そのパンを鉄柵の隙間から外に向けて力いっぱい放り投げた。
「……何をするんだ。俺の晩ご飯だぞ」
「私の国では死刑になる犯罪者にすら人権があったの。こんなことが、当たり前に起こる世界なんかクソ食らえだわ」
そう言って丸パンをふたつダグラスに手渡す。
押し付けられる形で思わず手にとってしまったそれは、久しく感じたことのない食欲を刺激した。
「…………」
無言で料理を半分ずつにしていく女を困惑しながら見つめていれば、やがて女は怒りすぎて今にも泣きそうな顔でダグラスを見上げる。
「スープとジュースは、私が先に飲む」
「あ、はい」
思わず敬語で応えてしまい、それから我に返ったように「いや、待て」と呟いた。
「なによ」
「お前、自分で言っておきながら早速最低限のルールとかいうやつを破っているんだが」
言われている意味がわからないといった表情を浮かべたその直後、ハッと振り返り自分で置いたズボンの紐を見つめる。
「……私、本当にあんた嫌い」
今度こそ本気で泣き出してしまった女に、ダグラスはどうしていいのかわからず途方に暮れた。
+ + + + +
「初日から嫁に意地悪して泣かせたらしいな」
楽しげな声が聞こえ、子供の時ですらしなかったような顔の歪ませ方をする。
寝転がっていた体を起こしてみれば、いつも真夜中にしか来ない男が座り込んでいるのが見えた。
「お前に娯楽を提供したわけじゃない」
「八つ当たりするなよ。カビパン取ってきてやったぞ」
外から放り投げられたパンを受け取り半分に割る。その中には小さな巻紙が入っており、それにサッと目を通したダグラスは紙だけ噛み砕いて飲み込み、パンはポケットへとしまった。
「いつまでここにいる気だ?」
「嫁が痩せ細る前には出る」
即答したダグラスに現れた男は思わず笑う。
「ああ、餌付けされているんだって? 牢屋番が泡食ってたぞ。ま、ならすぐ出ないとな。次は失敗するなよ」
「お前……どの口が――」
「あーあー、うるさく言うな。嫁が起きるぞ」
チラッと衝立の方を見れば、小さく、しかし確実に怒っているとわかる声色で「見るな」と怒鳴る。
「なあ、そんな急に嫁に執着できるものか? 独身の俺にはわからんね」
「別に執着はしていない」
「執着しているように見えるが。まあ、お前嫁にするなら胸がでかい女がいいとか言っていたしな」
その一言で部屋の温度が下がる。
さすがに言い過ぎたかと笑って誤魔化すその姿に、ダグラスは次はないと脅しをかけた。
「……別に、本当に執着はしていない。ただ――」
横目で衝立の向こう側を見る。
暗闇の中。微かにそこに誰かが寝ているとわかる膨らみが見え、柄になく見てはいけないものを見てしまったような気まずい気持ちになって視線をそらした。
「これ以上一緒にいたら確実に執着するとわかった……そんなところか? お前、昔から気に入りそうなオモチャに対する行動がヤバかったから、せっかく来てくれた嫁に逃げられないように気をつけろよ」
クスクスと笑いながら男は立ち上がる。
「急で申し訳ないが、お前の決意が新たになったのなら丁度いい。決行は本日一刻後だ。お前が動いている間、嫁は俺が責任を持って保護しよう」
「……くそったれ」
暗闇でも男がニヤリと笑ったのがわかる。
頭をガリガリと勢いよく掻きながら、ダグラスは最低限のルール紐を踏み越えて牢の扉の鍵を音も立てずに破壊した。
「三十分……いや、二十分で戻る」
「アハハ!! お前本当に楽しいやつだな!」
伸ばされたダグラスの手を避けながら、男は牢屋に入って魔法で鍵を直す。
その様子に舌打ちをし、ダグラスは足早に地上への階段を駆け上がるのだった。
――そしてこの日。
この国は地図上から消える第一歩を踏み出したのだ。
+ + + + +
「ええ……空……?」
困惑したような声が聞こえ、ダグラスは馬車の荷台に目をやる。
「……どこ……ていうか、え……え、や、まさかとは思うけど……」
段々と青ざめていく女に、口角が上がるのが止められない。
「あんた、脱獄した……!?」
「アハハハッ!!」
「アハハじゃない……!! なに、本当に脱獄したの!? いや~!? まさかの私まで犯罪者!? 何なの本当にあんた最低!!」
「落ち着け」
落ち着けと言ったものの、込み上げてくる笑いが止まらない。
やがて顔を真赤にして「笑ってないで説明してよね!」と怒り出した女を見て、吹き出しそうになるのを堪えながらなんとか口を開いた。
「なんでか知らんが賊か何かのせいで国が潰れてな。周囲も手を出さないって言うんで犯罪者はみんな野放しになった」
「地獄じゃん」
