リリコ
どうしていつもこうなるのだろう。
4度目の恋愛が失敗に終わった時、リリコは天井の黒いシミを見ていた。
彼氏との別れ話は電話ひとつで終わり、そのままベッドから起き上がる気力もなかった。だから、ただシミを見ていた。目の前にあるものが、それ以外になかったのだ。
リリコの恋愛は、大抵振られて終わる。
性格の割に可愛らしい顔をしているせいで、寄ってくる男は多いけれど、時間が経つにつれて男は皆去っていく。性格が悪いなんて、リリコ自身そんな風には思っていない。付き合った相手の為に、最大限に時間を割くし、本気で愛するし、相手を信用する。まるで聖母のようじゃないかと思うことさえある。
けれど、恋愛関係はいつも短命である。
「僕らの愛は桜のようであってはならない、松の木のように末永く愛を育もう」と言ってきた彼との関係でさえ、1年と持たなかった。
あえて言うならば、皮肉にもそれは短命で鮮やかに散る桜のような恋愛そのものだった。
リリコは天井のシミを見ながら、毎度恋愛が終わる度に考えることと同じことを、また思った。
あの日々は何だったのだろう。
笑い合い、情熱的な言葉を交わし、身も心も捧げた日々。
必ず一緒にいる未来を作ろうと約束し、それを信じた自分。
あれは一体何だったのだろう。
まるで幻のようでもあり、現実のようでもある。
けれど、どちらにしても全て嘘だったということだけは確かだ。
リリコはまだ、シミを見ていた。振られて涙を流す度にそのシミは大きくなっていくように思えた。
恋愛は、失敗に終われば全て不毛である。
リリコは若い頃はそういう考えの持ち主ではなかったが、今はもう綺麗事は言っていられない。良い経験になった、思い出になった、などと言っていられる時期は過ぎてしまった。
流れる涙が目尻のシワに入り込むようになり、涙を拭く自分の手にも張りがなく、挙句酒に逃げれば翌日は胃がシクシク痛む。
恋愛が失敗に終わってしまえば、また不毛な時間を消費したということになる。
涙でシミが歪み見えなくなってくると、いよいよリリコは嗚咽し、布団の中で声を押し殺しながらも咽び泣くのを繰り返した。
悲しい。そして、寂しい。
どうしていつもこう上手くいかないのだろう。
けれど、考えたところで終わってしまったものは仕方がなく、また、相手を恨もうとはするもののそれすら上手くいかないのだった。
翌朝、リリコは身体中が痛くだるくて目が覚めた。
やはり、歳をとってからの失恋は体に来るものだ。
そう思いながらも体温計を脇に挟むと、39度の高熱だった。
本当に、体に来てしまったようだ。
朦朧とする意識の中、ピンク色のパジャマを脱ぎ、適当なパンツとセーターに着替え、会社に一報を入れてから、病院へ直行した。
一軒目の病院では10分前に受付は終了したと追い出され、死にものぐるいで二軒目の病院へ辿り着いた時、受付の女性に「症状が出てから検査に来てください」と言われ、リリコはほとんど生きた心地がしなかった。「出てますけど」と能面の様な無表情で答えた。
検査の結果、インフルエンザA型だった。
もしかしたら別れ話をしたのは、インフルエンザで頭がおかしくなっていたからじゃないだろうか。
希望的観測は、リリコの息苦しさを少し緩和してくれた。けれど、無意味だった。
リリコは1週間自宅療養することになった。
昨日まで彼氏だった男に連絡をすると、3つの文字が画面に浮かんだ。
お大事に
それだけだった。
足腰や肩の関節が痛み、頭は沸騰していた。目眩がし、昨日見た天井のシミはふわふわ宙を漂った。
その夜は地獄のような苦しみを味わった。身体中が汗だくになった。
翌日には薬のお陰で熱も下がり、シミはしっかりと天井に張り付いていた。
冷静な頭、痛くない身体、安定した視界、確かな記憶。全てが元通りだ。
けれど、こっちの世界の方が地獄だった。
何も思い出せない、考えられないほどの苦しみを味わっていた方が、むしろ幸せだ。別れたという実感が押し寄せてくることはなく、どれほど素っ気ない返答をされたか思い出す事もない。
今の方が余計に寂しい。
下の階のリビングで、騒がしい物音がする。
昨日まで聞こえなかった気がするけれど、気のせいかも知れない。
父親の怒鳴り声だ。彼は横暴な男だ。口先ばかりで何も行動しない駄目な男の典型だ。
リリコの目にまた涙が浮かんだが、天井のシミを見ると涙は流れ落ちずに留まった。
「リリコってさ、人生の中でまるで恋愛が全てみたいじゃん。自分がどうしても愛されたいみたいな」
リリコの脳裏に昔の彼氏に言われた言葉が蘇った。
欲しいのは愛情。
欲しいのは愛情。
リリコは祈りのように呟いた。