984 森から日常へ
ぱふっ、と自室のベッドに転移し、知ってる天井を見上げてうふっと笑った。
「……ただいま」
大きく深呼吸して、誰に言うでもなく、口の中で小さく呟く。
「ぉぉおかえりなさいませっ!!」
びくっと飛び上がると同時に、つむじ風がオレを包んだ。
え、早すぎない? いや、速すぎる、だろうか。
「マリーさん、ただいま。よく分かったね」
「当然です! マリーは、まだかまだかと日々繊細に神経を尖らせておりましたので! もはや1キロ先の敵意も感じとれるほどに! ユータ様の気配など、10キロ先でも感知できます!」
うん、それはもう特殊能力の範囲を超えているね。そして1キロ先の敵意はもう、見逃してあげて。
「ユータ様が不足して不足して、私はもう……危うく呪術に手を出しそうに……」
「え゛っ?!」
それは大変に聞き捨てならない。そもそも呪術で一体なにをしようとするのか。
「あの、マリーさん? その呪術ってどんな……? オレ、呪われる?」
あ、いやむしろティアがいるから、そういう系統は弾かれるのか。その場合マリーさんが危……なくはないか。たぶん。
「そんなこといたしません! あの、こちらです……」
そっ……と何か差し出され、思わず生首や何かだったらどうしようとビクっとしたものの、華奢な両手で差し出されたのは、その手に相応しいかわいらしいものだった。
「ぬいぐるみ? かわいいね!」
『えええ~かわいいわ! 私もほしい!』
『スオーも』
『ぼくもほしい!』
『おれがもらってやってもいい』
……オレは知っている。モモと蘇芳はともかく、シロは絶対ボロボロにするでしょう。チャトの目なんて、完全に獲物として狙っている。
――ユータの偶像なの! ラピスもほしいの! ちゃんと部隊で祀るの!!
やめて?! それ、聖域にってことでしょう?! なんかスゴイものが宿ってしまいそうだから!
もしかして、と思ったけどやっぱりそうなんだね。
マリーさんの手の平に乗ったかわいらしい人型ぬいぐるみは、どうもオレがモデルらしい。
あの、普通にぬいぐるみを作ったって言ってくれないかな……?
「マリーはこの形代にユータ様を見出し、日々祈りを捧げて御身を整え、愚物を贄として捧げることで――」
うん、ちょっと普通の人形の扱いと違うかな。オレへの扱いとしても間違ってると思うけど。
ぬいぐるみに捧げられた悪人たちが気の毒……でもないか。どうせ結果は同じだ。
「えーっと、普通にぬいぐるみとして扱ってあげればいいんじゃないかな……とりあえず、贄は捧げないで……?」
そのうち、邪神とか召喚されそうだから。
「そ、そんな! では、日々何を糧とされるのです?!」
「ぬいぐるみに糧はいらないよ……」
手触りのいいぬいぐるみは、オレだとは思えないけど、とてもかわいらしい。
本当に器用だ。普段は重機なのに。
こういうの、人気出そうだけどな。自然とデフォルメされた造形は、あっちの世界では見慣れたものだけど、この世界では非常に目新しい。
王都でカロルス様ぬいぐるみ、とか発売されたらすごいことになりそう。
デフォルメとか、受け入れにくいのだろうか。
「ねえオレにも作ってほしいな……こういうの」
「ユータ様の形代ですか?! ご本人が持つとなると、それはそれはご利益が……」
「形代って言わないで?! ぬいぐるみ! 普通のぬいぐるみがほしいの! あと、オレのじゃないけど……シロとか、みんなのぬいぐるみがあったらかわいいなって。ほら、そのぬいぐるみと一緒に置くとかわいいと思わない?」
はっと口を噤んだマリーさんが、じっくりオレとその周囲を見回して、そして、両頬に手を当てた。
ふわっと染まった顔が、可愛らしい……とても呼吸が荒いことを除けば。
「あと、カロルス様とかもあればいいな! あの、リアルにじゃなくて、こういう風に簡略化されたやつ!」
「やりましょう! 私も、形代として側に沿えていただいて……」
ぬいぐるみのオレを見つめて、うふふふ、と笑う顔がちょっと怖い。どうやらこの分だと館中の人がぬいぐるみ化されることになりそう。
ドレスを縫うよりきっと簡単だから、今、戸口にびっしり貼りついているメイドさんズの力をもってすれば、あっと言う間にできそうだ。
「あの、オレが持って帰る分も作ってほしいんだけど……作ってくれる?」
「「「もちろんです!」」」
マリーさん以外の声も多分にエコーがかかって聞こえたから、相当量ができそうだ。
「いくらでも用意しましょう! 少なくとも自分用、ユータ様用、エリーシャ様用、館用、保管用、鑑賞用、布教用――」
待って待って、エリーシャ様用はともかく、他はいる?! そもそも鑑賞と保管するための自分用じゃないの?!
