02 チェリーピンクの少女
朝日の光を感じて目を開ける。
夢は見なかった。
天井は屋敷のもので、私がいるのは変わらず青マジの世界だった。
幸い熱は下がったようで、簡単に起き上がる事ができた。
改めて部屋を見回してみる。
ベッドは簡素ながらも質が良く、サイドテーブルが付いている。
昨日飲んだポタージュのお皿は無くなっていて、コップには新しく水が注がれていた。
他には一人用の机と、数冊だけ本が並んだ本棚が置かれている。
本棚のとなりには時計があって、今の時刻は6時過ぎだった。
母が屋敷で朝の支度をしている時間だから、探せばどこかにいるだろう。
でも私はまだ屋敷の事をよく知らないし、母には母の仕事があるから邪魔はしたくない。
時間がある時に様子を見に来てくれるだろうから、私は自分の知っている事を整理することにした。
私はアリシア=メラルーカ。8歳。
だけど、この世界の事をゲームの世界として知っている。
こういうの、別のゲームでも見た事がある。
主人公が過去や物語の中に飛ばされるトリップもの。
つまり私は、異世界転生しているという事になる。
まずは私について思い出そうとした。
異世界転生する前の、いわゆる前世の私のこと。
日本の東京で生活していた。男性声優にハマっていて、推し声優の出ているドラマCDや乙女ゲームを買いまくっていた記憶がある。
だけど、自分にはどんな家族がいて、何歳まで生きていてというようなプロフィールは全然思い出せない。
かろうじて大学に通っていた事は覚えていた。
化学とか物理とかよくわからなくて、文系の大学に行ったはず。
そこまで考えて、廊下の方から足音が聞こえてきたので扉を開けてみる。
「母さま、おはよう」
「アリシア! おはよう、もう動けるのね」
廊下を歩いていたのは母だった。
手に持っているトレーには細かく切られた野菜と鶏肉のスープと、柔らかいパンが一切れ。私の朝食のようだ。
「熱はもう下がったかしら」
母の手が私の額に伸びる。
ボサボサの髪を払われて、母の姿がよく見えた。
明るい茶色の髪に深緑の瞳をしていて、丈の長いメイド服を身につけている。
私と同じ色の髪と瞳。
親子だから当たり前だけど、私はこの人の娘なんだと改めて思った。
前世の事を詳しく思い出せなくて良かった。
だって家族や友人の事を覚えていたら、絶対に寂しくなってしまうから。
私の今の家族はメラルーカ家で、カーライン家に仕えている。
その事を自分の事として受け入れられるのが一番だ。
「まだぼんやりしてるわね。今日はそこの部屋でゆっくり休みなさい」
私が寝ていた部屋は、私が屋敷で過ごすための部屋だったらしい。
メラルーカ家の人間は、カーライン家の敷地にある屋敷とは別の家に住んでいるが、使用人部屋の区域にそれぞれ部屋を頂いているそうだ。
厨房やお手洗いの場所を教えてもらって、仕事に戻る母を見送った。
私の部屋というならあるものを使って大丈夫だろう。
机の上には羽ペンがあり、本棚には新品のノートが何冊かあった。
そのうちの一冊。一番小さく持ち歩きやすそうなものを取って、覚えている事を書き留めることにした。
『青マジ』と書こうとして、この世界の文字では書けない事に気がつく。
いや、ローマ字とか平仮名のように音の通りに書くことはできるけれど。
恐る恐るペンを動かすと、無事日本語で『青マジ』と書くことができていた。
このスキルは助かる。異世界転生なんて話をしたら、頭がおかしくなったと思われるに違いない。
暗号の要領で日本語が使えるなら、このノートは日本語で書こう。
ちなみにこの世界の言葉の読み書きはバッチリだ。
教養不足で主人に恥じることの無いように、家庭教師の先生に簡単な歴史なども含めて教わっている。
生まれたのがメラルーカ家で良かった。
異世界転生ものといえば、普通はヒロインとか悪役令嬢になると思うけど。
「悪役令嬢……」
私が前世の事を思い出したきっかけ、リズベット=カーラインは悪役令嬢だった。
炎に包まれる少女の姿を思い出す。
炎と同じ色の瞳は憎悪で歪められ、大きな敵意が溢れ出ている。
このまま成長したら、彼女は主人公を、誰かを傷つけようとするのだろうか。
そう考えると恐ろしくなって、血の気がひいてくる。
ガチャリ!
重苦しい思考は容赦なく開けられた扉の音に打ち切られた。
驚いて振り返ると小さな女の子、幼いリズベットが扉の前に立っている。
チェリーピンクの瞳がこちらを見ていた。
また記憶の少女が重なりかけた時。
「アリシア! げんきになったのね!」
頭に響くほどの大きな声でそう言うと、リズベットは元気よく私に向かって駆け寄ってきた。
それはもう転びそうな勢いで、反射的に椅子から降りて受け止めようとする。
屈んだ私の胸に、リズベットは勢いそのままに飛び込んだ。
小さな頭が鳩尾にヒットして噎せかける。
「わたし、リズベットよ!」
ガバッと顔を上げたリズベットは、記憶の少女とは似ても似つかない、それはそれは楽しそうな笑顔だった。