943 きき湯
……美味しそうだなあ。
漂ってくるのは、バターとスパイスの香り。
真っ白な帽子をかぶった長方形にナイフを入れれば、しっとりオレンジ色の断面が現れた。
たっぷり詰めたナッツ類が、目で見て楽しめるほどたっぷり入っている。
いいなあ。
ふんわりしっとり、柔らかなケーキを頬張れば、華やかなスパイスの香り。
噛みしめれば、ゴリゴリするほどたっぷりのナッツが香ばしく。
白く美しいデコレーションになったチーズクリームが、甘酸っぱさと滑らかさを足して……。
そう思いはするのだけど。
だけど、お腹はいっぱいだ。
だけど、ちょっとだけ。ひとくちの半分くらいなら……。
白とオレンジの境目あたりを狙って、ほんの少しだけフォークに乗せ、ぱくっと口へ入れた。
「わあ……」
香る香る! そうか、味より何より先にくるのが香りだから。
ぎゅうっと詰まったたくさんの香り。
スパイス、バター、卵、ナッツ、ドライフルーツ、洋酒。
花束みたいに、たくさんの香り。贅沢だな、と思う。
「紅茶に合うわね~! とっても美味しいわ!」
「なんか、上品だね」
「よくわからんが美味いな! いつもと違う匂いがするぞ」
確かに紅茶に合う! そうだ、チャイなんかも作ればいいかもしれない。
カロルス様は相変わらずだけど、美味しいならまあいい。
スッと半口だけ食べてギブアップしたケーキを差し出すと、嬉しそうに頬張った。
頬を膨らませてもりもり食べている様は、とてもケーキを食べている雰囲気ではないけど。
でも、幸せそうだ。
「そうだ、ケーキはお腹いっぱいだけど、お風呂ならオレだって楽しめるよ! 色んなお風呂を作って……あ、でも湯船がひとつだと一種類しか楽しめないなあ」
「風呂が何種類もあってどうすんだ」
「色んなお風呂があったら楽しいじゃない!」
何を当たり前のことを。だけど、カロルス様はいまひとつ理解できない顔で訝し気にしている。
「ねえ、お庭にいくつかお風呂を作ってもいい? 片付けるから!」
「俺はかまわねえが……」
ちら、と視線を走らせた先で、執事さんが苦笑した。
「ユータ様、たくさん湯船を作ってどうされるんです? 色んなお風呂であれば、宿の方で楽しめますよ?」
「そうか、お宿! ねえ、宿のお風呂に使えそうなアイディアだよ?! だから、お庭できき湯しようよ! オレがいっぱい作っておくから、みんなも入ればいいよ!」
「きき湯……なるほど、お湯自体が通常と違うというわけですか」
さすが執事さん、理解が早い!
「そう! お宿の色々なタイプのお風呂は楽しいんだけど、それだけじゃなくて日替わりとか月替わりのお湯があったら、もっと楽しいんじゃない?」
「それは確かに、喜ばれそうではありますね。分かりました、どのようなものか試すだけでしたら、お庭を使ってかまいませんよ」
「本当?! やった、ありがとう!」
そうと決まれば、どんなお湯を用意するか考えなきゃ!