鼻息も荒く駆けていったメイドさん一同を見送って、とても余計なことを言ったような気がしてきた。
で、でもぬいぐるみがたくさんあってもそう困りは……いや、誰かをかたどったぬいぐるみなんて、捨てにくいことこの上ないね?! すごく困るかも。各自、自分のぬいぐるみは自分で処分するようにしよう。
なんとなくエネルギーを消耗したようなこの感覚、誰かに似ていると思えば、ヌヌゥさん……? アレと一緒にしてはマリーさんに失礼だろうか。それともヌヌゥさんに失礼?
答えの出ない問いを浮かべつつ、執務室の扉を少しだけ開けた。
いないのかな、と思ったのだけど……。
部屋の中央に、目当ての人がいた。
いつも、大きな気配を漂わせる大きな人。だけど、今は幻のように、存在感がない。
目を閉じ、抜き身の剣を持って、ゆっくりと、とてもゆっくりと体を動かしている。
髪の先まで意識が通っているかのような、隙のない動き。
精霊舞いに似ているな、と思った。
物音ひとつ、呼吸の音ひとつしない、ピンと静かな空気。
極限まで抑えられた気配の中、全身にみなぎる力を完全に内に閉じ込めた、見る者の息を止めるような、舞い。
カチン、と収められた剣の音で我に返ると、ブルーの瞳が開いてオレを見た。
つう、とこめかみに汗が伝っていくのが見える。
「おう、おかえり」
さっきまでの戦神が、当たり前のようににっと笑って、僅かに両手を広げた。
「――っ、ただいま! ねえ、今のなに?!」
反射的に思い切り飛び込んで、ぎゅうと抱きしめる熱い腕を全身に感じる。
ああ、ホッとする。まだ、オレには必要だって思う。
「なにって、何だ?」
「すごかった! 鍛錬?」
一気に上がった視界の中、少し体を離してブルーの双眸を見つめる。
動き自体はゆっくりだったのに、珍しく少し息が上がっている。
分かるよ、オレも精霊舞いの時、そうだから。すさまじいまでの集中と、研ぎ澄ませた意識が、まるで別の領域に行くかのような感覚。
「そうだな、これなら室内でもできる」
カロルス様は、誰にも教わることなく、こんなことができるのか。
こういうのを、天賦の才って言うのだ。
感極まって目を潤ませるオレに、カロルス様が何でもないように笑う。
「絶対あいつらにバレねえようにサボろうと思ってな! すげえだろ、これはバレたことねえ」
……潤んだ瞳が、一気に乾燥していく。
「……サボってる現場がバレなくても、仕事量でバレるじゃない」
「それはそれ、だ!」
オレの唇から、深い吐息が垂れ落ちた。
さっきまでの神々しいほどの戦神を返してほしい。
むくれるオレに、カロルス様は『なんで怒ってんだ?』と不思議そうな顔をしたのだった。