「まあ近隣諸国からしたら地獄だわな。俺が言うのも何だが、あの国は閉じ込められていた凶悪犯罪者が多かった」
口角を上げながら、ダグラスは鼻で笑う。
「で、晴れて無罪放免となった俺は生まれ故郷にお前を連れて行こうと思ったわけだ。まあ向こうでも犯罪者で名前が通っていると思うが、ここよりは理解のあるやつが多いんでね」
「別に無罪放免になったわけじゃないでしょ。というかそれ、まさか犯罪者の巣窟なのでは」
「お、察しが良いな」
「私のことはここに置いて行って」
何がおかしいのか事あるごとにダグラスは笑う。
女の一挙手一投足がおかしくてたまらないとばかりに笑う。
予想があたった、面白い、といった具合にだ。
「そもそも国が潰れそうな予兆なんか何もなかったけど……なんで……」
「そんな予兆、国に来たばかりのお前がわかるか?」
「……そういう事が言いたいんじゃなくて」
「なんだよ。女ってのはわかりづれぇな」
「あんたは人間としての何かが欠けてんのよ!! わかるでしょう、そういうことが言いたいんじゃないって……!」
人間としての何かが欠けている。
遥か昔に母親から同じことを言われたなと思い出し、思わず笑う。
あれは確か母親の大事にしていたお酒の瓶を割って笑ったときのことだっただろうかと思いを馳せる。
「そう言えば、おふくろは今頃なにしてんだろうな」
「は? あんた親いるの? てっきり木の股から生まれたんだと思ったわ」
「純血の悪魔じゃあるまいし」
「悪魔じゃなかったの?」
ニヤリと笑う。
「お前……そんな口の聞き方をするの、お前だけだぞ」
「なに中二病みたいなこと言ってるの」
「チュウニビョウ?」
「あんたみたいな人のこと」
「意味はわからんが馬鹿にされているのはわかったぞ」
馬鹿にされてなお、怒りはない。
自分だけが楽しんでいることはわかりつつ、ダグラスは非常に上機嫌で馬車を操る。
「まあ、置いていってもいいんだがな。このあたりは野盗が多いんだ」
「次の街までは私もついていってあげるわ」
「そーかい、そりゃあ嬉しいね」
心底驚き嬉しく思っています、というようなわざとらしい声を出せば、女は目を細めて鼻を鳴らした。
それと同時に小さくお腹の鳴る音がする。
「…………」
「ああ、だいぶ前に食事をしなくなったんで忘れていたな。人間は食事が必要だった」
「だいぶ前に……? 人間……? ちょ……何を言っているのか……」
イマイチ話が通じてないのを感じ、わずかに首を傾げる。
そしてようやく思い当たったとばかりに手を打って、小さく「ああ」と声を漏らした。
「言ってなかったか。俺は人間と悪魔の間に生まれた混血の悪魔だ。普通の食事も摂るが、いわゆる普通の食事ってやつは娯楽でな」
「いやっ、ちょっ……と理解が追いつかないですね。そういう設定?」
「設定? わからんが」
「まさかの人外」
「人外は嫌いか? まあ、嫌いなやつは多いから悲しみも驚きもしないが」
問われて、一瞬迷う。
「……き、ら……い……? いや、なんか、そんなんじゃなくて……そう、単純にあんたの性格が激ヤバって言ってんだけど」
なんとか自分の中でしっくり来る言葉が見つかり深刻そうな顔で言えば、ダグラスは馬が嘶くほどの大声で笑った。
「おーいそこの〜。楽しそうなところ申し訳ないなあ~。じつ~に申し訳がない」
そんなときだった。
見るからに野盗と言った風体の男たちが馬車を取り囲む。
「えっ……これ本物? これが野盗?」
「まあそうだな」
ダグラスは先程まで大笑いをしていたとは思えないほど面倒くさそうな顔をしてため息をつく。
「野盗を見るのは初めてかな、お嬢さん」
「はあ、まあ……あなた本当に本物の野盗なんですか?」
「おーい……この国だと嫁は旦那以外の男と直接口をきかないのが普通だと言っただろう?」
「なあお嬢さん、見せてやろうか? 俺たちが本物だって証拠をさ」
そう言うが早いか、並走してきていた野盗の一人が女の腕を掴む。
なんの声も出なかった。ただおぞましいと一瞬感じたが、次の瞬間にはその感覚が消える。
「こっちへ――え?」
女の腕を掴んだ野盗の声だ。
肘から下が消え、見覚えのある色が吹き出す。
「う、う……うわあ……!?」
あっという間に落馬して、その勢いで馬ごと崖の下へと消えていった。
「この野郎……!!」
一気に殺気立つ野盗たちに、未だ現実を受け入れられていない女が困惑したような声を上げる。
「な、なに、いま、え……わ!?」
「俺がいいって言うまでかぶっていろ」
飛んできたマントに埋もれながら、女はバタバタともがく。
「このクソ野郎!! お前ら、女と金だけ盗れ! 男は切って崖の下に捨てろ!!」