「オレ、ちょっと準備してくる!!」
喜び勇んで飛び上がったオレは、一気に駆けて行った。
「これとこれの組み合わせはどう?」
「いいんじゃねえか? 赤身肉に合わせるのに向く清涼感ある香りだ」
「カロルス様に向いてそう!」
オレが向かったのは、もちろん厨房。スパイスやハーブのことなら、やっぱりジフだろう。
本を片手に、香りと効能の組み合わせを相談していたら、ジフが、胡乱な目でオレを見ている。
「……カロルス様を煮込むのか?」
「煮込まないよ?! 漬け込むだけ!」
「漬け込むのか……」
ちょっとだけ、表現は間違ったかもしれない。
「こっちの花系はやっぱり女性が好きそうだし、エリーシャ様たちが喜んでくれそう。セデス兄さんにも合いそう! ハーブオイルにしてマッサージ的に使うのもいいかも」
「マリネか……」
間違って……はいないかな。全身ハーブオイルでマリネされたセデス兄さんを思い浮かべて、つい吹き出した。
ひとまず、定番ジンジャー系スパイスのお風呂と、清涼感溢れるハーブ系、あとゴリゴリの薬湯系として、薬草も入れたお試し風呂もあるといいよね。
「そういえば、薬草風呂ってないの?」
「風呂に入れようと思ったことはねえな。ハーブもスパイスもな? 口に入れるもんだろ」
「じゃあ、これって結構新しい? 今度はロクサレン薬湯ブームが起こったり、なんてね!」
くすっと笑うオレに、ジフが引きつった笑みを浮かべた。
今度プレリィさんにも相談して、入浴用スパイス&ハーブのレシピレパートリーを増やしておこう。
「カロルス様~! お風呂できたよ! セデス兄さんも入る?」
「おー、行くか」
「お風呂できたよ、の声掛けが既におかしいよね。そして僕はついでなの?!」
どうやらセデス兄さんもきき湯の誘惑に勝てなかったらしい。ちなみに、女性陣はさすがにダメだと執事さんに叱られてシュンとしていたので、室内のお風呂をフローラル風呂にしておいた。あと、足湯できき湯を楽しめるようタライも並べてある。
そうか、足湯もいいね! 入浴はハードルが高くても、足湯だといろんな人が楽しめるかも。それでも女性陣は多分無理だから……男女別かなあ。
「うわ、なんかすごい匂いがする……!」
「なんだ? 風呂じゃねえ……厨房みてえな匂いだな」
目を丸くしている二人の手をぐいぐい引いて、きき湯会場へ案内する。
「あー……そうだよねえ、ユータだもんね」
「だな。確かに、『いっぱい』っつってたな」
ずらっと並んだ風呂桶に、得意満面で笑みを浮かべた。
「だってきき湯だもの! たくさんなかったら面白くないでしょう?!」
その代わり、風呂桶自体は簡略化して小さく、ずらっと並んだ様は金魚の養殖場か何かみたいだ。
思いつくままにたくさん作っていたら、他にも試したいものがいっぱい出て来たんだもの。
ミルク風呂にワイン風呂、果物風呂に塩水風呂、紅茶風呂もある。
適量なんてさっぱり分からないけど、カロルス様とセデス兄さんだから肌荒れなんてしないだろう。
最後にオレ特製、生命魔法水風呂に入れば何も問題ない。
「こ、これは……圧巻、ですね」
「執事さん! ねえ、一緒に入ろう!」
「私は結構ですよ。こんなに入ったらのぼせてしまいます」
苦笑する執事さんに、ハッとした。
そ、そうか……きき湯はそういうことも考えなきゃいけなかった。やっぱり、代わり種風呂はたくさん用意するより、1、2種にして都度楽しめる方がいいかも。浸かっては出るお風呂って、あんまりリラックスできないもんね。
「あのね、それぞれ何のお風呂かメモが貼ってあるから、みんな好きに入ってみて! それぞれ出たら、お湯で流してね! 混ざっちゃうから!」
「へえ……何このどろどろしたの。薬草……?」
こんなに色々あるのに、なぜセデス兄さんは最もハードルが高そうなところから行こうとするのか。まあ、好きにすればいいけど……。
「おお、ワインか。飲めねえのか」
「飲めるほど濃くないよ……そんなの入ったら酔っ払っちゃうよ」
「いいじゃねえか、そういうのも。つまみがほしくなるな」
いそいそワイン風呂に入ったカロルス様が、ほのかに漂うアルコールの香りに満足そうだ。
「凄いですね……ミルクや紅茶まであるのですか」
「そうだよ! お肌に良かったりするんだよ!」
「ほう……。何と言いますか、背徳的な気分です」
確かに、そういう文化がなかったら食べ物を無駄にしているみたいかな?
「ですが、非常に面白いです」
執事さんが、にっこり微笑んだ。いい感触だ。
「使えそう? お風呂だけのお店……銭湯とかどうかな?」
ロクサレンに銭湯があったら、オレが嬉しい。今のお宿の入浴施設に併設して、風呂だけ利用をもっと前に押し出してもいいかもしれない。
「これ以上人を増やしたくねえんだけどな……」
「発展しすぎて困るっていうのも、贅沢な悩みだけどねえ……」
いつの間にか赤身肉用風呂に浸かっているカロルス様と、紅茶風呂に浸っているセデス兄さんが同時に溜息を吐いた。
「でも、こういう所があったら嬉しいじゃない?」
「そうなんだよなあ……」
「本当に……! 他所でやるより絶対ウチでやった方がいいものができるに決まってるし!」
現領主様と次期領主様の深いため息を聞きながら、オレは真っ白なミルク風呂でくすくす笑ったのだった。