946 ランクアップの機会
滑らかな漆黒の被毛にブラシを滑らせ、梳いたそばから顔を突っ込んだ。
あったかい。気持ちいい。
機嫌よさそうにゆったり揺れていた尻尾が、ついでのようにオレの後頭部を叩いていく。
むっと顔を上げると、素知らぬふり。
横になったルーの前足の間に体を割り込ませ、勝手に腕枕にした。うーん、腕枕は、人間の方が柔らかいな……。
ふわふわ柔らかい、胸元のたっぷりした被毛がお布団代わりだ。
「……ねえ、やっぱりもったいなかったかなあ」
「何がだ」
分かってるんじゃない? と思うけど、もう一度言葉にする。
「Bランク。上げてもらった方が良かったのかなあ」
「呼び名が変わるだけのことだ」
「そう……かなあ? 結構色々変わると思うけど」
くすっと笑った。
そうでなければ、みんな必死にランクアップしないよ?
Bランクになれるかも、なってもいいって言われた時、顔を見合わせたオレたちは確信した。
3人とも、同じ気持ちだって。
タクトでさえ、なんともいえない顔をしていたから。
ギルマスの、にやりと笑った顔を思い出す。
「――なんだ、飛び上がって喜ぶかと思ったが」
全然、そうは思っていなさそうな顔。むしろ、オレたちの反応が想定内であったと言わんばかりの。
ラキが、オレとタクトへしっかり視線を合わせる。
オレとタクトも、視線を交わしてラキへ笑みを向けた。
「ご想像の通り~、僕らはCランクでいいです~」
にこっと笑って、向き直ったラキがギルマスへ返事を返す。
「本当に? それでいいのね?」
ぎゅっと両手を握り合わせていたジョージさんが、わずかに安堵を滲ませてオレたちを見つめた。
「僕は、それでいいよ~。階段はひとつひとつ登って確認したいから~」
「俺もいいぜ! なんか……楽しくねえっつうか。ズルしたみてえだし!」
「うん、せっかくだもん。もったいないよ! Cランクをちゃんと味わってから、次に行きたいよ」
ふふっと笑って、どこかスッキリした気分になった。
「Bランクになる機会を逃す方が、勿体ねえとは思わねえのか。これを逃せば、Bランク試験は普通に受けてもらうっつうことだからな? 落ちてから泣き言言うなよ?」
「あっ、そ、そうか……。でも、なんだか……なんでだろう、嬉しくなくて」
せっかく3人で頑張る機会が、減ってしまう。一緒に頑張って、一緒に喜ぶ機会が、減ってしまう。
ドキドキして、わくわくする大事な、大事な機会が。
「今Bランクに上げてやろうかって話があんのに、次の試験で落ちたりしねえよ! だって次のランクアップ試験する頃には、もっと強くなってるからな!」
「そうだね~、試験内容的にも、今実力が認められているなら難しくはなさそう~」
お、オレはそこまで楽観的に考えられはしないけど、だけど――そうだなあ、嫌だけど、でも、落ちてもいい。
3人で悔しくて泣いて、次頑張るぞって機会になっても、それもいい。
少なくとも、その時はそう思えないだろうけども。
「……そうかよ! じゃあそれが最終決定として伝えるからな?」
珍しくカラリと大きく笑ったギルマスの顔を思い出して、釣られるように笑った。
うん、もったいなかった。
Bランクにならなくて良かった。
せっかくCランクになって嬉しかったのに、それを味わえないなんて。
「もったいないこと、しないでよかった!」
だって、オレたちの時間はまだまだある。
見て、この小さな手。
早く大きくなりたい。
でも、ゆっくり大きくなりたい。
カロルス様みたいだな、と笑った。
両方、言われている気がする。
カロルス様も、こんな気分だったのかな。
「オレが大きくなるのは、もったいない?」
「そんなわけがあるか。さっさと幼児を卒業して、俺から離れろ」
「え? 幼児じゃなくなっても、オレ、変わらないよ? ずっとこうしてルーとごろごろして、撫でて、ぎゅってして、一緒に寝るよ」
「…………馬鹿が」
憎まれ口は随分小さくて、金の瞳はそっぽを向いたまま。
大丈夫だよ、だってほら、シロやモモたちを見て分かるでしょう? オレ、昔からこうだよ。何も変わってないでしょう。
ふわふわの毛並に体を寄せて、大きな体をめいっぱい抱きしめる。
オレの身体がすっぽり埋もれてしまって、両耳を、頬を、首を、くすぐる漆黒の毛並みが気持ちいい。
「オレが大きくなっても、ルーは大きいままだね」
「当たり前だ」
「あっ、でも、人型のルーは越えられるかもよ?!」
ハッ、と小馬鹿にして鼻を鳴らされた。
「カロルス様は……ちょっと難しいかもだけど、ルーはそこまで難しくないと思うんだけど?!」
人型ルーの姿を思い浮かべる。
ぎゅっと引き締まった肢体はしっかり鍛え上げられているけれど、それでもカロルス様みたいに『でっかい』感じじゃない。可能性を感じる。
人型ルーを確認したくて、策を巡らせた結果、いいことを思いついた。
「そうだ、この間きき湯をしていたんだけど、ルーもやろっか! 小さい湯船をいっぱい用意するから、人型になってね!」
「なんだそれは」
食べ物じゃないから、そこまで興味をもってなさそうだけど。でも、金の瞳と、耳とヒゲはこちらを向いた。
「面白いお湯がいっぱいあるよ! ワインとか、ミルクのお風呂なんかに入るんだよ!」
「ワインの……?」
そうかルーもお酒好きだもんね。
オレは満面の笑みを向けて最後の一押しをした。
「ルーはのぼせないだろうから、ワイン飲みながらワイン風呂でもいいよ! チーズとか用意する?」
「……」
すんごく酔っ払いそうだけど、ルーなら大丈夫だろう。
興味が完全にワイン風呂に向いているから、薬草風呂なんかはなくてもいいかな。ルーの嗅覚じゃキツイかもしれないし。
ワインと、ミルクと、ハーブと……ふと、仏頂面でフローラルなお花風呂に入っているルーを思い浮かべて吹き出した。
うん、フローラル風呂は絶対用意しよう。花びらとかいっぱい浮かべようかな。お湯に蜂蜜とか入れてもいいかもしれない。
甘い、甘い香りに包まれたルー。
いっぱいの花びらに囲まれて。
それは、とても幸せな光景のように思えて、オレはいそいそと準備を始めたのだった。