「やれやれ。俺ぁまだ優しい旦那様でいたかったんだがな」
「あんた優しいことあった!?」
気の抜けるツッコミに思わず笑った。
「心外だな。では優しい旦那様だということをわからせてやるから、しばらくそこでジッとしていろ。いいな」
「いいなも何も、それが一番安全ならそうするから……だから……」
「だから?」
「……と、取り敢えず、怪我せず、相手を殺さず、いい感じにまとめて!!」
殺しちゃあ駄目なのか。なんとも難しい注文だ。
そうぼやきながら首を鳴らす。
マントの下で震えているのがわかり、それを見た瞬間、チキュウ人ってのは争いごとになれていないやつが多いんだったなと思い直して自己嫌悪に陥る。
何に対しての自己嫌悪なのか。そんなこと気づきたくもなくて、抜いていたナイフを鞘に収めて拳を握った。
「お前達、幸せだなあ。死ななくて済むらしいぞ」
「クソが舐めやがって……!!」
なぜ自ら死のうとするのだろうかと訝しみながら、ああそうだいけない殺しては駄目なのだったと思い直してため息をつく。
「こりゃまた今までで一番難しい依頼だな」
「は、早くしてよぉ~」
情けない涙声に吹き出す。
「…………」
なあ、知っているか。今、この馬車の手綱を握っているやつはいないんだぞ。
そう伝えたらどんな顔をするのだろうと思いながら、ダグラスは見る者を震え上がらせる凶悪な笑みを浮かべるのだった。
+ + + + +
「見えてないし耳塞いでるから何も起こってない。見えてないし耳塞いでるから何も起こってない」
呪文のように何度も小さく呟く声に、ダグラスは思わず笑う。
「おい、もういいぞ。無いと思うが怪我は?」
二分も経っていない。
しかし女からすれば非常に長い時間であった。
恐る恐るマントの隙間から出した顔は涙に濡れており、ダグラスは何故かとんでもない罪悪感に襲われた。
「……あんた本当に災難だな。俺なんかの嫁になっちまってよ」
「本当だよ馬鹿!!」
若干傷ついたことに驚き、胸に手をあてる。
「……おー、怖。傷ついたぜ」
「でも……助けてくれて、ありがとうございました」
聞き逃しそうなほど小さい声に、先ほどとは打って変わって気分が上がるのを感じる。
「俺ぁ強ぇだろ?」
「見てないからわかんないし、暴力する人はみんな嫌い」
「…………」
強い男は好まれるんじゃないのかと呟きながら、ダグラスは馬にまたがる。
そして自分が汗をかいていることに気づき――もちろんこれは戦ったからではなく、女の言葉に傷ついて出た汗だが、とにかく風下になるであろう女に「あんた、臭い」と言われるかもしれないと慌てて荷台を振り返る。
「タオル取ってくれるか?」
そう振り向きながら髪をかき上げたときだ。
未だに拗ねたような顔をしていた女が、目も口も見開いて間抜けな顔になる。
「……なんだよ」
「あなた、絶対前髪は上げたほうがいいよ」
「なんだ、格好いいか?」
「うん、格好いい。あービックリした。モテるでしょう? 凄く格好いい。ワイルドって言うのかな。大人の魅力? なんかこう、芸能人みたい。って言っても伝わらないか」
いつものように軽口を叩いたつもりだった。
しかし思わぬ肯定に顔に血が昇るのを感じ、慌てて前を向く。
「……いいからほら、タオル」
「ああ、ごめんなさい。はい、どうぞ。強いし格好いいってなんのチート? ずるいなあ。私も芸能人バリに可愛くなってトリップしたかった」
「……うるさい」
――この国には女が生まれない。
嫁として現れた女とも旦那を通してしか話せないので、異性交流など母親くらいだ。
つまりこの男、驚くほどちょろいのである。
ギャップに驚きすぎた女は気づいていないが、ダグラスが耳まで赤くしているのを悪友らが見たら、どれほどからかわれただろうか。
「…………」
「なに、急に静かになって」
「……馬を操作するってのはな、お前が思っているより難しいんだよ。静かにしてろ」
男は知らない。
女が自分の名前を言っていないことについて、すっかり忘れていることを。
「えっ、そうなんだ……え、でもさっき私の手を掴んだ人を馬車を操りながらひねったよね? そんな難しいことを戦いながらできるって凄いね!」
「…………」
女は知らない。
男が名前を教えてもらえなかったことに思いのほか傷ついており、女が名前を教えてくれるまでは名前を呼ばないと決めたことを。
二人の冒険記の行く先はどこへやら――凸凹コンビの長旅は、今始まったのだった。
続編を書きました。
ご興味がありましたら、ぜひお読みください。
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